あらかじめ、お断り。紅葉は綺麗なんだけれど、途中で感じた精神世界の話はちょっと重いので、ご了承ください。
今年の紅葉はタイミングが読みづらい。都市部ではもう散り始めているところもあるのに、山ではまだ緑だったりする。色々検索をしていて、気になった場所があるので行ってみた。山間部の峠道を走るのが好きなライダーには有名な場所だけれど、この時期にはあまり行った記憶がない。前回は春だった。

高台にある駐車場がほぼ満車状態。バイクは少なかったけれど、車は他県ナンバーも多い。昭和の名車も来ていたけれど、全て他県ナンバー。このバイクなどはもはや高級外車をも凌ぐ値段となっている。

周辺は広場とレストハウスだけでなのに、どうしてこんなに混んでいるのかと不思議に思っていたけれど、湖の見える方向に歩いて、その理由が理解できた。眼下には真っ赤な絶景が広がっていたのである。

湖に降りる遊歩道の有る斜面全体が真っ赤に色づいていたのである。普段は単なる緑化斜面だと思っていたので、まるで印象が違う。

扇型になっている護岸の斜面全体にドウダンツツジが植えられており、紅葉真っ盛りだった。

よく見ると一部は枯れ始めていて、赤に茶色が混ざっていた。一週間前はもっと綺麗だったらしい。

展望台に上る階段の木々は赤と緑が混ざった状態。

高台の広場は赤、黄、緑が混ざり合って美しい。

黄色の絨毯もあった。イチョウとは違った樹形と色合いが、これまた美しい。

この位置から湖を見ただけでは、真っ赤なドウダンツツジの斜面は見えない。だからこそ、歩いて行って見えた時の衝撃が大きい。

この日の目的はもう一つあって、古い旅籠食堂を訪問すること。そこはジビエを食べさせることで知られており、屋根の下に獲って来たイノシシや熊の皮をぶら下げていた名物店だったけれど、現在改装中で、熊の毛皮は店内に仕舞ってあった。
前回来た時に、もの凄く話好きのご主人が「今度来た時には是非とも名物のクマ肉を食べてください。でも、あるかどうかはその時次第なので、事前に確認してください」と言われていたのである。他の店では食べられない名物料理だという話だったけれど、別にクマ肉を食べるつもりもなかったので、何の連絡もせずに覗いてみた。
ところが、挨拶をしたら、ヒグマの肉が手に入ったところだと言うことで、成り行き上、クマ鍋を食べることになってしまった。

馬刺しも出て来た。ニンニクとショウガもたっぷり付いて来た。美味しそうな色どり。

最近はガスコンロがほとんどなのに、この店はデカいプロパンボンベを使っていた。不愛想な地元のおばちゃんが息を切らしながら運んできたものだから、俺が持ってやろうかと声を掛けたら、急に愛想がよくなった。接客向きではないキャラクターであるけれど、人は善い感じがした。それをきっかけに、おばちゃんとよく話してみたら、おばちゃんは湖ができる前の部落の村民で、子供の頃はクマを飼っていたらしい。小熊の頃から育てたので芸もできるようになったそうだ。しかも、クマは木の実や小麦など植物性の餌だけで元気に育ち、肉類は一切食べさせたことが無かったらしい。

つまり、最近ニュースを賑わす凶暴なクマたちは親や先祖が肉食を覚えさせたから、そのような性格に変わってしまったのである。動物は一度食べられたものは次からも食べられると認識するようになる。人間を食べた虎やクマは人喰いになる。これは犬(野犬、オオカミ)も同じ。逆に言えば、最初から肉を与えなければ、肉食獣だと思われている動物も草食動物に成り得るのである。ペットも同じはず。ペットフードなどない時代のペットは人間の残飯だったではないか。江戸時代までの犬たちは肉など食べてはいない。試したことはないけれど、虎もライオンも肉を最初から与えなければ菜食でも生きられるのではないかと思う。
パンダはクマなのに竹や笹しか食べないけれど、肉を食べてしまったパンダは肉も食べるようになる。これは人間も全く同じ。つまり我々の食生活は親や先祖による教育(洗脳)によるものだという証拠なのだ。親が最初からビーガンであれば、子供は一生肉を食べなくても済む身体と心を持つのである。

