イスラム教も聖書と同様に、昔、神が人間に伝えたものとされているが、時代とともに内容と解釈が変質している。しかし、厳格に古来のしきたりを守っている人たちには神の言葉のエッセンスが残っている。それを、現代の人間の一時的で不安定な価値観や概念で判断すること自体が危険。女性の服装、断食、飲酒などの禁忌には全て意味と理由がある。その原義を知らないままで、現代の価値観を当てはめることには非常な怒りを覚える。変える資格があるのは神の声を直接聞くことができる人間だけなのだ。信仰を失ったリーダーは道を誤る。二千年近い教義と理念をどうして100年にも満たない時間で発生した、人間の一時的なアイディアや価値観で変えることができるのか?変わってしまったと言うことは、そこに神との断絶があったと言う証拠である。これは明治以降の日本にも起こった。これは自然の掟、節度を越えた行為を人間がするようになったことと関係がある。つまり、科学(神の理論)の無節操な運用である。一般人が革命などで台頭するようになり、宗教的な拘束力が薄れたことと同期している。その為、神の掟は「便利」「合理的」などの価値観により無視されるようになったのである。そこから人間の暴走は急加速した。
(1968年のテヘラン)この時代、神はないがしろにされた。今、宗教の原義を忘れて抗議、米国擁護している人たちはこの流れにいる人たちだと言ってよい。
神の真言(本意)は多数決ではない。少なくとも、質の悪い愚かな人間の多数決など、何の意味もない。その時々の権力や損得勘定で変動するいい加減な存在である。従って、デモの参加者の数、処罰された人間の数には意味がない。愚民が多いほど、信仰は捻じ曲げられ、国は病む。処罰する方法はそれぞれが判断するべき。神の声を聴く耳を持たない愚民が多ければ、浄化が激化し大規模になるのは自然。そして、神が本当にお怒りになった場合、人間が騒いでいる大虐殺の規模では済まない災禍が訪れる。反対に、神の言葉を理解、感じることができる人が増えれば、望みがある。
国や共同体の中心こそ神である。ところがこの絆があると邪悪なモノは介入できなくなる。だから、それを分断しようとする勢力がある。その連中の考えた神に反逆する理念が「民主主義」や「共産主義」などである。この二つは相対する勢力のように見えるけれど、神から見たら、人間が作った概念なので、五十歩百歩のような存在。いずれも、神の領域を越えたり、無視をすることは、宇宙を破壊することと同義である。愚かな人間(民衆)が主になれるはずがない。神(宇宙の摂理)によって作られた世界を、一時的なアイディア(思想や主義)でコントロールできるはずがない。それ以外の○○主義、市場経済などの概念も同様。○○主義的な発想をするようになったのは民衆(一般人)が市民革命に成功した結果、自分たちがまるで神の摂理を超越したつもりになった時から始まる。この傲慢な態度は科学の世界でも起こり、それらの人たちが恐ろしい発明をしてしまうのである。
実際に資本主義大国の傍若無人さは神をも恐れない罰当たりな行為である。それらの国々の多くは聖書系の宗教を信仰しているけれど、商人が神よりも大きな顔をしている。国際法も軽視し、もはや宗教的な教義など存在しない。そもそも、現在騒動を起こしている人間たちはその地に元から住んでいたのか?そうでなければ、明らかに外来した異物である。介入、干渉、侵略を目的とした害国人ではないのか?これらの行為ができるようになったのはやはり限度を超えた科学知識によるものである。
口出しをする神職や宗教界を排除&弾圧して、自分たちの都合が良い社会を作るために生まれた発想が支配者側の「政教分離」である。これに対して、「信教の自由を保障するために国家は干渉しない」とする政教分離の考え方もあるとされるが、いずれにしても信仰や教義は政治や社会に反映されない点では同じである。これは、あたかも自分達が寛容だから信教の自由を与えているとでも言っているようだが、実際には宗教に干渉させないための、人間が作った詭弁である。
世界中のほとんどの宗教では、利己的欲望に基づく他者への攻撃や搾取は悪とされるから、戦争や侵略は起きないはずなのである。神が戦うべき相手は「悪」のみ。ところが、これを厳格に守ると、侵略や戦争ができなくなってしまい、商売が成り立たなくなる。そこで邪悪な連中は宗教(一神教)を利用して合法的に侵略を始めた。それが布教を隠れ蓑とした植民地政策である。自分たちの神を押し売りしながら侵略を正当化したのである。邪悪な存在は神がいる国や文明に対しては「政教分離」を押し付けて、民と神の絆を分断し、信仰を奪う。神がいなくなると、神を騙る人間が介入して来る。軍人、役人、商人などである。
