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雲水・ISAのブログ

日本は神の国
仁術師

昔から人混みが嫌いなのでみんなで一緒にするイベントの類が苦手。この季節のお花見がそう。桜は好きだけれど、多すぎる人間が邪魔。

だから人気がない場所に行く。

最近は住宅地にも桜並木が増えているから、人や車が集まって来る。普段は草花に関心も示さず、環境や自然問題にも興味を持たないのに、こういう時だけ騒ぐ志向性が嫌い。

ところが、私の地元にはとても雰囲気があるにもかかわらず誰も人が来ない場所があるのでした。それは、戦後に米国によって植民地化された我が国の行政と自虐史観で洗脳された国民が忘れてしまった聖地です。

大東亜戦争(太平洋戦争)の戦没者が眠る墓地です。

都内の青山墓地は桜の名所としても知られていますが、こちらは市民ですら知らない人がほとんど。

明治改悪後に作られた海軍施設(造船所)と海軍関連戦没者の関係者が眠る場所です。横須賀に海軍工廠を設けたのは、明治政府に抹殺された幕府の賢人であった小栗上野介。この人の博識と慧眼を恐れた近代日本侵略勢力が手先の日本人たちを使って口封じをしたのです。

この人が海軍の礎を築いた。だから明治維新の裏事情もご存じだった東郷平八郎は、日露戦争で勝てたのは小栗さんが海軍を作っておいてくれたお陰ですと言うようなことを述べている。これは先日の投稿で述べたので割愛。しかし、明治改悪(維新)の闇に関係する人物なので国民は知っておくべき。

 

椿の絨毯の中からタケノコが顔を出していた。

曇り空の時はこんな感じでした。春分を過ぎて陽気が強くなっていることがわかります。

戦後はGHQによる言論統制により、米国に対する批判や戦争犯罪に関する記述は全て禁止となりました。と同時に、日本は一方的な悪者とされ、兵士や関係者たちは全て戦争に加担した悪人とされたわけです。なので、その犠牲者たちを貴び崇めることすら憚れるような風潮となりました。靖国神社の戦没者たちを「英霊」と言っただけでも右翼だとみなすような馬鹿げた発想までするようになってしまったわけです。一方では当時の行政や軍部の闇を隠蔽するような過剰な国粋主義的発想も見られます。

いずれにせよ、厄介で複雑な問題だから、触らぬ神に祟りなしだという風潮が強い。その為に日本国民は「臭い物に蓋をする」ようになり、この墓地を訪れる人は墓地に眠る故人たちの子孫だけ。この現状をここに眠る故人たちはどのように思っておられるのか?

 

皮肉なことに、そのお陰でここはとても静寂。風の音や鳥の声が良く聞こえます。

墓地は階級と時代によって埋葬されている場所が異なっています。崖の下には海軍工廠が見えたはず。

墓石の銘を見ると日本各地から横須賀に出稼ぎに来ていたことがわかります。私もよそ者の家系。

当時の横須賀は東京からも近く、日本の頭脳と技術が結集した近代都市だったのです。元々は小さな漁村が近代化政策によって重要な海軍基地となったのでした。その為の移動手段として敷設されたのが横須賀線でした。

墓石はどれも質素な四角柱で、芝生広場に整然と並ぶ様子は西洋式墓地にも似ています。

階段を上った最上段にあるのが北京事変、上海事変、支那事変、大東亜戦争などに関する慰霊碑と、海軍関連事故の犠牲者たちの慰霊碑があります。そんな事件や事故があったのかと、初めて知ったものも多いです。

大きな慰霊碑、慰霊塔の傍らには機関士や下級兵士たちの墓石がありますが。粗末な石材なので風化が激しい。

しかし、考えてみれば、我々の戦中戦後の歴史は自虐史観と洗脳によってそれ以上に風化していることをしみじみと思いました。

ここを訪れると大体この辺りでお弁当を食べることにしていますが、トンビも多いので、油断をすると襲われます。ほぼ無音で後ろから来るので気付くのは難しい。

 

市内には近代海軍の英雄でもある東郷平八郎元帥の銅像が立つ三笠公園があります。

ここで4月の毎週末金土日だけ開催されているのが「横須賀ラーメン艦隊」という、全国から著名なラーメン店が集まるフェスティバル。

 

 

戦艦三笠の前が各店舗の販売ブースとなっております。遠方から出店しているラーメンを優先することに決定。

私は無類のラーメン好き。塩味、煮干し、味噌、醤油、豚骨、混ぜソバなど色々あります。全部制覇したいところですが、丼が普通サイズしかないので二三杯が限度。ハーフサイズを作って欲しいです。

琥珀煮干塩ラーメンを撮影していたら係の人から「トンビにご注意ください」と言われました。なるほど、マストにもいるし、上空からも狙っています。

二杯目は亀戸煮干しそば。両方煮干し系だったのは失敗かと思われたけれど、味が全然違ったので結果良し。

ついでにカラスたちも待機しています。彼らはトンビほど盗るのが上手くないため、先にトンビに盗らせてからそれをみんなで襲って強奪する戦法なのです。この戦法で私は鎌倉の海岸で一口も食べていないハンバーガーを後ろから持って行かれました。最初に襲撃したのがトンビで、その後をカラスたちが追いかけて横取りしていました。

最終的にトンビは襲われて獲物を落としてしまうのです。小さな獲物だと逃げきれますが、大きなものだとカラスに横取りされる確率が高くなります。

 

目の前の海はかなり澄んでいて海底がよく見えました。正面は猿島。対岸は房総半島です。

ここは泳げるのかわかりませんが、最近は「遊泳禁止」が増えている。

 

はっきり言って余計なお世話。危険喚起が目的であれば、注意だけにとどめるべきです。禁止にするのは楽しみや学習の機会を奪う行為。事故やケガは何事も自己責任が基本。そういう経験から観察力や知識を養うわけですよ。過保護にすると不自然な人間になると思います。制限や規則が増えることで居心地が悪くなりますし、人間の感知機能や学習能力が退化してしまいます。最近のコンピューターによる運転支援装置などのせいで、逆に運転が下手な人が増えてしまい、非常に走りにくいし、予想外の事故が増えているのと同じです。

昔は小さな船だったけれど、最近の渡し船はクルーザーになっています。観光客の数も増えたようです。

クルーザーになってからはまだ乗ったことがありません。小さな船はかなり揺れたので船酔いする人もいた記憶があります。近いけれど、海流が早くて、手漕ぎボートで行く場合は簡単に流されます。

猿島に渡る船の券売所は隣接する建物にありました。地元民ですがまだ入ったことがありませんでした。

こんな建物ができたんだなあと見ていると、気になる看板を発見。

中にはスパもあるみたいなのです。全く知りませんでした。

と言うわけで初めて入ってみると、銭湯みたいな雰囲気の展示がありました。

どこから温泉に入れるのだろうかと係の人に訊いてみたところ、なんと、お風呂は無いそうでした。がっかり。

実は市内の美術館で開催されているジブリ展との協賛展示だそうでした。

温泉はジブリアニメ「千と千尋の神隠し」に登場するゆばーばのお風呂を模した展示だったのです。外の看板も同じく。

先日にロボット展を見に行った時には、並行して開催されていましたが、ロボット店とは対照的にジブリ展は大行列でした。チケットは事前予約制のようですが、後日行くつもり。

銭湯を模した立体的なセットもありました。

置いてあるタブレットでカメラ映像を見ながら記念撮影ができるそうでした。

お客も少ないし、好奇心があったので試してみることに。

スタートするとお湯を流すための木のお札が降りて来ます。周囲にはマックロクロスケ(すすわたり)がいます。

それを引っ張るとお湯が出て来ることになっているのは、原作と同じ設定ですね。

右の給湯口から緑色のお湯が下にたまって来ると、カオナシも姿を見せます。

好きな場面でシャッターを押すと、その画面が保存され、QRコードからダウンロードすることができるようになっていました。

二階部分は猿島に関する展示ですが、カオナシの撮影コーナーも設置されていました。

好きなポーズをして撮影できるというので、当然試します。

係の人が手も動きますよと言うので、奇抜なポーズをしようと思ったら、大失敗。

カオナシは手がとても短いことを忘れていました。

肩も無いので、手は上に挙げることができません。

こんなに手が長いポーズをしてしまっては、単なる変なお麺を被った黒い人になってしまいます。

この二階からは三笠の勇姿がよく見えます。この写真はラーメンフェスティバルの第二週の時のもの。前回はこの建物を知りませんでした。

実はハーフサイズの丼が無いので、昼と夜に一杯ずつ食べてやろうと思って第二週初日の金曜日昼過ぎに来たのですが、イベントは夕方からで、まだ準備中だったのです。土日は午前中からやりますが、金曜日だけは夜だけなのでした。

時間を確認せず、思い込んだ自分が悪いのですが、せっかく来たので通常の三笠をよく見ることにしました。あまりじっくり見る機会はありませんので、新鮮に感じます。

 

