よくスピリチュアルな人が言うような、
「生まれるには理由がある」とかいう訳のわからん台詞には、
「障碍を持つにも理由がある」とかいうのだろうか。全くひどい話である。
私がそれを選ぶことができるなら、まずそれは選ばないだろう、
よほど来世が(あると万が一にも仮定して)その分見返りがもらえるというのでもなければ賛成しない。
ええ、見返りを求める時点で本当に浅ましい人格だとは思います。
これが自分が自分であることを考えられるなら、まだいい方じゃないの、とか更に浅ましいことを考える。
同じ障碍でも、一体知的障碍の人々はまず会うこともないため、
存在がベールに包まれている。
たまに見かけるとすれば、本当に一目でわかるようなレベルになってくるが、
さて、私は何をしたらいいのだろうか。ただ黙って見つめるしか出来る事がないというのも、
何とも辛い話である。
知的障碍のグループホームや作業所が近くにでもあるのだろう、
我が家の前はたまにいかにもな方々が保護者(であろう)人に腕を繋がれながら歩いて行く。
そういう光景を目の当たりにすると、運命とは残酷なものであるとは思う。
私自身、親がいなくなったら一体どうするのだろう、と本当に途方に暮れるときもあるが、
彼らは親がいないという事態を知覚することが何処まで出来るのだろうか。
そしてその時、適切な保護がなければ、一体何が起き得るのだろうか。
頭ごなしにしかりつけるだけで解決できるのなら、世の中は如何に平和だろう。
保護者がどうにも出来ないものを、一介の市民がどうにか出来るとは思えない。
そもそも自分はそういう感情に対して明らかに感知力が鈍い。
無理なものは無理である。同じ趣味などでもやって何らかの共通点がない限り、徒労でしかない。
で、いざ手帳をめくってみれば、種類は違っても障碍の等級が同じとかだったりすれば、
本当に不公平というか、福祉制度って一体何なのだろう、と罪悪感に陥る。
こちらは主体的に(不十分でも)役場なり支援施設に掛け合って、福祉制度の内容を聞き出し、
自分の状況を判断して、これを使用するとか考える事が出来る。
それに対して同じ等級の知的障碍であるとすれば、その文章を読む事自体が制限されるような状態なので、
そもそもサービスの何たるかが解っていないような事態も生じてくる。
そして自分の置かれている状況を、何処まで他人に簡単にでも説明できるのか、と考えると、
なんとも理不尽とは恐ろしいものよ、と言う念を強くする。
共生社会、ノーマライゼーション、とか御託を述べるならまだいいさ。
本当にそれは完璧に実現可能なのかい。と頭を抱える毎日である。