人間が犯した神を冒涜する最大の欺瞞であり、罪悪こそ、穢れた政教一致により行われた一連の植民地侵略行為なのである。本来は悪を押さえ正しい道に導くべき存在の宗教であるはずが、邪悪な商人と権力者に実権を奪われ、言いなりになっていたので、本来の政教一致ではなく邪悪な契約(関係)であった。この背信、背徳行為を懺悔しない限り、その宗教の関係者には未来永劫救いがない。それらの末裔は現在も格式だけは残り、荘厳な場所に残存しているけれど、信徒の暴走を止めることもできない。布教するという言い訳が通用しなくなった現代、連中は意図的に「悪」を作るようになった。世界に害をなす危険な存在だ、人々を苦しめる専制君主だ、テロリストだ・・・などの理由を見つけて、侵攻を正当化するのである。こういう欺瞞に騙されてはならない。
今回の騒動も同じ。その意味で、イスラムの指導者が神の原義(本意)に基づいて正しく導くのであれば、神は味方をする。ここでいう「神」は両者の元神(同一の存在)である。神を信じる者は作られた国際世論やマスメディアなどに騙されてはならない。一方で現在のイスラム教における侵略的な言動は許されるものではない。私はイスラム教に関してそれほど詳しくもなく、詳しくなりたいとも思わないので、神の啓示に従えば、自分たちの信仰と存在を守れと教えたけれど、他者を侵略(迫害)して良いなどと言ったことはないそうである。信者や関係者は今一度原点を確認したほうが良い。間違っている。その間違った発想は現在侵略をしている米国と同じであるから、互いに衝突するのは因果応報。自業自得である。
これは日本についても言えること。古来の本当の霊性を知るべき。それは、西洋化して変質させられた現代日本の価値観とは違う。もしも日本が本当の霊性を守り、神に恥ずかしくない言動をすれば神は守る。その反対は因果応報となる。日本が少し違う点は、明治に道を誤るまで、かなり長い間「政教一致」を守って来たことである。本当に霊性を感じることができる人に形式(慣習、儀式など)は無用だけれど、霊性がくなっている場合、形式がそれを補ってくれる場合がある。日本の霊性は甚だしく弱体化したけれど、それらの慣習、迷信や伝承の中に残存していた霊性のかけらがあるのだ。これこそが日本の宝物である。この宝物は、今でもアニメ、文学、芸術。民間交流、日常生活の礼儀作法などに感じることができる。だから、今の性善説社会の基礎が残ったのである。そして、その偉大な霊性は世界中の人たちに波及して、人々を覚醒しつつある。なぜなら、その神と霊性は日本だけのものではなく、世界万物に君臨する偉大な意識であるから。それが色濃く保存されて来たのが日本なのである。
だから神は「日本」を希望だとおっしゃる。その為には、明治から戦後に続く邪悪な構造を改め、健全な政教一致を取り戻さなければならない。神と民の絆を分断する「政教分離」の詭弁に騙されてはいけない。
忘れてはならない事は、世界にある全ての宗教や信仰の元となっている神は一つである。生まれた場所や時代によって表面は異なるように見ているけれど、根っこは同じである。それに気付けば、争いはなくなる。そして、信仰が生まれた状況に適応して作られた数々の戒律や作法、慣習がそれぞれ異なることは当たり前。それらはその時代、その場所に適応した内容なのである。地理、気候、存在する動植物、食生活、身体的遺伝などの違いがある。それらに基づいて説法や講義の例えと説明がなされている。従って、自分たちの理論がどこでも正しいと考えるのは神の本体を見ず、着ている衣服だけを真似しているのと同じことである。偽物が神にまねた衣装を着てやって来ても、これを各地の霊性は判別する。元が同じ御神体であるから気付いて当たり前。