子供時代に船の模型コンテストがあり、私の作った上陸用舟艇は佳作として展示された思い出があります。その当時はまだ歴史も知らず、単なる大迫力の格好いい戦艦だと思っていましたが、数奇な運命をたどっている名戦艦でした。

詳しくはウィキペディアに解説があります。しかし、腹が立つのはこれをキャバレーとして使った侵略者たち。立場が逆でも日本人ならそういう罰当たりな発想はしないはず。やはり品性(霊性)の違いとしか言えません。

 

今では三笠のほかに噴水やライブ用のステージなども併設されています。お土産屋さんもありましたが、食事をする場所は無いようです。食事の場合は隣接するポートマーケットという施設内にフードコートなどがあります。

入口にある公衆電話ボックスが良かった。灯台型は全国でもここだけだと思います。

最近は公衆電話を使う機会がほとんどありませんが、使わなくなってもこの建物は保存して欲しいものです。

時間を間違えて昼に食べられなかったので、夜にリベンジで再訪したら、昼以上の行列。並ぶの嫌いなんだよなあ。

この日は伊勢海老出汁と福島鶏白湯の二杯をいただきました。

夜だとトンピの心配が要らないのが楽でした。まだ来週もあります。

夜には滅多に来ないので、改めて戦艦三笠の雄姿を再確認。

 

ここで、疑問と言うのか矛盾を感じるのは、人間(特に男性)は戦争や喧嘩を嫌うくせに、戦車や戦闘機、戦艦などが大好きです。はっきり言って殺傷兵器です。こういう精神構造とか本能的な反応を考えることが世界平和のポイントになる気がします。

 

 

 

 

真面目に真剣に物事を考えると言葉に出てこなくなる。しかも、自問自答しているうちに、さらなる疑問が生まれるために、完成した文章を書くことは自分には無理。生まれてからずっとそう思ってきたから、文章に残そうとはあまり考えなかった。しかし、交友関係における必要性からこれらのSNSを使うようになっている。確かに利便性もあるけれど、弊害も大きいと感じる。

(春の花イベント。全て人の手で植えられている)

 

私は「言霊」はその時だけのものだと考えているけれど、それを表面的に保存しているのが文字。残された文字は時間とともに風化変質する。これが誤解を生む。それを考え始めると沈黙してしまう。言葉が出てこなくなる。そして自分自身はそれでよいと思っているから、そのままだと話さず、書かない人間になる。

(花イベントが始まってすぐなので植え付けられた草花が水分を十分に吸っていなかった。でも、綺麗)

 

頭の中がまるっきり空っぽな時と、反対にフル回転しているときには喋れなくなるのが自然だと思う。感じるのは一瞬なのに、それを表現するには凄い数の言葉と考える時間が必要。非常に不合理で無駄な作業だと思う。自分自身がわかっているのだからもうそれで良いのだ。それなのに、それを文字化するのは何のためだ?私の仕事には文字(言語)に依存している部分も多いから、それは割り切れる。仕方がないから文字化している。とは言え、プロなので文字を打つ速度は早い。くだらないどうでも良い内容であればいくらでも打てるけれど、真剣な内容になると筆が止まる。

(ネモフィラも混じった可愛らしい下草)

 

このままでは私の唯一の対外窓口であるSNSも放置し続けることとなるので、あまり考えずに適当に書けるのかどうか、試すことにした。主に遠方の友人との通信に利用している旧フェイスブックは写真に簡単なコメントを添えただけで利用できている。グルメや旅行、趣味などのテーマは比較的楽そうである。

(植え付けて間もないから花はまだ小さい。最盛期には百花繚乱となるはず)

 

当ブログも元々はお店を経営していた際の交流の場所として考えていたから、その当時はそれなりに書いていたらしい。過去の内容についてはほとんど覚えていないし、見直すこともしない。つまり所詮その程度の内容なのだと思う。とは言え、それなりの体裁を整えるために写真を撮ったり資料を調べたりする手間暇も必要となる。それら一切が阿保らしくなったのも停滞した理由。さらにSNS運営者の裏事情を考えると、使う気も起きなくなっていた。

(スギナの群生する湿地)

(土筆もあった)

 

コロナ禍に際しては、政府(行政内容)や医療関係者(特に御用医師)、旅行業偏重政策への批判を述べたところ、フェイスブックはアカウントをロックされることとなり、SNSの中立性や信頼性もいい加減であることが証明された。

 

ついでだから(思い出して頭に来たので)少し述べると、コロナは細菌兵器として開発されたものである。問題となって間もなく中国の軍事サイトにはそれに言及する内容が掲載されていた。まだWHOの調査も始まっておらず、国際的には情報不足であったにもかかわらず、墓穴を掘った発言をしていたのである。それはすぐに削除されているけれど、私はそれを医療関係者から依頼されて翻訳した当人であるから陰謀論でも何でもない。そして、私はコロナの前のSARS体験者でもある。現地での報道も逐次見聞きしていたから日本の細菌学権威者と言われる人たちのいい加減な情報と対応には危機感を覚えた。

当時はウィルスが風によって拡散し、風下にあったマンション群の住人たちが感染した。風上は逆に被害を免れた。ところが、当時の日本の担当者は飛沫感染の心配はないとして、無防備な状態で横浜の客船内の感染予防対策に医療チームを派遣していたのである。アジアの細菌研究に詳しくSARSの際にも派遣されていたという専門家もマスコミに登場していたけれど、当時の状況をきちんと把握していなかったのである。私は、関係者に連絡したけれど、それを問題提起すると自分が総スカンになる恐れがあるので、公にはできないと言われた。当時は関西のある医師だけがずさんな管理体制を指摘しており、その医師はパニックを拡大する恐れがあるとして、逆に世間から非難されていたのである。つまり、正常な思考や分析が全て無視されていたのである。その後に、言い訳をするかのように「エアロゾル感染はする恐れがある」などと言い始めたわけだ。

(鯉のぼりの準備もされていた。沿道は菜の花)

 

その後、米仏中による細菌兵器共同研究の情報が出回った。当時の研究者や関係者たちが身の危険を冒して告発したのであるが、すぐにYoutubeなどは一斉に削除を始めた。米国のウィルス対策の先頭に立っていたファウチこそ、その責任者であったのである。それと同時にWHOの不可解で非現実的な行動、中国の身勝手な隠ぺい工作、全世界規模のワクチン奨励が始まった。

 

この現実は国際的なSNSは権力者の圧力を受けるので公正さや信頼性はまだ期待できないと言うことを証明している。「デマの拡散を防ぐため」というのが大義名分であるけれど、近代における支配勢力の国際世論誘導はデマと大差ないのである。従って、我々もマスコミやSNSの判断を鵜呑みにしてはならない。

(東欧の友人家族が来日したので久し振りに大仏見学。過半数が外国人)

 

細菌兵器で狙った効果は自己免疫力を破壊する能力。これはエイズ由来である。だから薬もワクチンも完全に効かないのは当たり前。一時的な症状は抑えたかのように見えるけれど、免疫システム全体が崩壊しているために、予想外の症状で突然死が起きるのである。実は私の特殊な力(仁術)は身体やウィルスと交信することができる。その際にコロナがリュウマチ、膠原病、花粉症などの各種アレルギーにとても近い存在であることを感じていた。日本が中国人の春節移動に対して入国禁止措置もとらなかった時期に私はコロナウィルスと接し、それを感じていたからである。それらと戦う方法は花粉症や突発性喘息などと同じであった。なので、帰宅後に関係者にはアレルギー体質のある人は注意しないと身体がパニック症状を起こして危険だと忠告したのであるが、当時の日本ではまだ正体不明のウィルスと言うことであった。

 

暴漢によってご逝去された政治家についての功罪論は色々あるだろうけれど、対策の遅れと子供サイズのマスク配布、ワクチンハラスメント(打たない人に圧力をかけた)は明らかな愚策。特にワクチン接種の強要は犯罪レベル。無抵抗な子供たちや健康だった人たちの身体を半ば強制的に変質させてしまったのである。私は一部の人たちには絶対拒否するように伝えたけれど、学校や組織に属する大多数の国民はワクチン接種を拒否できなかった。

 

コロナ(ワクチンは同類)は人間が踏み込んではいけない自己免疫の領域を侵害した邪悪な科学発明なのである。

(春分を過ぎて日照時間が伸びている。太陽光も輝く)

 

コロナ禍が始まってから、異常な出来事が増えていることは間違いない。ずっと健康だった人の突然死。ワクチン接種後の後遺症。これらの内容を民衆に知らせようとした結果、アカウントのロックとなったわけであるけれど、SNS運営企業やその関係者は何を考えているのだろうか?政府や支配者の圧力の前では事実を捻じ曲げたり、言論を弾圧することも仕方がないことだと割り切って運営しているのだろうか?損得勘定のみを考え、人類や世界の恩恵、平和などの問題を考えないのだろうか?ビジネスには善悪などの道徳は存在しないのか?もしも、そうした場合、その結果は自分(家族や子孫)にも間違いなく降りかかって来るものであることを認識しているのだろうか?それを知りつつ、共犯を許すのか?

