死ぬと極楽浄土とか天国に行けるとかそういうことを謳っている宗教があるが、
果たして天国に行くことが救いなのだろうかという問いを投げかける。
例えば私などは公認までされた発達障碍者であるが、
天国で病が治癒された状態で復活する、とされた場合、
果たして私の「発達」は治癒されているのか。
もし治癒された場合、それは「私」であるのか。
私自身の人格は精神が規定する、とまではいわないが、
障碍がある以上、ある程度枷にはめられた人格にならざるを得ない。
それが「治った」という場合の私の精神とは一体なんであるか。
それは私にはわからない。
ついでにその「治った」状態で親戚やら友人と話をするとき、
それはやっぱり本当に「私」なのであろうか。
「人が変わったようだ」とか言われたら本当に人格が変貌しているのである。
字義通りの意味で。
「空気が読めない、社会性のない」人格が治癒されたときに、
「空気が読める」私というのは存在しうるかどうか。
障碍がありがたいとか言うわけではないが、
ある状態とない状態は明らかに異なる状態であるのだと思う。
状態の差異を神仏が認めるのかどうか。
歪んだ人格が矯正されたとき、元あった私という人格が、本当にどうなるのか、
それが明らかにならないと、おちおち死んでいられない。
空気が読める私は、現状私ではありえないからである。
空気が読めないのも、言動が何らかの形で奇妙なのも、私の人格の一部分である。
規範的、模範的なものを求めて、私はどこに行くのか。
それこそ「God knows」と言い切られるようなことである。
私も知らない。この世にある誰も知りえない。
知りえないことについては沈黙しなければならない。
ただ、私は現状ある私が一番私に近いと、それだけしか知らない。
私を剥奪した私は私であるのだろうか。
たとえそれが疾病・障碍であったとしても。
その状態で行ける天国とは一体どのようなものであるのか。
私は私のままで天国には行けないのか。
それならば南無地獄大菩薩と唱えていたほうが自分を剥奪されないで済むかもしれない、
真っ先に地獄に落ちたほうが私を保てるのだ、などと、
熱病に魘されたような訳の分からないことを言ってみる。