「治る」という言葉の弊害 | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

新聞の広告欄とか、たまに行く本屋とか、
「発達障碍は治る」とか言葉を見るたびに、当事者としてはひどく鬱屈とした気分になる。
発達障碍は治るものではありませんから。
中にひっそりと潜めたまま生きなければならないものですから。
ひっそりと潜めた、という状態を治ったというならば、一体何がどうなっているのか。
私にはわからない。

一生引きずらなければならないものを、治ったというほど、
自分の心は白々しく出来てはいない。
ほれ見ろ、また自分の未熟な社会性で誰かが暗い顔をするのだ、
という日々をいくつ重ねてきただろう。
それを簡単に治るとか、こういう方法がありますとか、時には食事療法とか、
本人の心構えで済まないことを済ませることにしてもらっても困る。

自分も治そうとするならば、それなりの施設と、それなりのスタッフと、
そして何より多大な金額と時間がかかる。
本格的な治療費を賄うために自分の収入はあまりにも少ない。
そこまでやっても、なおどうにもならないのが人の心である。
認知行動療法とか森田療法とか簡単に言うけれど、
色々な療法をやるべき人間も、自分の収入がなければ何ともならないのである。
そして手を尽くしても、未だ未解明なものが多いのが、発達障碍なのである。

あまり簡単に「病気や障碍が治る」という言葉を口にしていただきたくない、と思う今日この頃。