 

パニックはネットやマスコミ上の言論が直接引き起こすものではない。見聞きした人間の無知が勝手に暴走して引き起こすものであることを認識するべき。これを混同してはならない。

(故鳥山明氏デザインの電気自動車)

 

私は当時から同様の発言をあちこちでして来たけれど、当然ながら、どこの馬の骨ともわからない変人がのたまうことに耳を貸す人はほぼいなかった。その頃はまだ力の話は秘密にしていたこともあり、聞いたのは私の患者さん(力を体験している)とごく一部の友人のみ。それらの人たちはワクチン無接種のため出国や移動に制限を受けることとなったけれど、今になって正しかったことを知ったはず。私を馬鹿にしていた人たちの中には喉がおかしいまま、関節の痛みが続いたまま・・・など色々である。先日は7回もワクチン接種を受けたため後遺症に悩む人を診て来たけれど、それまでは健康そのものであった人間が何年も後遺症に悩み続ける身体に変質させられてしまったのである。

更に言うと、我々は当時と今後の政治家や医師など関係者の名前をしっかり覚えておくべきだと思う。なぜなら彼らは無責任な共犯者なのである。あなたにインチキの処方を施した主治医、病院なども記憶しておくべき。それらの半端で無責任な人々は修正しない限り、今後も世界に害毒を垂れ流す存在となりかねない。即ち信頼できない存在。肩書や地位は関係ない。むしろ有名で重要な立場にいる人間ほど害が大きい。将来にも同様の行為を繰り返す可能性が大きいので、真実が明らかになった時に連中を一斉に駆除し、因果応報の理を教育するべきなのだ。当然、被害者たちは告発して責任追及するべき。現実に真実が明らかになるにつれて言い訳や逃げを考え始めている姑息な連中も現れているけれど、そういう連中こそが社会悪の根源であるから逃がしてはならない。証拠隠滅を直ちに防ぎ、巨悪と戦うための準備をするのだ。それらの重大犯罪における時効は撤廃し、一生追及するべき。

 

もっとも社会や政治自体が腐っていると通常の抗議や批判は通用しない。全て隠蔽&握りつぶされる。組織が腐っている場合の「内部告発」は裏切り行為ではなく、正義の浄化であり、自分の居場所を清潔で居心地の良いものに変えるチャンスでもあるから、どんどん明らかにするべき。不正取引や賄賂などは公の場に引きずり出して叩くべし。

 

ちなみに私の縁者はHIV(エイズ)の最初の視察メンバーであり、良心のあるメンバーたちは血友病における危険性を当時の厚生省に問題提起していたのであるが、そのリスクを黙殺されて、いわゆる薬害エイズ事件が起きている。医薬業界の利権圧力に負けたのだ。責任が重大であるはずの担当機関が正常な判断と実行力を持っていなければ、全ての善意や努力は水泡に帰す。

 

そうなると、人民各々が目覚めて一斉に巨悪と戦うしかない。そういう政治家、政党、共犯となった行政部門、企業、業界、病院、火事場泥棒的な行為をした人間たち(補助金詐欺、医薬品やマスクなどの便乗値上げ商売などをした関係者)には社会的&民間的制裁を加えるべき。現在ではウクライナなどの紛争に便乗値上げをしている国や業界、商人たちがいる。

それらも同じ穴のムジナである。私はそれらの商人の取り扱う商品は全てボイコットし、頑張っている人たちから買うことを勧める。便乗値上げをしたところで誰も買わなければ経営は悪化して破綻する。逆に便乗値上げをしなくとも、購入者が増えれば経営は維持できる。我々は誠実な商人を応援し、利己的な商人を無視することにより、自動的に淘汰することができる。

 

政財界人には緊急時においても経済優先論を唱える人間が多いけれど、家計が苦しい時には家族全員が耐えて節約するものである。それを通常どおりの飲食や娯楽をするように誘導し、自分たちの利益を確保しようとするのは余りにも勝手で矛盾しているではないか?そのような霊性に劣る経済学者や官僚も淘汰するべき。

 

性善説社会の大前提は公正な規律とそれを保証する力(制裁、懲罰)の両立である。これが世界を浄化し、悪を抑止する方法である。力は厳正であることが必要。

世界の浄化(清掃作業)はその意義に目覚めさえすれば、無力な子供から大人まで誰でも可能である。清掃にお金や武力(暴力、軍事力など)は必要ない。悪人とは付き合わず、取引せず(売らない&買わない)、無視をするだけで可能。ブラック企業、背信行為をする行政と関係者、社会の害となる半グレやチンピラなどの犯罪者予備軍(暴走族、詐欺集団など)、不良外国人などを選別して村八分のような包囲圧力をかけることによって自然淘汰することができる。不潔で邪悪なものの整理掃除を行い、病原菌(社会悪)が生存できない清潔な世界を作るのだ。この話を聞いて怖がる奴は心にやましいことがある証拠である。

 

これを意識することにより我々一人一人の眼と観察力は性善説社会の監視カメラとなると同時に全員が即時対応できる警備員となる。

 

社会学では「衆人環視」と言うけれど、これが機能していた時代には、痴漢や暴漢、犯罪や事件などはその場にいた人々がすぐに動いたものである。現在の日本はどうか?私は電車内でも街中でもすぐに動くようにしているけれど、知らんふりをする人が増えていると感じる。

 

衆人環視が徹底されると町中に監視カメラを設置するような設備投資は必要ない。これにより邪悪な存在は生存&侵入することが難しくなり、強固な犯罪抑止効果を生む。抑止効果は自衛や防衛でも基本であるべき。この社会悪監視&清掃プログラムは日本国内だけではなく、全世界(宇宙)のあらゆる方面に使える。元々、原始信仰には同様の発想があり、共同体を守っていた。

注意するべき点は、ここに優遇差別(負の忖度など)や人情を絡めてはならないこと。なぜなら清掃対象は親族身内や親しい友人にも存在するから。もしも、ここで公正に欠けた優遇差別を行えば、浄化の根本的意義が消失してしまうのである。ありがちなのは「親だから」「子供だから」「いい友達だから」「仲間だから」「配偶者だから」「日本人だから」[外国人だから」という言い訳。日本に住み身近な存在であろうとも、穢れた人間は掃除しなければならない。私が受けている神託ではこの点をしつこく諭されている。

 

浄化しても、外部から侵入&汚染されては意味がない。従って霊性を汚す存在には厳格に対処するべき。超古代の平和的民族に共通した弱点に「人の善さ」がある。これは性善説社会で育まれた尊い精神であったのだけれど、平和な世界の美徳は悪人がつけ込む隙を与えてしまうのである。

 

例えば、日本以外の大部分の国では気遣い、思いやりなどの常識が異なる。日本では「お互い様」であると言う前提を考えがちであるけれど、海外ではお互い様ではなく自分中心となる。お互い様と言う言葉を使う時には、妥協や譲歩などの不利な立場において持ち出し、自発的に退くことはない。だから、思いやりや好意、親切心でしたことに対して「恩」や「感謝」「遠慮」の気持ちは持たない。自分が得したことはラッキー!と思うだけ。譲歩や妥協は日本人が好きでしていること、或いはそうせざるを得ない事情があるのだと見なすのだ。

 

チップ制がないのは我々には当たり前だけれど、あちらでは気遣いや親切心にまで対価を要求するのである。つまり物質文明に毒され過ぎているので物質以外の精神世界を感じることが難しいのである。

人が善過ぎた古代文明の人たちは侵略者に対しても友好的に接し「軒(庇)を貸して母屋を盗られる」こととなり、文明は滅ぼされて植民地化されてしまった。船で遠路はるばるやって来たお客さんだと思い、手厚くもてなし、食事や住むところまで与えたけれど、それを霊性由来の博愛であることを感じることができないのだ。ずいぶん親切な人だ、何か自分たちにも特になることがあるのだろう、その内に我々に何かの要求をするつもりなのだろう・・・などと考える。だからもらえるものは全て遠慮なくもらい、自分たちの要求を一方的に主張し、自分たちに都合が良く有利な交渉をすることが異文化間交流(外交)だと考えているのである。貸し借りの概念は無く、奪い取ったものを返すとかお礼をするという概念も欠如している。返すとすれば何かの交渉による取引の代償として考えるのみ。だから、好意で一時的に与えられた土地の居住権と所有権を主張し始める。それが上手くいかないと武力によって自分たちの主張を押し通そうとする。これによって数多くの文明や民族が滅ぼされて来たわけだ。客や友人だと思って手厚くもてなしていたはずなのに、強盗に豹変したのである。

 

しかも一度奪い取ったものを反省して返還しようと言う発想はないのである。本当にこの罪を認めれば、中東戦争などの大部分の国際紛争は解決してしまうにもかかわらず、連中は心を入れ替えることはしない。