この問題点はかなり前から気付いたものの、真剣に考えずに放置していたことが非常に悔やまれる。自分は現在、ほとんど肉を食べなくなっているけれど、それは、宇宙に存在している万物の生命や神様のような存在を強く意識するようになってから自然に芽生えた感情。誰かに諭されたり、強制されたものではない。他人に自慢することでもなく、自分自身の心の在り方の問題なのだ。ついでに少しだけ話すと、私は生命に関わる特殊な力(不治&難病を治癒)を使うのだけれど、その力とこの問題はとても深く関わっている確信があるのだ。従って、私にとっては一過性の感情などと言う軽いものではなく、重大な責任と意味がある。
PS:これに関してお問い合わせがあるので、少しだけ加筆。いわゆる人類の知っている表面的な施術(心理作用や身体反応&刺激を使った技術も使えるけれど、それは極一部の技)とは次元が異なり、崇高な意志があるため、誰でも助けるわけではありません。また普段から不徳な言動を行って来たくせに、困った時にだけすがるような魂の穢れた人間を助けるほど暇ではありません。その反対に、誠実に生きて来たのに一時的に迷ってしまった(邪悪な意思が無い、無知ゆえの間違い)場合は、神霊の可否の声を確認の上、お手伝い致します。ご自身の態度をよく省察してからお問い合わせください。
今の人類の食生活を見直してみれば、大部分の人間は自分たちの食欲だけのために動物類を殺生しているわけだ。食べるものが動物以外にない環境に住む民族は狩猟しなければ生きられないという必然悪的な理由も一見正しいように思っていたけれど、よく考えると、肉食をしなければならないような場所に住まなければよいわけであるから、不可避の理由とはならないと思うようになってきた。つまり、それらの人は肉食と殺生をセットで選択したのである。仮にそのような環境で生まれたとしても、後から問題に気付いた時点で変えることはできる。私も含めて明治以降の日本人はそのような環境に生まれてしまったけれど、絶対に変えられない理由は見つからない。
古代の家畜は、共同生活を営むための相棒的な存在であったけれど、今の家畜は使役よりも食用が主体となっている。生存のために必要な殺生ではなく、人間の必要以上の欲望のために森林を伐採して食肉用の動物たちを放牧して繁殖させているわけである。何という自分勝手で残虐な行為なのであろうか。

しかも、現代人のほとんどは自分自身は手を汚さずに、他人が殺した死肉をお店で購入して喰らっている。その上にグルメ文化は成り立っているのである。美容や健康を理由に持ち出すのは我々人間の勝手な言い訳だと思う。肉を食べない草食獣たちのスタイル、毛並みはどれも美しいではないか。動物性たんぱくを取ってムキムキになりたがる男性も多いけれど、ゴリラ、牛馬は肉など食べずとも筋肉の塊である。これらの事実を分析すれば、現代の栄養学、医学、体育学などには嘘が多いことがわかる。肉食を必要とする根拠が無い。つまり肉食はあくまで人間のエゴである。必要性などなく、食欲という快楽のためにする凶悪で残酷な行為なのだと思う。更に解釈の次元を広げれば、虫や植物などの命にまでその考えは及ぶこととなる。とにかく汚染されてしまっている我々の頭脳と習慣から生まれてくる発想はどれもこれも乱れた現世の言い訳じみたものに思えて来る。

この矛盾と人間自身の軽薄で自分勝手なエゴに気付くべき。
肉食文化は人間が生命維持のため以上に、グルメという欲望を満たすために他の動物を計画的に繁殖&殺戮する行為に他ならないのだ。この点はペット動物のブリーダーなどにも言えること。不適合な種は殺処分される。こんな恐ろしい残虐な思想と行為をしていることに誰も気付かない社会と世界は異常だと思う。魂が病んでいる。

(ビーガンジャパン)
もしもグルメな宇宙人が人間を狩るために地球に来たらどうするのか?昔「プレデター」という映画で、人間を狩猟して楽しむ宇宙人が登場したけれど、あれが狩猟だけでなくグルメとして人肉を食べていたらどう思うのだろうか?さらには、人間をさらって、繁殖させ、生まれたばかりの赤ん坊が一番の珍味だと言って、嬉しそうにムシャムシャ食べていたらどうだろうか?我々は同じことをして来たのだと思う。これを考えた上で、それでも自分は食の愉しみ(グルメ)を楽しみたい、食欲には負ける・・・などと言い訳ができるだろうか?