本体を持たない、形骸化した神の物まね集団は外に出ると、行った先々で現地の人や社会に迷惑をかけることになる。それが「害国人」である。とにかく神の物まねをしたいので、中身のない儀式やスタイルにこだわる。それが、他所では通用せず、嫌悪されている事にも気付かない。本体を持たず、神の本質を理解していないから、物事が見えず、臨機応変な対応ができないのである。神の本体が見えないから、自分が教わった慣習や言葉がどこでも全く同じ形で存在するものだと勝手に思い込むのと同時に、変わることが怖くてできない。これこそが様々な宗教で嫌われる「偶像崇拝」の本質なのだ。他者の事ではなく、自分たちが神の本体を見ず、勝手に作りあげた概念の総称なのである。他宗教の建造物や彫像を壊して得意になっているような連中は、これが理解できない、迷惑であり、神を冒涜する存在なのである。神は決して許さない。
顔や髪を布で覆う人たちがいる。起源は「美しさや性的魅力を隠すことにより、貞操を守り、謙虚さを持つ」ためらしい。では、顔や肌を出したら貞操も謙虚さも守れないのか?未開の種族たちは今でもほぼ裸である。日本は女子供が夜に独り歩きをしても犯罪に巻き込まれることは少ない(悪化の傾向にはあるけれど)。日本は昔から性には寛容である一方、ケジメを持っていた。このケジメがないままに娯楽文化を広めた経済大国は逆に犯罪が増えてしまった。それらの人間の無節操な行為には頭から布をかぶせるのが正解である。つまり、その時代や人間性に応じた必要性から生まれた慣習なのである。その慣習に異議を唱えるのであれば、その習慣が生まれた原因となる劣悪な環境や人間性を修正するべきである。それをせず、権利ばかりを主張するのはおかしい。
この違いを感じることができ、伝統的教育として独特の感性を受け継いできたのが日本なのである。驚くべきことに、具体的な宗教組織が教えや慣習を強制したわけではないのに、民が自ら学び伝えて来たのである。大げさな儀式や行事もせず、決まった時間の礼拝などもない。するのはお祭り騒ぎと楽しくて盛り上がる行事だけ。とても軽薄で、いい加減で、まるで宗教や信仰を持たないように見える。ところがその根底にずっと流れている偉大で巨大な存在がある。これこそが日本の霊性なのである。
ケジメの無い人間は社会が差別淘汰して来た。だから、布などかぶらなくても、安心して暮らせるのだ。昔は戸締りをしていない家も多かった。お金や貴重品を落としても出て来る。特定の動植物を禁忌とする習慣もないから、あらゆる食物はありがたくいただく。その代わりに殺生の罪悪感と慈愛の心は忘れない。逆説を言えば、日本の霊性に感応した人は、その奥に同じ御神体を見ることができるから、布はかぶらず、豚肉も食べるようになる(私は同様の話を以前からして来たけれど、それがきっかけで実際にそうなった人を何人も知っている)。そして、これは日本人が他所に行けば反対に同じことが起きる。日本の慣習や価値観にとらわれると、自分も危ないし、相手に迷惑がかることになる。平和ボケをしているわけにはいかなくなり、自衛とリスク管理を学ぶ必要がある。これを表現したものがよく言われる「郷に入っては郷に従え」と言う格言なのだ。神の御神体を見ると、人は表面的な衣装やアクセサリーにはこだわらなくなるものである。
こんなに素晴らしい国があるか?霊性の国、神国なのである。感謝するとともに、世界の邪悪な勢力からこの貴重な霊性を守らなければならない!
思想や信仰はそれぞれであるし、自分たちで信じる分には問題ない。敬虔な信者の信仰心や態度には敬意を持っていたけれど、最近の言動を見ていると、認識が変わりつつある。日本には戦前からイスラム教信者(ムスリム)がいたけれど、これまでは特に文化的な摩擦や問題はあまり聞いたことが無かった。私も何度か訪ねた都内の有名モスクでは、礼拝の声も地元の風物詩とされており、嫌悪感を抱く人はいなかったと聞いている。ところが、最近の言動は何だ?とても質が落ちているように感じてしまう。これまで築いて来た友好関係を台無しにしている気がする。
自分たちで思想を信じて修養するのは勝手だけれど、信者でもない人たちに押し売りするのは失礼であり、物理的な押し売り(押し付け)は侵略である。これをわかっていない人たちがいる。自分たちの価値観や信仰を主張するばかりで、相手のことを全く考えない。他所から来たくせに、自分たちの価値観を優先しろ、法律を緩和しろ、変えろと言う。何と失礼極まりない物言いなのだろうか。無礼で自分勝手であり、侵略行為であることの自覚がない。明らかにこれまでのムスリムたちとは人間性が異なる。こういう人たちと「共生」「共存」は不可能だと思うようになって来た。我々一般人にその区別は難しいので、在日ムスリムたちが自分たちで統率するしかないだろう。それができなければ、共生は諦めてもらうしかない。