この発想は現代も同じ。彼らにしてみれば、盗まれる、つけ込まれる方こそ間抜けなだけで、賢く力のあるものは略奪をしても良いという考えが根底にある。と同時にお人好しの平和ボケな民族や国はどんどんつけ込んで、全てを奪い取ってしまうことが外交だと考えているのである。これこそが現実の西洋偏向の世界経済と外交なのである。黙って耐えていればその内に気付いてくれると考えるのは平和ボケでお人好しな日本人の勘違い。日本以外では通用しないのである。この点を理解しなければ、国の自衛や防衛もできない。


一方では日本の霊性に気付き、感化される人々がいる。彼らは現在は無関係に見える場所や家に生まれているけれど、超古代の霊性を受け継いでいる家族の末裔。だから本国では「変人」などと差別を受けている人も多い。ちなみに、最近まで日本のアニメや文学に興味を示す人たち(芸術系)も同様の扱いをされて来ていた。米国の属国であり、西洋化しようと必死で猿真似をしている国の文化などに価値はない、奴らが英語を話したがるのだから、我々は日本語など勉強する必要もない、外人コンプレックスがあるから我々は優遇してもらえる・・・という態度の人が大多数だったのである。

こういう状況の中で親日家は非常に肩身が狭い思いをしていた。当時の日本で威勢が良かった国際政治学関係者やバイリンガルと呼ばれる西洋化アイドルたちの、言動は全く現実を見ておらず、違和感はとても大きかった。これを指摘した人がごく一部いらっしゃったけれど、マスコミはすぐに消しにかかった。その結果はどうだ?自国の文化や魂に誇りを失い、歴史も知らず、学ばず、愛国心も死語となりつつある。これをごまかすためにいわゆる3S三毒(スポーツ、セックス、芸能)に興じている。ストレスや問題から酒や麻薬で逃げ続けている中毒患者と同じなのだ。これは植民地化されてしまった他の国々もたどった末路。その結果、自国の言語や文化を失って西洋化してしまった。

 

この様な歴史の流れで最初に侵略植民地化に抵抗し、かろうじて生き残った文明が日本なのである。この意味と存在意義の重要性に気付くべき。現状は完全独立ではなく、裏で支配されている二重構造となっている。少なくとも政財界、物質的には属国。ただし、精神性、霊性は今でも受け継がれている。この様な抽象的な理屈をあれこれ言ったところで、西洋化(白痴化)洗脳された日本人には伝わりにくいけれど、それでも感じることができる日本特有の現象が「性善説社会」の断片なのである。これこそが超古代の平和な世界を結び付けていた「世界調和のカギ」なのだ。

これに世界も気付き始めている。そのヒントや救いを求めて来る異邦人たちは助けるべき。しかし、ここには霊性を守り、尊重する「郷に入っては郷に従え」が大前提である。郷に従うのは日本の性善説の根本にある精神文化(霊性)を理解することなので、それを無視した現在の難民や労働者などの移民人権運動は危険。お人好しの綺麗ごと理論だけで考えると、先述した歴史通りの亡国となる。現状の国際社会において、日本の性善説理論は国内だけで成り立つ精神理論であり、対外的には侵略のリスクを増やしてしまう。

 

特に問題なのは国内の事件も国際ルールに基づいて判断しようとしていること。これは単なる海外コンプレックスである。何事も国際法が日本の伝統思想より優れているから従うべきだと言う悪習慣が根付いてしまっていること。ドイツはこうしている、イギリスはこうだ、アメリカはどうだ・・・などと何でも他国と比べて論じる。だから何だ?世界唯一の性善説社会は日本なのである。あちらがむしろ学ぶべき点も多いはず。それをいまだに欧米コンプレックス的思考をするところが情けない。お互いに合意したものを除いて、国際法より国内法が優先である。

 

参考にするには良いけれど、あくまでも基本は自国の文化と精神性である。その基礎は科学的分析。それをコンプレックス由来で偏向してしまう有識者や学者は研究者失格!国内における外国人の処遇は国内の伝統と霊性で判断するべきであり、国際法は我々があちらの「郷に入った」場合に従えば良いのである。それに従わない人間を入れてはならない。入りたいなら従えば良いのだ。この点を政府と司法界は明らかにしておくべき。

 

それを忘れて、西洋に盲従したことは明治改悪以降の日本の精神性と道徳観念の退廃ぶりをみればわかる。また、それらの概念を作った国々の歴史背景を考えるべき。世界を侵略して来た人間たちではないか?連中が今の世界経済システムを作った。その基礎が「国際化」という大義名分に隠された自分たちに都合が良い概念の押し付けなのである。あからさまな武力による植民地化や侵略がやり難くなった連中が考えたソフトな侵略戦術こそ情報なのだ。情報を使って国際世論を誘導する。「国際」というキーワードを持ち出して侵略対象国の抵抗を抑え、自分たちが介入するチャンスを作るのである。

昔、毒蛇を駆除するためにマングースを大量に導入したことがあったけれど、実際にはリスクの大きな毒蛇よりも簡単に捕獲することができる他の希少生物を捕食して大繁殖し、外来害獣と化してしまっている。

 

これと同様の危険性は、間違いなく労働力不足で招へいした外国人労働者たちにある。なぜなら、彼らの来日目的は日本の霊性を学ぶことではなくお金だから。自分たちの物欲のためであれば霊性などはどうでも良いのである。そういう発想で来日する人種であるから、むしろ霊性と真逆の性質を持つ集団だと言ってよい。霊性が伴わないのに身体能力だけが高い連中が増えると言うことは、獣みたいな人間が増殖するのと同じ意味となる。

 

一方の呼ぶ側も連中の教養や性格はどうでも良く、安く働いてくれさえすればいい。これは単純な差別ではなく、現実なのである。現時点で害獣となる危険性が高い存在であることを気付かない政財界や有識者たちは国を危険にさらす。

何を隠そう、私はその間(国家プロジェクト、民間ビジネスなど)にいた人間である。政財界は当時の研修生招聘制度を利用して格安な人件費で労働に利用しようとしていた。彼らの頭の中は経済効率のみ。社会や国のことなど考えていた人は直接の利害関係のない役人や支援団体関係者の中のごく一部だけだった。そのごく一部の人たちにしても、将来を見通した人がいなかったから、人の善さにつけ込まれることが多かった。この時期に日本の貴重な農作物の種子や工業などの知的財産が流出することにもなった。あろうことか、連中は便宜を図ってくれた人物の要請に応じて、日本国籍取得や結婚の援助までしていたのである。そうして増殖してしまったのが、最近話題になっている郷に入っても郷に従わず暴動を起こすような害獣外国人なのである。

 

もちろん全員がそうではないので、そこを区別することが必要。極少数であるけれど、日本の霊性に感化された異邦人は家族となれる可能性も持っている。皮肉を言えば、あるスポーツ業界は興行を盛り上げるために異邦人の導入を始めたけれど、霊性を持たない人にまで最高権威の地位と国籍まで与えた。その結果は見れば明らか。これはビジネス優先に考える政財界と全く同じ発想なのだ。一部の善い外国人だけを強調して全てを差別撤廃に結びつけることには無理があり、世論操作である。

私の趣味である海外由来のダンスの世界にも多いけれど、素行を見ればその差は明らか。ストレス発散と異性目的のために出稼ぎ労働者が都会のダンスクラブに集まって来ていた。そして類は友を呼ぶので同じ波長をもつ人種が集う傾向が強い。本当にダンスを真剣に踊る人間はごく一部のみ。そこで日常茶飯事だったのがセクハラや窃盗。私は目についた場合にすぐに抗議&教育していたけれど、驚くのはそれらのいざこざを「あいつは何を真面目に正義ぶっているのだ」と白い目で見る人がいること。多くは「〇〇〇人だから仕方ないよね~」という答えだった。こういう答えをするところが典型的な平和ボケ過保護の発想。修正、教育、浄化、平和、調和などの観点が皆無。だから、連中は日本人の(特に女性)外国人コンプレックスに気付いてつけ込んで来るようになる。その結果、ますます類友が集まり気持ちの悪い世界が出来上がってしまう。プロのダンサーが運営するスタジオやイベントにはそれなりの常識があるけれど、営利目的のクラブや公共施設のものは敷居も低く猥雑な人種が集まる。それで、私はそういう踊り場には一切行かなくなった。○○人街、○○村などはその拡大版なのである。確かに善い人間もいるけれど、圧倒的少数だと思う。

 

歴史の古い特殊な人種の共同体は、まだ日本の霊性が強かった時代の淘汰と影響を受けて融合して来たところが多い。ところが現代は霊性と衆人環視能力が弱体化しているので、状況は違う。だから「郷に入っても郷に従わない」人たちが増殖しているのである。これが現実!これを見ずに綺麗ごとを言ういわゆる人権団体や有識者たちは単なる無知としか言いようがない。これを「差別」だと言うのであれば、差別される原因を無くせば良いのだ。本当に善い人が多数いるのであれば、それらの人が指導して素行を改善するべき。それができていれば日本国内で暴動など起こるはずがない。実際には善い人が少なすぎるか、統率指導する実力がないからそうなっているのではないか?机上の理論や綺麗ごとよりも、結果こそが我々が実際に直面している現実である。