この様に異常な世界を作ってしまった文化や産業は淘汰されるべきだろう。ビーガンという言葉や概念は英国で生まれたとされているけれど、それ以前から自然と共に生きて来た日本人は明治以前は、海産物を除いてほぼビーガンだった。古代より長年そうして生きて来たけれど、栄養障害もなく、健全な生活を続けてきたはず。明治以前に生まれていた農村の女性たちの体力はすさまじく、米俵を数俵肩に担いで運ぶことさえできていた。江戸期の飛脚や職人たちの恐るべき体力に関する記録は数多く残っている。
欧米のビーガニズムには古代アジアの信仰の影響もみられ、その起源は我が国と似たようなもの。動物が貴重であることもあるけれど、生命に対する尊厳や信仰が背景にはある。古代の日本の神々とインド哲学にも共通する点も多いから自然と受容して融合して来たのだと思う。現代語訳では「完全菜食主義」「脱搾取」などと訳されるようだけれど、私にはピンとこないので「戒殺生」という言葉を作り、個人的に使うことにする。この概念は他の生命を人間のエゴのために殺生することを戒めるわけであるから、食事だけではなく、皮革類やバッグ、帽子などの着飾るための殺生も当然含まれる。食肉と言っても、四つ足動物、鳥類、魚類、哺乳類、爬虫類、虫、それらの玉子など色々な種類がある。それらをどう考えるのかは世界中でそれぞれの解釈がなされている。また、元々が体外の有機物(生命)を食べながら生きているのが人間であるから、一気に完全不殺生の境地に成れるはずもない。なので、自分自身は今の自分ができる限りの戒殺生を試行錯誤しているところ。これが本当に辛いし、難しいし、苦しい。しかし、嘆いたところで問題解決にはならないから、実践あるのみ。いくら言い訳をしたところで、肉食という罪深い行為の因果関係を解決することにはならないので、自分自身の精神と魂のレベルが試されているのだと思う。

今までこの問題に気付かずに関連産業やビジネスをやっている人たちには、可哀想だけれど、前途は無いと思うし、あるべきではないと思う。出発点が間違っていたと思う。最初に肉食を覚えた(教えた)人類がその発端。超古代にまで思いを巡らせると、古代において世界に共通して嫌われた人種がいることに気付く。被差別民と称されるけれど、彼らの生業としていた稼業は殺生と関係が深い。農耕民は殺生(殺人)の経験も知識もないけれど、殺生を稼業とする人間たちはその道のプロ。戦闘者、殺戮者としての能力が高かったわけだ。この人種たちがもしも野放しにされたらどうなるか?神仏や自然に対する畏敬の念を持たない殺戮者が地上にあふれることになる。古代の差別は当時の規制であり、この危険性を認識していたが故の措置だったのではないかと考えられる。さらにぶっ飛んだ仮説を借りると、自然と共に生きていた超古代地球を侵略しに来た地球外生命体がおり、彼らは自分たちを神格化して各地の創世物語や日本の天孫降臨故事を作ったという内容。その時にそれまでの価値観や文明が変わってしまったというのである。実は自分は同様の発想を学生時代から持っていたので、同じような奇抜な考えをする人がいることに少し嬉しくなってしまった(笑)
話を戻すと、我が国においては特に明治と戦後の悪影響はとても大きいと感じる。それは、ビーガンであった日本国民に肉食を教えたのが明治の西洋志向に偏ったいびつな政財界人たちだったからだ。ちなみに明治天皇すり替え説というものがあるけれど、私は個人的に有り得ると思っている。維新というこの肉食を含む信仰や伝統的思想が侵害される窮地において、それを諭すどころか同調したのである。それまでの日本で肉食は穢れであった。皇室は何度か舶来の文明を試そうとしたらしいけれど、そのたびに無意識な拒絶反応が起こり、受容できなかったそうである。このように重要な日本精神の骨子が一時的な世界情勢の変化ごときで変えられてしまうことは非常に不自然だと思う。しかも根拠は「西洋に遅れるから、欧米に馬鹿にされるから、早く西洋化するために真似をする」というもの以外は見当たらない。このような軽薄な理由だけで大改悪がなされてしまったわけだ。西洋の重火器を持った侵略者の手先である田舎侍たちに国全体を乗っ取られたのではないのか?とてつもない闇を感じる。

この部分は23年夏に追記:最近はこれらの史実に呼応するかのように、当時の文献や伝聞に反駁する動画なども拡散され始めたようだけれど、歴史の常で、そんなものは巧妙な言論統制により容易に捏造される。誤魔化しがきかないのは霊性のみ。私が教わった啓示では我が国の大きな霊性の変化は二度ある。最初は日本古来の神々を追いやった侵略者たちが政権を樹立した時。次が明治。魂や霊性が穢れると国も穢れる。特に明治期はそれまで悠久の歴史と神聖な伝統を守って来たはずの一族がたった一代でそこまで変われるものだろうか?変えてよいものだろうか?勝手に変えることは自分の先祖や神霊に対する裏切りと冒涜であるはず。結果は間違いなく天罰が下る(亡国)。私が受けている啓示では関係者は途中でそれに気付き修正を行ったつもりであるけれど、霊性の足りないものが行ったために元に戻せず、今に至っている。その解決策はあるけれど、当事者とご縁がつながった(神意の細い糸をたどることができた)場合のみ伝えろと言われているので、ここで詳しく言うつもりはないし、脅されても教えない。このような発言は昔なら不敬罪などに相当するのかもしれないけれど、間違った権力者(関係者)が「不敬」という場合は痛いところを突かれた反応である。また、この啓示は神霊の名を語り、世界を改悪した邪悪な勢力全てに共通するメッセージでもあるから、島国の日本の中で不敬だ失礼だと言うようなレベルの話でもない。そればかりか、地球全体が本当の神霊の声や意志を捻じ曲げた邪悪な勢力に蝕まれているのである。同時に世界中にこれに気付いて神霊の元に集う同志がいるはず。私は彼らとともに闘う。

