故郷は遠きに有りて思うもの | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

このご時世、帰省するのもままならない。

ゴールデンウィークも間近に迫りつつあるのに、おちおち故郷にも帰っていられない。

自分は通院の都合上どうしても帰らなければならないが、

自分が誰かに移したというような気まずい話だけは避けたいものである。

それはもう冗談を通り越して自責の念とか後悔しきれないものを生み出すだろうから。

 

最近は誰かが「オンライン帰省」とか言い出して、故郷の映像とか、

Google Mapを見て帰った気分になるとか、そんな事を言いだした。

なんかそこまで中途半端なリアル感で帰省するぐらいだったら後ろなんて振り返りたくない。

むしろ帰省しようなんて気を一切起こさないほうが清々する。

まあ実家がふと思って帰れるような距離だからそう思うのでしょうが。

ただ今の状況ではその「ふと」な距離でも相当に危ないので、

なんとかウィルスを押し込むには望郷の念が望郷の念のままでないといけない。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」と有名な詩にあるが、

その続きは「帰るところにあるまじや」、つまり「帰る場所ではない」ということになる。

思い出のままでとどめておかなければならない場所なのである。

 

故郷というのは特に美化されやすいもので、自分など幼少時に過ごしたイメージで帰省すると、

街中がもうスカスカで更地だらけなのに呆然とする。そして帰るたびに更地が増えていく。

親族が集まった家ももはや同じように更地になっていて跡形もない。

祖父母も全員もうこの世にはない。記憶と思い出の中にある存在になってしまった。

あのにぎやかな場所もどこに行ってしまったことだろうと嘆きながら、自宅に戻ってくる。

だから故郷というのは故郷にいても故郷を離れても遠くにあるのである。

オンラインで故郷を見ても、それは風景であり故郷ではない。

故郷というのはなんというか、現象ではなく概念なのである。

遠いのは距離ではなくて故郷と呼べる思い出のある時間なのである。

帰るたびにがっかりするものを故郷などとはとても呼べない。

故郷はどこまでも遠くにあるものなのである。

そして悲しくうたうものなのである。