 

自分のパートナーがそれらの国々の人間であるために擁護したり、ダンス仲間が「善い人なんだよ」と言う場合、ほとんどが主観的なイメージであり、当てにならない。それは類友の感性による発言であることがほとんどだから。もちろん極少数いることもあるけれど、針小棒大に拡大解釈することは非現実的で危険なだけ。逆に差別される原因があるのに、それを放置したままで権利だけを与えるのは余りにも危険な発想。まったく観察と分析力が欠如している。「郷に入ったら郷に従え」が大原則だと思う。差別されたくなければ、差別されないようにするべきである。できない人が歓迎されるはずがない。

それと、霊性は伝統とセット。生まれた時に持った霊性はきちんと伝承しなければ、生育環境と教育によって変質してしまう。だから、超古代の伝承では家族だとされて来た民族(侵略されてしまった先住民)であっても、その後の教育環境により、別の性質を持ってしまう。世界各地の先住民族の西洋化がそうである。これは日本国内でも同様。伝統を学ばず、教育も受けなかった人間たちは霊性の異なる在日生物と化す。いわゆる半グレやチンピラなどの犯罪者予備軍である。霊性の違いは言動や素行に現れる。汚い言葉遣い、暴力(格闘技)マニア、ゴミを平気で捨てる、利己的な発想が中心となり気遣いができない、繊細な感性がない・・・などの特徴がある。どれも昔なら幼少期から基本的な教育として教わって来た内容である。それすらわからない人種が増えていることは非常に大きな問題なのだ。

 

これまでの日本の性善説衆人環視システムはこれを見抜くことができていた。侵略者にはとても手強い障害となっているため国際世論を操作して圧力をかけようとしている。

確かに国際的に人種差別は存在する。特に白人社会には多いし、無教養な日本人のアジア系民族蔑視も存在する。しかし、それらは全て根拠のある歴史でもある。その過程での体験から統計的に生まれた判断基準なのである。過半数がマイナスなら印象は悪くなるのが当たり前。その反対なら良い印象となる。今の議論は過半数がマイナスであるにもかかわらず、一方的にプラスに考えろと命令しているようなものである。あまりに都合が良すぎる。この手の綺麗事を言うのは比較的高学歴な知識人に多い。平和な家庭で育ち成績も優秀で真面目。その反面、穢れや邪悪な要素を体験していない。だから平和ボケするのである。この偏った知識の由来を考えると、それを教える先生たちも同じ人種だからである。○○基金、○○機構などの国際機関で少し働いたことがある程度の人間が、コネで大学の教授に成れてしまうのだ。また、戦後は真実を教える教師たちが侵略者と結託した人間たちにより教壇から排除されてしまった影響もある。だから、日本の教育界は侵略者たちに都合が良い情報のみを教える洗脳集団と化してしまったのである。

 

警察官が職務質問をする際に長年の経験から対象を選ぶことは大切な能力。経験と言う統計確率に基づいた感性である。それまでを人種差別と一緒に論じることは偏った主張だと思うし、人間の能力を馬鹿にしている。判断する際に差別や区別は重要な要素なのである。その原因を取り除かない(除けない)ままで、自分たちの権利ばかりを主張するのは余りにも自分勝手である。そのような主張をする人たちは物を買う時に製造元や製造年月日などを見て選別しないのか?商品は製造元の技術レベルと品質が反映されている。私は見た目は綺麗でもすぐに壊れたり異常な粗悪品は買わない。これと同様に、人間も生まれ育った国の教養や思想により考え方や人格、行動パターンが形成される。

日本の霊性による違和感の警告と一緒にしてはならない。侵略者はこれを混同させて警告を解除させ、侵入しようとしているのである。マスコミの一方的な報道に攪乱されてはならない。この感性を失えば、税関審査、公安関連などのリスク管理は壊滅する。一方で差別(選別判断)している側は誤解や冤罪を起こさないことが大前提であり、万が一の場合には誠実に対応するべき。誤認が増えれば、逆にあなた達が「信用できない」「職権乱用だ」と差別されることになるのだ。私はこの逆差別も自然な道理であり、腐敗した体制の浄化作用の一つでもあると思う。差別は生存に必要な観察、分析でもある。間違った差別も差別することで駆逐できる。

 

別の機会に述べるけれど、親子関係、お家制度、血統制度、年功序列、国境、法律、常識、最近流行りのグローバリズムなどは人間が作った概念である。だから支配しようとする「悪」はこれらの概念を利用して人間を縛るわけだ。一般的な時代劇では正義とされる「大義」「公儀」などもこの類であることに注意。本来の霊的な摂理規範が人間ごときの作った一時的な規則に束縛されてはならない。

 

人間が本当の知恵に目覚めると、連中の呪縛から解き放たれることになるので、彼らはそれを恐れている。

現在で危険な国際世論誘導の一つにグローバリズムがあると思う。この流れの一つが環境保護や人権を大義名分とする動き。発想のトリックだと思う。元々地球は三次元の球体である。東西南北により気候や地質的な相違もある。だから、各地の生活習慣も違うし、そこから生まれた文化や思想も異なる。それらの相違を理解し合って認め合い、共存共栄の道を探るのが本来の地球を考えることだと思う。

 

ところが現状では自分たちが最上の知性であると思い上がっているいわゆる先進国が「俺たちの価値観が一番正しいからみんな合わせろ!」と言っているのと同じである。SDGsなどは貧しい国々では当たり前の考え方であったけれど、それを連中は貧乏人の発想だとして馬鹿にし、大量消費文明を強制したくせに、今さら手のひらを返しているわけだ。CO2排出問題も自分たちには制御する工業技術力があるから偉そうに主張するけれど、発展途上国にはまだない。

(長周新聞)

 

また、肉食のために広大な森林を伐採して牧場に変えているけれど、二酸化炭素を吸収する緑地の減少はCO2排出増加と同じ意味である。逆に緑地を増やす&維持することが二酸化炭素量の削減につながることを隠しているのだ。本来はそれらの自然破壊や開発に対してもペナルティーを課すべき。車の排ガスや工場のCO2ばかりを取り上げずに、先進国や開発業界の一方的な主張を論破するべき。これを国際的な場で指摘する人はまだいないようである。

 

なお、最近では問題の元となっている地球温暖化の原因が二酸化炭素だけではなさそうなこともわかって来ているのである。

 

グローバリズムの風潮の中で危険度が高いものは衣食住に近い分野。つまり人間が生存するための依存度が高い内容である。これはその国と国民の生命線。逆に言うと侵略者には一番最初に支配しておきたい分野。その国の自給自足、独立能力を奪って抵抗できないようにする。具体的にはインフラ設備を掌握して飲料水、電力の供給をコントロールする。食物の自作自給をできなくさせて、海外食糧への依存度を高めるなどの策略が用いられる。これらの分野は一番お金になるので、利益追求を考える財界と密接な関係を作っている。政治屋は彼らの使いっ走り的存在である。連中の「絆」はお金なので、選挙にはお金がかかるような仕組みが都合よいのだ。

 

具体的な介入の方法にはインフラ業界や農業などの第一次産業への海外企業が参入できるように対象国の法律と世論を誘導する。この際に利用されるのが環境と言うキーワード。水源地や耕作地などの不動産を外国籍の人間や法人に譲渡させる。これとセットで難民や人権と言うキーワードで無差別に移民を受け入れさせて外国人コミュニティーを徐々に増やす・・・などの行為がある。要するに自分たちが介入しやすい国際的な法整備の押し売りだと言える。

(テンミニッツTV)

 

これらは国際的な利権とつながっているので、正当化するための大義名分が「環境保護」「グローバリズム」「国際化」「国際競争力」なのである。それと結びつけた様々な国際的トリックが存在する。連中は国際世論を操作するために、国連やWHOなどの国際組織を利用する。公平な機関であれば意味があるけれど、運営資金や不公平なメンバーによる干渉があるので、現状では信用できない。例えば、第二次世界大戦後の戦勝国に有利に組織されている国連の敵国条項。現状の貢献度や戦後の変化が反映されていないままに、これらの条項は有効となっているため、日本はずっとトップクラスの資金提供を求められながら、常任理事国にもなれないのだ。また、最近では癒着の強い中国に対するWHOの情けない対応が無能さを示している。コロナ流行の際に敏速な対応をせず、調査もできなかった。だいぶ時間が経ってからようやく調査団が入国したけれど、調査には制限があり、必要な物証は全て隠蔽&抹消されていたのである。

 

 

 