もしも2023年夏以降に天皇の霊性を強調or擁護する動画が出回り始めたり、当ブログに言論統制が及んだら、私の記事が関係勢力に監視されている証拠である可能性が高い。なぜなら南北朝正閏論は昔からあるけれど、現時点で霊性の問題提起をしているのはネット上で私のみであるから。そして裏表の意味で、真実である可能性が大きいので隠蔽しようとする存在がいることが証明されることとなる。しかし、ある意味、霊性の欺瞞を自覚しているだけマシかもしれない。それは関係者にも霊的レベルが高い人がいる証拠。私が述べていることの重要性は一般人にはよくわからないはず。わからない人はスルーしていただいて結構。念のために言っておくと、隠蔽は対人類にのみ通じる行為。神霊に隠せるはずはない。隠したツケは必ず回って来る。そして私はそれらの存在から、緊急事態なので、敢えて発言するように命じられたので書いているのみ。神霊の警告信号だと思う。ちなみに人々が大間違いをしている点であるけれど、霊性は血の遺伝をしない。神霊自体はパソコンで言えばOSみたいな基本プログラムを構成するために必要な叡智や電気信号などの存在。それを理解している技術者がシステムエンジニア(聖人、予言者)。その叡智と技術を理解して取り扱うことのできる力の素質が霊性(資格、能力)。神霊が認めた人にしか資格と能力は与えられない。それは人間の血統や遺伝などの概念とは無縁で、叡智が集積したタイミングと場所でその人にSEの任務(宿命)として発現するのだと思う。だから聖人たちは何の脈絡もなく突然出現するものなのである。人間の概念である物理や地理、生理学などの制約とは無縁。血統や肉体的な遺伝形質はOSで駆動するパソコン本体(箱)である。背格好、人相などの肉体的特徴が似ていても、それは単なるパソコンの外観と同じことであって、内部に存在する霊性とは関係がないのであるが、見る目がなく感じることができない人たちは表面(見た目やキャリア)にとらわれる。悪い意味で全くもって人間的な発想である。

似ているのがチベットのダライラマの転生と継承の伝統。継承者は仏様の啓示によって決まるので、特定の血統や場所とは無関係。遠く離れた農村の子供が継承することもある。現在インドにいらっしゃるダライラマ14世はラサから車で二千キロも離れた農村に出現した三歳児だった。お家制度があるから権力争いが防げるという説もあるけれど、この様な生前の霊的伝承と厳格な霊性審査があれば、跡目争いが起きるはずがない。むしろその霊性を見ないから起きるのである。
このように聖人たちの生前に血統との必然的な因果関係は無いし、子孫にも同じ能力が受け継がれるとは限らない。伝承されるものは教育や生育環境による知識、技術などの表面的な情報のみ。霊性はご本人とその言動(思想)が全て。子孫や関係者が血統を特別扱い(自慢)したり、強引に結び付けたがるのは、当人に資質(能力)がないから。単に先祖の権勢に執着して(利用して)自分の優位を守りたいだけなのである。その手の人たちは名声や歴史、お墓、寺社などの物質的存在を崇めるけれど、それは霊性を持っておらず、判別することができないからそうなる。パソコンの中身(性能、霊性)が理解できないと、外観(箱)ばかり気にすることになる。本当に神霊を理解している者であれば、そのような卑しい態度をむしろ戒めるべきなのだ。縁起担ぎや迷信を戒めるべき存在の寺社業界やいわゆるスピリチュアル系の現状と似ている。むしろ、霊的な存在を無理やりに政治や商売に利用するなどとは神霊に対する冒涜以外の何物でもない。不敬罪や天罰はそういう連中に下る。これを戒めたのが聖典に登場する「偶像礼拝の禁止」である。ちなみに私の言う神霊は人間の宗教などよりも上の概念であり、そこから見た場合、キリストや釈迦などの聖人たちは宇宙のOSを管理運用するために遣わされたSEとなる。