一方では日本人の寛容な人の善さにつけ込まれることになる。善意や寛容を「日本人は大人しいから、強く出れば何でも言うことを聞いてくれる」と捉える下品な人が増えている。道徳礼節を知らないものに、道徳礼節は通用しないと言うことを日本人も知るべし。
(ヒューマンアカデミー)
しかし、どうしてその様に無礼で侵略性の強い発想が生まれるのかと言う理由は、このサイトで詳しくご説明なさっている方がいる。
その部分を抜粋すると以下の通り。
なぜテロをするのかと言えば 開祖ムハンマドが暴力的な軍人だからです。 ムハンマドは商人であり宗教家であり政治家であり軍人です。 1万人規模のイスラム武装勢力を自らが指揮して 異教徒の虐殺を含む武力弾圧を実行し アラビア半島にイスラム帝国を築き、 自らが国家元首として君臨してます。 イスラム過激派は 教祖が実際に行っていた行動を真似して暴力肯定主義になるのです。 →とはいえ、テロは御法度です。 <コーラン> 2章(雌牛の章) 190節 神の道のために、お前たちに敵する者と戦え。 しかし、度を越して挑んではならない。神は度を越す者を愛したまわない。 191節 お前たちの出あったところで彼らを殺せ。お前たちが追放されたところから 彼らを追放せよ。迫害は殺害より悪い。しかし、彼らがお前たちに戦いを しない限り、聖なる礼拝堂のあたりで戦ってはならない。もし彼らが戦いを しかけるならば、彼らを殺せ。不信者の報いはこうなるのだ。 192節 しかし、彼らがやめたならば、神は寛容にして慈悲ぶかいお方である。 193節 迫害がなくなるまで、宗教が神のものになるまで、彼らと戦え。 しかし、彼らがやめたならば、無法者に対しては別として、 敵意は無用である。 → 度を越してはならない。 お前たちに戦いをしない限り、戦ってはならない。 相手がやめたならば、無法者に対しては別として、敵意は無用である。 ・・・とあります。 だから、武器を持たない一般人を巻き込む自爆テロは御法度なのです。
中東の民族紛争の歴史から生まれた古い発想を現代世界に押し付けようとすることは無理がある。しかも、地元ではない遠く離れた海外にまで武力(暴力)によって強制するのであれば明らかな侵略行為である。もしも、自分たちの一方的な侵略を正当化することが許されるようであれば、恐ろしい思想だと言うしかない。これは現在国際法を無視して信仰している大国と同じ。似た者同士だから衝突するのである。ちなみにアジア圏にもよく似た大国がある。こういう発想をする人たちに平和は作れない。イスラム教は古来から交易の歴史上アジア圏にまでその思想は普及しているけれど、非常に危険である匂いがプンプンする。世界のムスリムはこの歴史と現実を熟考するべき。
日本で心配するべき可能性は、自分たちで勝手にモスクや組織を作り、それに制限を加えた場合に、コーランに記された「迫害」という概念を使いかねない事。自分たちで勝手に禁止されている火種を持ち込んでおいて、火事になったら、放火された!と騒ぐのと同じだ。だから、既成事実を作らせてはならないのだ。モスク、土葬などは認めるべきではない。食事制限は個人的な範囲で保障すればよいことである。これまでのムスリムたちもずっと郷に入っては郷に従えの原則を遵守してきたはず。それが急に問題化するのは、明らかに今の一部のムスリムが異常だと言うことなのだ。今まで日本と友好関係を築いて来たムスリムたちにとっては大迷惑である。
ちなみに、トルコ人なら誰でもご存じの通り、クルド人はほとんどが元テロ組織関係者なのである。当然トルコ政府の鳥尻まり対象となるけれど、それを政府から迫害されているとして、難民申請をしているのが実情。難民申請を受理されないまま強引に滞在し、結婚や子作りをして何とか日本に居座ろうとしているのだ。この策略に日本政府と日本人は気付かなければならない。
https://www.youtube.com/watch?v=_ZE-UyVPY3k
日本という環境と文化に迷惑をかけるべきではない。これを理解せず、敬意を払わないのであれば、日本の神霊は決して許さない。











































































