海外に資産や事業を持つ政治家を利用して本国に圧力をかけさせるのも、一つの方法であるけれど、日本の閣僚にも多数存在する。これに一番協力的なのが愛国心などの精神の欠如した政財界人である。明治改悪以来、海外取引の歴史の長い老舗企業を所有する政治家に多い。日本の生命線であるインフラに海外資本を呼び込もうとしたり、無作為な対外優遇措置を言い出す連中も同じこと。つまり、自分の利益のために平気で売国できる人たちなのである。連中はこれらの仲介役を通じて虎視眈々と日本侵略を実行している。我が国を害するような法案を持ち出し、それを可決するような政治屋や政党は売国集団だと言ってよい。それらの連中は整理&掃除して日本を浄化するべきである。

 

 

これを阻むものが先に述べた「世界の浄化システム」「悪に対する抑止力」。我が国においては性善説社会の基礎にある精神と道徳観念である。連中はこれが最大最強の障害であることを知っているので、不利な情報や知識を与えず、民衆を白痴化、無知化しようとするのである。

 

はっきり言って、明治改悪後の日本はこれらの勢力により侵食されて来たのである。事実上、国の基幹産業は当時からの縁故関係で独占されている。いわゆる大企業に多い。疑う人は世界中の歴史を調べたら良い。革命や紛争などの非常事態で国家が解体した時に、金の亡者たちはこぞってインフラ関連産業や利権を奪い合うのだ。日本における第三国人による利権のほとんどはこの時期に誕生している。侵略者にとっては日本の強固な精神社会を内部分裂させるために都合が良いので黙認し続けて来たのである。これは最近の難民や移民、多国籍企業による「郷に入っても郷に従わず、自分たちの主義主張を押し通す」態度を既成事実化する策略の先駆けなのである。

聖アンブロシウスが聖アウグスティヌスに与えた言葉(4世紀)
チェスターフィールド郷が息子にあてた手紙 1747年

 

既成事実化は時間と共に解決が困難となる。念のために言えば、いわゆる第三国人の子孫に責任や罪は無い。複雑な環境と状況の元に生まれた非常につらい立場であるとも言える。間違いなく無知で感情的な人間の非難や迫害を受けている。しかし、同時に日本の良さ、特に性善説社会の根底に流れている精神文化(霊性)も感じ取っているはず。法的、感情的な差別などは一時的&表面的なものなので、その奥に有る精神性(霊性)に意味がある。近代の歴史に関しても本国で教えているような一方的な侵略行為ではなく、インフラ整備から教育までを考えた政策であったことも知られるようになって来ている。だから当時の革命家たちは日本を頼ってアジア各地から集まって来たのである。ところが、当時の腐敗した本国人たちにはこれが伝わらず、裏切り、暴走するような行為が続出したため、日本のアジア主義者たちからは「仁義や道徳も通用しない連中とは縁を切るべき」となったのである。実際に日本留学をした知識人がその体験を持ち帰って普及しようとすれば、全て抹殺(処刑)されてしまっていたのである。

これと同様のジレンマは現在も存在すると思うし、私も数多く体験している。しかし、私はここで綺麗ごとや確証のない推論をするつもりはない。反日や親日はどちらでも良い。自分たちで見聞きして体験したことが真実なのだ。それに基づいて客観的であるべきだと思う。一方でもしも自分が受けて来た教育が間違いであることに気付いたらそれを修正し、本国にもその学習成果を反映させるべきだろう。これは日本についても同様のことが言える。摩擦や誤解の後に相互理解は生まれる。

 

さらに言えば、日本に受け継がれている霊性は日本だけのものではない。世界に通用する概念だという確信がある。それを感じることができた者たちは自分の出自に束縛されず、超国家の家族に成れると信じている。これに基づいて考えれば、霊的家族は一緒に世界の浄化、清掃をすることが可能となるのだ。たまたまこの特殊な霊的社会が日本と言う概念(国家)の中に存在しているために、国体(霊が宿っている容器)の話になる。その容器が壊れないように、日本を守り浄化する話になるけれど、それは現在の一時的な過程に過ぎない。この霊性が本当に世界と宇宙のために役立つものであれば、国家や民族は超越する。

 

国民や世界中の人たち全てが浄化の必要性を感じて実践を始めると、大きな抑止効果が生まれ、人間は安易に悪事を働かなくなる。これは法律を明文化するよりも効果がある。ただし、その前提は人民に知恵があること。知恵を持たなければ、判断はできず、操られるだけとなる。無知はデマや誤解を招き、冤罪や差別を生む。

 

無知は誰のせいでもなく自分が学習しないせいである。学ばずに政府や行政、医師に責任を丸投げするのは甘え。彼らが詐欺集団だったらどうするのだ?グルメや旅行に行く時間はあるのに、どうして学習しない?自国(国民や家族友人子孫)を守る為には正しい歴史の情報が必要。今と将来を考えるためには、歴史を踏まえた思考が必要。ここで言う「歴史」とは年号や有名人の羅列してあるだけのくだらない記録ではなく、過去のあらゆる情報のこと。自分で学ばず、人任せにしていれば、自業自得の結果が待つのみ。本物の知恵が普及して、見聞きする能力が向上すると、誤解やデマなどの負情報も自然に淘汰される。これに基づいて社会悪清掃プログラムが機能するようになると、デマや誤解などの負情報&知識も自然淘汰されるはず。

(地元の神社にある諏訪大社御柱)

 

ところが、実際には生活や仕事に追われて学習する時間が無いこともある。途上国や不遇な環境では教育も受けられないことがある。また、学習が苦手な場合もあるし、向き不向きもある。だから共同社会では得意な人に委任する分業制度が現実的である。自分は体力には自信があるから労働を担当するけれど、科学的な理論には疎いから、目的を達成するための具体的な指示を出してもらえればそれに従って目標を達成する。その反対に、私は頭脳は問題ないのだけれど、運動神経が悪く、体力も無いから、社会が上手くいくための方法を考えましょう、というような役割分担である。この役割分担の意義と責任を自覚すると「搾取(弱みにつけ込んで強奪する)」の発想はなくなるので、インテリと労働者の間でいがみ合うことの無意味さにも気づくはず。右だ左だと思想の誇示や非難し合うことも似たようなもの。同じ目的のための議論であれば中道を探すために上下左右を行ったり来たりするのは当たり前。それらをうまくまとめて共同体の運営を考えるのが政治家や首長の役目だと思う。目標が一致すると全ての知力体力を集中することが可能となり、強固な共同体となることが出来るはず。それが近代以前の日本であったと思う。その基本であり大前提がお互いの信頼関係であり、指針となる神霊による公明正大な規律(道徳みたいなもの)だったと思う。これに基づいて日本の性善説社会は成り立っていたのだ。

(桜の咲き始めた田園)

 

逆説を言えば、信頼関係と道徳観念(儒教的な狭義の道徳とは違う)を失うと、性善説社会は崩壊する。道徳の欠如した人間や組織、会社が増えて、社会悪が蔓延する。共同体をまとめる人格や能力はないけれど、利権関係で選抜された操り人形のような人間が首長となり、共同体は一部の利得者によって支配されることになる。

 

まるで現在の日本の状況そのものではないか?

 

これらの問題点を指摘している方々も極少数いらっしゃっるけれど、ある意味自分のキャリアや立場を危険にさらす可能性も大きいから、現状の教育界やマスコミには期待できない。これまでも、数々の誠実な知識人たちが消されて来た。その意味では、とても貴重な存在であるから、我々も守る必要がある。これまで真実を述べたために迫害されたり、差別された人たちを再評価&支持応援するべき。当然、SNS業界も自分たちの責任と在り方を再考するべきである。真実を隠蔽した罪を認め、命がけで言論を行った勇士たちを評価するべきだろう。この意味では現在の国際的プラットフォームで信用できるものは皆無。関係者にはまだ自分たちの存在意義や責任の重大さがわかっていない。本当に世界平和を考えるのであれば、国際的に完全中立独立したプラットフォームを作るべきである。これが確立されれば、日本の浄化と世界の浄化、宇宙の浄化は全てリンクすることが可能となる。

(忘れられている大東亜戦争の戦没者墓地も桜が咲き始めた)

 

ここまで実験的に書いてみたけれど、やはり書くのはかなり時間と頭を使う。そして言いたいことがたくさん出て来る。その直後に言い直したいことが出て来るからキリがない。ブログ再開のために一時的に書いておいたプロフィールも内容は不十分で不完全なので全部消したいくらいなのだ。

 

だったら最初から何も言わなければ良いのに、なぜ言うか?なぜ書くか?よっぽどの暇人か?バカか?