優秀なSEはユーザー(一般人)に便利なようにパソコンの取り扱い説明をして使えるようにしてくれる。その時の便宜的な基本ルールを具現化したものがOS(宗教や思想)。世界に普及しているOSは複数あるけれど、機能は大体同じ。更新しないと現実に合わなくなる。権力者や支配者の血統は単なるOSが入っている箱(構造物)のブランドに過ぎない。単なる箱(容器)なので、そこに霊性(叡智、能力)は無い。パソコンにはメンテナンスも必要だし、OSも更新しなければ時代遅れとなる。これを霊性のない人間たちが勘違いするからお家騒動や血統、民族問題が起こる。日本の問題はSEの資格がない者が勝手にOSを変えようとしたこと。失敗に気付いて大慌てで海賊版のリカバリーディスクを使用するとかえってメインプログラムが深層まで重大な損傷を受けてしまうことになる。そうなると箱やメモリーなどのハード部品をいくら変えたところで直らない。優秀なSEによる修理が必要。こういう重大問題を解決してくれる存在を人類は救世主と呼ぶわけだが、早く来てくれないと人類のパソコンは動かなくなりそうである。神霊は箱を後生大事に守っているだけの連中(血統)にSEの資格(霊性)は与えない。そこには確実な能力と叡智が必要。同様に世界の大失敗は古代にも起きており、それを修復するために遣わされたのが我々もよく知っている歴代の聖人たち。ところが盲目な愚衆たちは誰が聖人なのかをわからず、権力者(王、首長)との区別をすることもできない。そもそも聖人の上に支配者として王(帝)があること自体が矛盾。逆である。王(首長)は聖人ご自身の人間界における役職か、或いは神霊のお作りになったOSを忠実に実行するべきオペレーターや追加機能としてのプログラム的存在のはずなのである。古代インド哲学ではすでに指摘されていた。この霊性を理解できない唯物論者たちが使い始めたのが、政教分離とお金に依存する経済システム。腐敗した宗教団体の干渉は避けるべきだけれど、治世の背景には哲学や信仰があるべき。それを取り去ったら単なる功利的な人間の概念が残るだけ。そのような政治家や官僚からは不合理で人情や道徳観念の欠如したお金中心の物質文明社会しか生まれない。人々がこの地球的大欺瞞に気付いて目覚めない限り、聖人が現れても消される。だから世界はこうなっているのである。このカラクリがわかると、世界を牛耳っている勢力の支配界にある人々(財界の著名人や大企業家)やメディアの言論は信用するべきではないということがわかるはず。彼らは自分たちの世界を守るために都合が良い理論を構築する。反するものは「貧乏人の理論である」「滅亡する」「不幸になる」と脅かすのである。実はこれらの詭弁こそが彼らの欺瞞を証明しているのである。彼らは自分たちの言う通りにしないと、不幸になる、出世できない、お金持ちになれないシステムと価値観を作っているのである。だから詭弁の言う通りにしないと現世界では生きられないようになっている。だったら、そうではない世界を作ればよいだけの話である。お金や物がなくても幸せであり、心が益々豊かで幸福感に満たされれる世界を作ればよいのだけれど、それをさせないように妨害するのである。そのような時は歴史上の聖人たちのおっしゃったことを思い出すと良い。連中の理論とは真逆である。騙されてはいけない。

話が長くなるのでこの辺で終了。続きはまたの機会に。
江戸末期に西洋文明を導入する時点で本当の知識人や賢者による精査が必要であったけれど、強大な暴力(武力)によって強引に西洋化されてしまったことが今の禍根となっていることは間違いない。同時にそれを制御できなかった将軍家と幕藩体制にも責任はある。彼らの主張の理由付けとなる決まり文句は「○○国では・・・であるから我が国も・・・」というもの。日本の欠点を指摘する場合に、英国では、フランスでは、ドイツでは・・・と、何事も欧米の方が進んでいて正しいという前提で話すのが特徴だった。当時のいわゆる知識人は東洋文化に精通していなくても、西洋の新しい情報を知っているだけでもてはやされていたのだ。これは昭和にまで尾を引き、日本文化の教養もなく漢字も書けないのに、外国語をちょっと話せるだけでバイリンガルだ、帰国子女だともてはやされていたことがある。まことに節操のない舶来志向なのだけれど、それが格好いいと思っていたのだから情けない。
戦後は更に侵略者による日本の国力(精神面と物質面)を弱体化させる政策も関係している。日本の生活や文化を西洋化(米国化)させるとともに、自立できる能力を奪うことが目的。つまり自分たちに歯向かうことができないように、精神や思想を改造(洗脳)する。食生活を強制的に変えるため(米食からパン食)、習慣化させるのが容易な学校給食制度が利用されたわけだ。これによって休耕田と荒れ地が増え、日本の農業力は弱体化させられたのと同時に、海外産の食糧(特に小麦と食肉)の依存度が高まりつつある。まるでそれまでの伝統的な食文化と生活が間違った、時代遅れで不健康であるかのような政治的プロパガンダを行って、国民を騙してきたのである。

