障碍者として生きることの恥じらい | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

一応これでも途中まで健常者として生活を送ってきたので、
最初から障碍を抱えているのとは話が異なるだろうと思う。
いや、まあ、細かく言えば発達障碍は大体生まれつきなんですが。
「健常者として過ごすこと」がどこで破綻するかによって、いろいろ微妙な心境の変化をもたらすのである。
就学前に診断される場合もあれば、自分のように社会人になって数年で診断される場合もある。
この二つの場合、心境の変化とか受容に差がないとは言い切れない。

一応発達しきってから障碍とか言われるのは、そんなにたやすいことではない。
こんな身分上いろいろな福祉助成を頂きながら生活しているが、
交通関係で明らかに福祉助成の券を他人に見せるのにはいまだに抵抗がある。
まあ、気になるなら車で出かければいいんですけどね。

それでも一応福祉カードが、昔の人に見せるような券から、
ICカードになって人に見せなくてよくなったのは本当に安心する。
いくら自分が社会性に障碍があると解っていても、それを明らかにしたくないときもある。
福祉関係の人間には自分を晒さなくてはならないが、
別に晒す必要のない人にまで晒したくはない。
日常に不意に出会う人にいきなり「自分は障碍者だ」と言ってみろ。
間違いなく引かれる。その程度のことは心が欠けていてもなんとなくわかる。
わかるから見せたくないのである。

こう、知的障碍者とか、いかにもな人間が自分と同じような福祉カードを、
名前が見えるように掲げてあるのを見て、何とも嫌な気分になるのは、
自分にはその辺の羞恥心が半端にあるからなのだろうと思う。
自分が同じものを持っていなければわざわざ気にする必要もないことなのだから。
「知っている」「認識できる」のが問題なのである。

なんと厄介なことだろうか。