 

時間があれば趣味のダンスを踊りたいし、バイクや車で出かけたいのに、なぜか書いている。名誉欲は無いし、ビジネスにもつながらない、つなげるつもりもない。損得勘定とは無縁(どちらかと言えば損)。それは多分自分を超越した意志というか命令みたいなもののせいだとしか言えない。それとセットになっているのが私の特殊な力なのである。プロフィール欄でも少し述べたけれど、人間世界に対する危機感がとても強く、強制的にこのような言動をさせられているように感じる。その理由は未だ不明。気持ちが悪いので、自分自身を疑い続けているのが現実。その際の担保となっている確実な理由が「力」なのである。これだけは、いかなる状況下でも確実に存在している。私の心身がヘロヘロで死にそうな状況で、ヤル気が全くない時にも発現する。実際に何度となく意図的に逆境に追い込んで試して来ているし、今も継続中。しかしながら、未だにその仕組みや因果関係がわからない。

 

これは誰かの危機に際して無意識に発動する。正確には私の意志とは関係なく、神霊のような存在がそうさせるという感じがしっくり来る。対象は人間だけではなく、動植物にも起きる。道を歩いていても突然にSOS信号を受信してしまうのである。花粉症や身体の麻痺などから癌みたいなしつこいものまで色々あるけれど、当人はまぐれか偶然だと思うのである。実際には非常に科学的、論理的で緻密な心身間の交信があるのだけれど、それは外からはわからない。施術する際には最低でも三人の人格が登場し、私はその間に立って同時通訳のような作業をしなければならないので、かなり内部は忙しい。時々自分の脳内はどうなっているのだと不思議に思うこともある。国内外で実践して来たけれど、余りに簡単にその場で解決できるため、当人には感謝の気持ちすら起こらない(笑)。

 

もちろん、こちらも感謝は求めていない。感謝は自発的に生まれる感情であり、言われたからするものではない。しかし、力の使用は無分別で、余計なお世話にもなりかねない諸刃の剣的リスクを含んでいるために、非常に厄介であった。無分別と言ったけれど、それは私と言う人間に感じる能力がないだけで、実際にはおそらく何らかの取捨選択があることは間違いない。それに気付いてからは、できるだけ自分を無の状態にすることに徹している。私の性格や感情は邪魔であり、力に悪影響を及ぼすからである。勝手な思い込みや精神異常の可能性を危惧しているので、客観性と具体性は命綱。

自分の命綱を確保するための最低知識が科学。よく、スピリチュアル系の霊的現象は「非科学的」と言うけれど、それは間違い。私の経験でも完全に科学だと感じる。ただ、まだ知られていない理論や概念であるだけのこと。その意味では「未知科学」と言うべき。だから、科学を追求すれば道を大きく踏み外すことはない。そして、霊的世界との唯一の交流手段、共通言語が科学だと思っている。

 

その為、これまでの過程では、その力の源らしい存在と何度も科学的な交信(喧嘩)をして来た。スピリチュアルな世界では「使命」とか「宿命」などと言うと格好いいように感じるかもしれないけれど、そんなものは勝手に降りかかって来たお荷物、押し売りみたいなものである。

ほとんどの歴史上の哲学や思想ではそれをプラスに解釈するべきだと教えるけれど、私はそれにも大反発をして来た。宗教や哲学も巷にあふれる○○の法則とかコーチングなどと同様に人間が勝手に作ったプラス概念(幸福や利益)をもたらすための無理やりな心理的誘導にも思える。要するに言語が通じない他の生き物たち(有機物)には通じないのだ。

 

賢人や偉人たちは丸く円満に収めようとしているだけで、私のように尖りまくった性格の天邪鬼には通用しないと考えていた。一般的には「人間は成熟すると角がだんだんと取れて丸くなるものだ」というような表現で教えることが多いだろうけれど、それに対して私は「俺は逆に尖りまくって角をいっぱい立てれば、結局はウニみたいに丸くなるので、結果は同じだ」と言い返していたものである。納得できない物事に対して、こちらが退くと言うことをできない質らしいのである。

その後に思いついたのが、伝説のケサランパサラン。昔は幸せを運ぶ不思議な妖精だと言われていたけれど、大方は動物の毛玉や植物由来であることがわかっている。それはともかくとして、やはりウニ同様に細長い毛が集まって球体となっている。ウニとの違いは水中には存在せず、軽くてフワフワ浮遊すること。また、柔らかいので、自衛や防衛のために相手を傷つける心配もない。食事をする必要もないらしい。

 

私は丸くなるなら、ケサランパサランみたいになりたいものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

啓蟄。冬眠していた虫たちが目を覚ます頃。直訳すると「冬ごもりをしていた虫たちが扉を開ける」。啓は扉を開く、蟄は冬眠すること。
 
自分もそろそろ地上に出るつもり。春の風物詩画像はたくさんあるけれど、時間が無いので後日投稿予定。
陽射しも強くなり、フキノトウや梅が咲き始める。
梅園の小川には梅の花イカダが浮いていた。
お世話になっているスタジオにアンティークのひな壇があった。
偽暦(西洋暦)ではすでに雛祭りを過ぎているけれど、旧暦では4月11日。だから別名「桃の節句」とも呼ばれるわけだ。桃が咲いてもいないのに違和感も覚えずに従う現代日本人と指導している政治家&文化人はおかしい。やはり季節感のずれを感じる。
 
日本の伝統文化、寺社関係者、農林水産関係者はこの違和感を政府や社会にもっとアピールするべき。季語を使う俳句や短歌、和歌、川柳、落語などの指導者たちも生徒たちにこの不自然さを教えるべき。四季は日本の生活の根底にある時間の流れと感性なので、それが不自然であれば現世と人間自身の心身にも悪影響が出ることは当然。
受験シーズンでもあり、卒業も間近。ちなみに、卒業の時期(3月)も政治家とお役所が便宜的に決めたもの。欧米の習慣(9月)や会計年度(7月だった)、徴兵などを考慮した結果。元々季節とは無縁の概念なので偽暦ほどの違和感はないけれど、これも固定概念の一種だと思う。それが風物詩となっている。
 
学生たちが行き交う駅に心温まる掲示があるらしい。
これらはバイク乗りの大先輩である女性ライダーの元に寄せられた投稿画像。有名人でもない、地方の駅員さんたちが駅構内に貼り出したもの。これ以外にも、各地で同様の心温まる現象が起きているらしい。政府や会社から命令されたものではなく、有志が自主的に行ったもの。そういうのが本当の心だと思う。
 
自分たちの保身や隠蔽ばかりに走る政治家たちに見せてやりたいものだ。
近代に痛めつけられて弱りつつある日本人の魂だけれど、その片鱗がまだ残っていることはとても嬉しい。
 
特に戦後世代は洗脳教育により腑抜けとなっている。侵略者が国民を欧米化させるための偏向教育の結果、自国の文化や歴史も知らない。情けないことに戦後80年近くなるのに、途中で修正しようとする気運が民衆側になかったこと。一部の本物の知識人が問題提起をしたけれど、みんな途中で潰されて来た。
 
最近はその事実が明らかになりつつあるけれど、当事者たち(戦争世代)は「もう年だから」「自分には無理だから」と消極的なまま負の遺産を後世に残したまま逃げようとしている。そのくせ、年金だけはもらおうとするのだから、明らかに老害である。その年金制度を悪用している連中(発案者は役人たちに美味しいシステムだと言っていた)は国賊と言っていいと思う。我々の納付した金銭を盗むのと同様の行為。
政治家や企業の不正背徳が問題視されている中、国民の中に伝統的美徳が残っている様子を見ると、まだまだ日本も捨てたものではないと思える。これに気付くべき。この精神が残っているうちに悪を駆逐し、魂の健康を取り戻すのだ。
 
卒業や入学の話題のついでに言えば、私は昔から「飛び級」を公認するべきだと思っているので、入学や卒業と言う時間的な区切りは単なる束縛とみなしている。思い出となる行事であることも確かだけれど、思い出を作る機会は他にもあるはず。既成概念に縛られる必要もない。個人の才能や感性は人それぞれ。それを強引に同じ物差しで考えること自体がとても不自然。授業などは社会生活で必要な常識や知識だけで良い。それ以上はそれぞれが自分の関心のあることに集中すれば良いのだ。頭を使うタイプ、身体を使いタイプなどの違いがあるわけだから、それを関心のないことまで無理強いすることは時間の無駄。現実世界においては半端な知識人よりもオタクの方がよっぽど有益。
アホな日本の教育制度や、それに気付かず改善しないままで子供たちに無意味なノイズ情報ばかり教える教師などを相手にせず、優秀な生徒は学校制度を超越してどんどん成長発展して欲しいと願う。現状の教育システムでは無能な若者を増やしてしまうだけ。この発端は植民地化を図る侵略者による洗脳教育(愛国心を無くして無抵抗な奴隷にする)であることはすでに知られているわけだから、それに合わせる必要は全くない。それが明らかになりながら、なおも改善できない(しない)教育関係者たちはその共犯だと言える。
植民地化する際に邪魔になるのが主に愛国心と言語。愛国心は自分のルーツである歴史とセット。言語は精神的概念である言霊。だから奴隷化する際の洗脳ではこれらを徹底的に破壊することが目標とされる。世界の歴史を見れば明らか。有色人種がなぜか白人種の言語を使っている。彼らの文明を伝える貴重な歴史文書や遺産は消されて来た。だから彼らは自国の文明や歴史に関する知識を失い、欧米化するのだ。この現象は戦後の日本にも起きている。
 