恐ろしいことに、海外からの食糧供給が止まれば、国民は短時間で餓死してしまう状況にあるのだ。しかも、最近は生命線である水源地や天然資源の存在する土地を外国人に売り渡し、水道や電力までを海外企業に委託管理させるなどと言い出した政治家もいるわけだ。この行為は正に売国であるし、国も国民も自立できなくなってしまうような危機的状況になっているにもかかわらず、このことを知らない国民が多すぎる。私は個人的に関係行政機関に意見書を何度も提出しているけれど、全く改善される気配はなく、手遅れになることを非常に危惧している。この重大性が理解できる人たちは今すぐ抵抗&阻止するべきである。
元々自分自身も肉食やグルメは大好きであったし、そちらの分野にも関わっていたので、生活と頭を切り替える難しさと辛さは重々承知している。どうして、そのような悪癖、悪習慣、異常な思想を身に付けてしまったのか非常に悔やんでいる。因果関係を考えれば、我々の先祖、親、先輩たちの認識不足によって子孫は洗脳され殺生道に身を落としてしまうことになったのだ。肉食グルメの快楽を知ってしまったが故の中毒症状は非常に厄介。長年身に染み付いてしまった習慣や癖はなかなか治すことが難しい。

おそらく、中毒となってしまった人間たちや既得権益者は経済や生活を理由に肉食を正当化しようとするはず。しかし、殺生する限り、結局この矛盾と問題点は消えない。それを知りつつ、尚も同じ道を進むのであれば、それは確信犯であり共犯者である。魂の問題、当人の選択である。大体の場合、わかっちゃいるけど止められない状態なのだと思う。そういう自分自身も、友達と一緒の時には許すとか、祭日やパーティーの時にはまぁ良いかなどと言い訳をしていたのであるが、最近はそういう嘘や言い訳をすること自体が、自分の目覚めつつある魂を冒涜する汚らわしい行為であるという自覚が強くなってきたので、抵抗感が薄れて来た。他人様にどう思われようと、どうでも良い問題。自分の魂と宇宙の課題なのだ。昔はTVコマーシャルの焼き肉やハムなどの映像を見ると唾液が無意識に溢れて来たものであるが、最近は静観できるようになっている。このようなことは古来からインド哲学などでは既に問題提起済みであるけれど当時はお坊さんなどの聖職者がやることで、自分とは無関係だと思っていたのである。まるで真実が見えていなかった。しかし、この問題に気付いてしまった以上、もう元には戻れない。
共同体において、飲食と楽曲、ダンスは結束を高め、人間関係を円滑にする上でとても大切な文化だと思う。ところが、現在は殺生肉食文化を主流としたものになりつつあることが大問題。それ以外の方法はいくらでもあるはずだけれど、肉が無いと食べた気がしないと言うわけだ。お酒が無いと盛り上がらないというのも似たような安直な発想だと思う。その為にビーガンやベジタリアン、宗教的な制約があると、あの人は付き合いづらい&面倒くさいという差別を受けて、敬遠されたり仲間外れにされる可能性が大きい。意志が強く、孤独も恐れない人ならともかく、大勢はこのプレッシャーと疎外感を恐れるものだと思う。そうすると、仲間外れに成りたくないから、まぁいいか、と妥協して本来の目的や意義を見失うこととなりがち。この悪循環を断ち切らなければこの殺生の輪廻を永遠に繰り返すだけである。この悪循環輪廻から抜け出すためには、人間たち全体が殺生の意味に気付いて理解を深めるしかないと思う。自分ができないからと言って否定するのは真実を見失うことになるし、自分がしているからと言って他者を責めるのも感情に流れがち。それだけ我々の受けて来た洗脳は深いので、そう簡単に直せるものではない。まずは、気付くことから始めるべきだと思う。
蛇足だけれど、類友や仲間を集めるための会合やパーティーは同様の価値観や思想を持っている人の結束を強め、うるさい人物、面倒くさい人物、考えや気が合わない人物、雰囲気を乱す人物を排除する意味もある。しかし、私が述べているのはこのような狭いコミュニティーのことではなく、地球や宇宙全体に関する内容であるところを誤解無きように。更に付け加えると、多数決(民主主義)の理論は知恵のある世界には正しいけれど、知恵のない世界の多数決は間違った道を選ぶことになってしまう。これも現時点での大問題だと思う。

ついでに言うと、コロナ禍ではこれらの問題が露呈して来たと思う。既得権益者たちが作り上げた社会や経済、生活文化などの矛盾と問題点が露になっている。様々な産業が○○キャンペーンを繰り広げ、補償や支援、優遇措置を求めているけれど、よく観察すれば、それらの業種は人間が生きるためにそれほど重要ではなく、趣味や快楽のために成り立っていた内容であることがわかる。だから有事の際には必要とされない。つまり極端な言い方をすれば、元々存在しなくても問題が無かった業種であり、それらに完全依存した仕事や生活の在り方にこそ本当の問題があるということなのだ。もしも、それらの快楽がないと、充実感が無い、盛り上がらない、元気が出ないと感じるのであれは、それは麻薬中毒の症状と同じであることに気付くべき。○○しなければダメ、という安直な枠にはまった発想が考える自由を奪い、悪循環に引きずり込む原因なのだ。
それらの悪循環の枠を取り去って自由に考えれば、それに成り代わるものとして、本当に人間と自然&宇宙との調和のために必要な産業や文化などのアイディアが生まれてくるはず。なので、既得権益者たちが保身のための口実とするような経済や文明の発展が停滞することは無く、自然淘汰と交替や変化が生まれることとなる。総合的に見た人類の生活や文化は止まることはないのである。未来はそちらに注力するべきで、既得権益者の損得勘定に惑わされるべきではないだろう。これからも既得権益者たちは間違いなく自分たちを正当化するために経済不況、失業、栄養不足や健康障害などを理由とした都合の良い言い訳を作り、庶民の不安を煽るはずだけれど、それは麻薬の売人たちが顧客を離さないように中毒状態を継続させるための詭弁だと思う。我々はそれに惑わされずに真実を見極めなければならないと思う。

従って、コロナ禍はその事実に気付いて改めるチャンスでもあるから、単なるその場しのぎの現状維持路線ではなく、将来への転換する機会にするべき。この転換する際の負担は計り知れないけれど、世界中の人類がその意義に気付いて痛みを分かち合いつつ、協力するべきだと思う。
以前にこれに関する投稿をしたところ関係者らしい人から「迷惑だ」というコメントをいただいたことがあるけれど、無自覚な既得権益者側としては自然な反応であり、想定内。悪循環に気付いていない人の頭脳も同じ発想しかできないから、今後もそういう人は自覚するまで変わらないだろうけれど、そのような人間たちに付き合う時間は残されていない。利己的で低俗なコメントの対応に時間を割くよりも、今すぐに悪循環を断ち切るための行動を起こすべき。現実問題としては既得権益者と権力者は同義語みたいなものなので、彼ら自身が気付いて、自分たちの既得権益を守る姿勢を改め、是正しなければ変わらない。それがなされなければ人類は滅びるか、おそらく天罰が下ることになるのだろう。いや、間違いなく天罰はある。私はかねてからそれに関する秘密の啓示を受けていたけれど、そのシステムが理解できるようになってきている。これは天による選民(魂の選択)だと思う。

せっかく作ってくれたクマ鍋なのだけれど、これらのことが頭の中を駆け巡って、全く美味しく感じられなかった。折角大サービスしてくれたご主人には申し訳ない。一方で久し振りだし、人間の付き合いだから食べられるだろうと思って、それを言い訳に注文してしまった自分自身もまだまだ半端で情けないと深く反省せずにはいられなかった。食材は間違いなく美味しいものであるにもかかわらず、精神的な葛藤がここまで食欲に影響することを再認識させられることとなった。
それと重要な課題に自然淘汰や調和のための殺生(必要悪)の存在もあり、そのバランスをどう考えるのかということ。自然界では殺生に至る手前で警告が出現し、発生前に沈静化するはずだけれど、人間はその限界を超えている。殺生とは反対の過剰な人権論や動物愛護論も、自然界の調和を乱すことでは同じ。海産物の乱獲、ビジネスとしてのペット産業、縄張りを教えないための害獣化など。自然界は限界を超えた場合に厳しいしっぺ返しをする。バランスを取り戻すために生き物に異常な行動をとらせる。過密な環境になると自分の子供を食べる、新しいハーレムの王は古いハーレムの子供たちを抹殺して、自分の子孫を残そうとする、集団自殺をするなど・・・。この人類バージョンが戦争ではないだろうか。
私が頭の中でこんなに厄介なことをグルグル考えていることをご存じなかった親切なご主人は鹿肉と鮎の塩焼きまでサービスしてくれたのだけれど、食べることができず、持ち帰って友人にお譲りいたしました。これらの問答は自分自身の頭と心の中で帰結しているので、他者からはそれとはわからなかったのが、せめてもの罪滅ぼし。しかし、この問答と思索の過程はとても重要で有意義であると思い、記録の意味で書き残した次第。

とにかく、この出来事の後の胃腸と精神状態の不快感は凄まじく、戒殺生の重要性を再認識させられた。この理念は他人を説得したり、強制するものではなく、本人がその真実に気づいた時点で自然に発生するものだと思う。なので、他人を責めるつもりはないけれど、できるだけ早く気付いて欲しいと思う。私にクマ鍋を提供してくれたご主人だってとても愛想がよい邪心のない人物であると思うし、大事なことに気付いていないだけなのだと思う。気付いてしまったら、人生が変わる可能性は大いにある。人間や動植物、自然を見る視点も変わるので付き合い方も変化するはず。何を隠そう、私自身がそうであったし、私の話を聞いて変わった人がかなりいる。飲食業のやり方を変えた友人もいるし、食用ではない家畜を飼い始めた、農業を始めた、食費が激減して喜んでいる・・・等々。

(ビーガンジャパン)
若い子たちにこの話をすると、「私はまだ若いからグルメを楽しみたい時期なんだよねえ」とか言う人がいるけれど、それは言い換えれば「若くて食欲が旺盛だから、動物殺しはまだ止めらない年ごろなんだよねえ」と言うのと同じことだし、戦争の悲惨さを見ていながら「ある程度、人を殺しまくってみないと平和の意味はわからないんだよねえ」と言うのと似ている気がする。洗脳を解くのは早ければ早いほど良いし、洗脳期間は長いほど更生するのが難しくなるのに、発想が反対である。できれば最初から洗脳や汚染を避けるべき。すでにこれに気付いているご両親は幸いである。子供たちに我々が受け継いでしまった負の遺産を継がせてはならない。自分は反面教師的な環境で育ったので、独力で気付いたのが中学生。その時点でも十分すぎるほど汚染されており、遅かったと感じる。実践を始められたのはそのずっと後になってしまった。

(天台宗のサイトより拝借)
どうしてこのように大事なことを大人たちは子供に教えてくれなかったのか。親も教師もお坊さんや牧師さんというような聖職者たちも教えてくれた人は私の周りに誰もいなかった。つまり大多数の聖職者は偽物。あるいは、そこまでの認識に到達できていないレベルの人間たち。ついでに言えば、この問題点を指摘したのは原始的な信仰とインド系列の哲学のみ。他のメジャーな宗教は人間以外の生き物を明らかに差別しており、生贄と認識している。これこそが彼らの根っこにある差別意識、優越感であり、そこから侵略や略奪の発想が生まれるのだ。歴史を見れば明らかな通り、これらの宗教が奉じる神様は、信者の多少とは関係なく偽物。明らかに人間中心に偽造したマニュアルだと思う。その偽の宗教の信者が地球上には圧倒的多数を占めているのだから、最大の皮肉&矛盾だと思う。非常に残念に思ったけれど、調べてみると、我が国も明治時代以前には神仏や道徳思想と融合した教育が行われていたようなのである。それらが強引な西洋化政策と戦後の洗脳教育によって、偽の宗教の悪影響を受け、本来の崇高な精神世界が壊滅させられつつあると言える。従って、我々現代日本人は生まれた時から間違った価値観や思想により洗脳&汚染されてしまっている。最近、日本の古代から受け継がれてきた精神文明の素晴らしさが再認識されつつあるけれど、明治維新の当事者たちはそれに気付かず物質文明の脅威ばかりに気を取られて大間違いをしてしまったのではないかと思わざるを得ない。今回の投稿を読んだ方で、これに気付く人が一人でも増えてくれたら良いと思う。自覚した人が増えると、他の生命がそれに比例して救われるはず。救われる命が増えれば、これと関係して侵略や戦争という発想にも変化が生まれると信じている。
祖父母たちからは「ご飯粒一粒でも粗末にしたら眼がつぶれる」と教わった。日本では各地に殺生した生き物たちの慰霊碑(クジラ塚、魚塚など)が古来より存在しているけれど、それらが日本の美徳教育の片鱗であったことを今頃理解できた気がする。

そんなことで感慨深く店を出ると屋根の上は秋空と見事な紅葉だった。

コロナ禍で廃業してしまったお店がいくつかあった。放置された置物や、荒れ放題の草花を見ていると、ご主人は草木や庭が大好きであったであろうことを想像させる。

ヒノキ葺きの屋根や庭木にシダ類を人工的に這わせていて、お手入れに気を遣っていたことがよくわかる。

実家が無ければ、引っ越してソバ屋でもやりたいと思うほどの鄙びた良い雰囲気のお店だった。

すっかり日が傾いて山陰に隠れる少し前に駐車場に戻った。

西日に透ける紅葉が見事だった。

「戒殺生」精進いたします。