この流れに最後に抵抗したのが日本である。だから近代にはあからさまな植民地政策は行われなくなっているけれど、これはアジアにおいて日本が抵抗したお陰。それを契機にしてアジア諸国が独立を勝ち取ったのである。当時のアジア各地における独立運動と革命家を支援していたのが日本のアジア主義者たち。みんな自国では抹殺されてしまうために日本に逃げて来ていた。生存できたからこそ後世の独立革命につながったのである。

最近は仲の悪い隣国たちも同様。あの時期の抵抗がなければアジア全土は今頃白人種の言語を話しているに違いない。彼らが反日感情を抱くのはこれらの歴史的経緯を教わらず(隠蔽)、同じく侵略者(権力者)たちの洗脳教育を幼少期から受けているから。賢明な同国の国際人たちも気付いていたけれど、これらの言論活動はアジアの団結を望まない裏にいる侵略者連合によって封殺されて来た。連中にとってはアジア諸国が仲良くなってしまうと困るのだ。

近代の連合国側はこれらの事実関係を知られると、自分たちの非人道的行為が明らかになるために、何が何でも日本をアジアにおける一方的な悪者とする必要があるのだ。日本も綺麗ごとを言っていたけれど、実は我々と同じ植民地化が目的だったであると言いたいのだ。ところが、一方的に現地文明を破壊して奴隷化してきた欧米と互恵思想に基づいた教育やインフラまでを考えて共同体を作ろうとしていた日本では明らかに内容が異なる。

 

紛争に際してはアジアの団結を恐れるスパイたちの裏工作による小競り合い的紛争、軍部の独断と暴走、低俗な兵隊による愚行もあったことは否定できない。生存のための資源確保が必要だった(地政学では妥当)ことも明らか。それらを全て否定して正当化することは見苦しい言い訳にしかならないし、偏った認識では将来の教訓には成らないと思う。これに対し、侵略者側はそれらを日本の植民地化政策だと誇張することにより、欧米主導の植民地化競争や非人道的行為(奴隷、核兵器)などの重要な問題点から注意をそらさせ、正義の無い一方的な侵略であるかのように国際世論を誘導して来た。その誘導の方法は客観的な証拠もないままに(偽証)○○万人規模の大虐殺などと非人道的なイメージを誇張し、マスコミを利用して発信させる。

 

一方では日本の右派にも、日本の欠点や過ちを認めずに偏った国粋主義的な言論を流す存在がある。チンピラもどきの街宣活動などは戦時中に嫌われた低俗軍人や公安関係者の恐怖をよみがえらせるだけで、一般人はプラスのイメージは持たないはず。初めて見る子供たちにも反社会勢力との区別ができないから、得にはならない。これに対して左派もカウンターのようにそれを偽証だ、勝手な思い込みだと主張するサイトを作る。巧妙なものは「日本の近現代史を考える・・・」などと、あたかも日本人自身が書いたかのように見せかけている。現地においてもロビー活動を行い、都合が良い証言や資料を集め、教科書の内容にまで干渉するようになって来ている。まさに現代の武器を使わない情報戦である。


国内でも互いにネトウヨだサヨクだと罵り合っているけれど、どちらも信頼できる証拠に基づいて議論すればよいと思う。後出しジャンケンのように都合が良いこじつけの言論は痴話げんかに等しい。しかし、考えようによってはこの様な情報戦によって未知の資料や考え方が登場することは学習の機会だとも言える。連中にはどんどん判断材料を提供していただき、我々はそれらを冷静に分析して判断すればよいのだ。その為には我々自身も当然それなりの学習と知見が必要。これによって我々日本人の教養と民度も上がるはずだから、一石二鳥だと思う。言ってみれば、これまではそのような議論もすることすら許されない状態だったのである。戦後のプレスコードに始まり、マスメディア内の暗黙の対米忖度がそうさせていた。知識と民度の向上は邪悪なものを駆逐する。逆説的に、現状は無知で民度が低いから政治も社会も腐敗しているわけだ。嘘ばかり言う信頼できない政治屋や有識者、マスコミは民度を上げてどんどん駆逐するべき。
我々は左か右のどちらかに必ず属さなければならないということはない。ちなみに私は自分が直接見聞きし体験したこと以外は何事も完全には信じない。しかし、どちらかと言うと現状では右側に分がある様に感じる。これまではいわゆる左派による誘導と洗脳がひど過ぎたので、それを修正してバランスをとるための段階に来ているのだと思う。そう思う理由は、なぜなら私は当時の双方の関係者や生き証人と実際に会っているので、その時代の匂いを知っているからである。本当に西洋の植民地化に立ち向かったアジア主義者たちは紛れもなく存在してる。残念ながら現実の歴史では実現できなかったけれど、一貫して彼らの思想と言動には筋が通っており、ごまかしや嘘偽りを嫌悪する誇りと自信を感じたものだ。一方では圧力や恐怖に屈して逃げた、偽証した人たちも見て来た。そのどちらでもなく又聞きしただけの内容を自分の体験のように語る輩もいた。これらが某大手新聞の記事捏造問題などの元凶となっている。
 
そこで気になるのは、最近の日本復興のアイディアや言論に対してしきりに反論している(していた)赤や左の方々は実際に当時の最前線にいらっしゃったことがあるのか?あるいは当時の関係者たちとお会いしたことがあるのだろうか?発言の裏はきちんと取っているのか?捏造が発覚した際の言い訳では「当人が話したことを記事にしただけで、話の内容は間違っていなかった」というような説明だったと記憶している。それだと知的なフィルターを経ていない単なるデマの垂れ流しである。と同時に、情報戦においてはこれらのクズ情報まで利用されてしまうリスク&教訓を認識するべき。
 
その時の空気感もわからずに、ネット上から漁った断片を借りて来てつなぎ合わせたような机上の理論を信用する気にはならない。死人に口なしだと思っていい加減なことを言うべきではない。捏造記事のように利用される可能性もある。今ではその手の生デマ情報はネット上に星の数ほど存在するから、そのままでは新聞は誰も読まなくなると思う。

これらの国際問題に遭遇した時、必要となるのは自国の状況を把握するための基礎知識と情報。その中には政治、経済、文化、哲学、伝統思想、習慣、気質、地理、国際関係などを総合的に考えなければならないけれど、それらの変遷を辿ろうとした場合、今の日本人がいかに日本の神話や歴史、風俗習慣などを知らないかと言うことに気付くはず。西洋の有名人や偉人たちの伝記やエピソードはよく知っているくせに、自国の偉人たちの業績も知らない。エジソンやビルゲイツを知っていても、二宮金治郎、稲森和夫を知らない。単なる個人的な損得勘定で動く人間と国や宇宙を考えていた人物の違いもわからない。国の成り立ちから現代までの由来を外国人にきちんと説明できる人は少ないけれど、これは世界的に見ても異常。他国では海外のことに暗くても自国のことには詳しいのが当たり前である。日本は逆転しているのである。この間違った転換点は明治に始まり、戦後に思想と価値観がほぼ逆転しつつある。

 

転換は自然なものではなく、一部の関係者が強引に行った。作られた英雄の坂本龍馬、勝海舟は有名であるけれど小栗上野介忠順は歴史から消されて来た。大隈重信は「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語り、福沢諭吉も「 鞠躬尽瘁 (国のために命をかけて尽くすこと)の人」と称賛したほどの大人物であるけれど、明治改悪維新のテロ政権は事情も調査(裁判)せず即日斬首したばかりか、業績の詳細は抹殺されてしまった。それは当時の政権にとって知られるとまずい内容があるから。欧米の侵略工作員からの投資を受けて活動した坂本など討幕派にとって、国際事情に明るく、裏取引の存在にも気付いていた小栗は邪魔だったのである。米国の不公平な貿易を現地で追求し、植民地化の脅威に備えて軍備(海軍工廠)の必要性を説いたのも小栗であった。

同時代を生きていた大隈の一言は、テロ政権が邪魔者を抹殺して、渋沢がそのアイディアを丸パクリしていたことを暗示していると言っても良いと思う。

(東郷平八郎が小栗ご遺族に贈呈した額)

 

日露戦争勝利の後に東郷平八郎が小栗の遺族を訪ね 「軍事上の勝因の第一として、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたことが、どれほど役立ったか知れません、」と礼を述べていたエピソードもある。当時の偉人で非常に貢献したにもかかわらず不可解な死を遂げた人物には西郷隆盛もいるけれど、それらの詳細は闇のまま。奈良平安、鎌倉などの古い資料は出て来るのに、地面を掘る必要もない近代の資料が何も出てこないのは不思議。これは当時の関係者の末裔である現政権や政財界が隠蔽している可能性が大きい。末裔たちも先祖の過ちに気付いたら、修正して負の悪循環を断ち切るべき。末裔は自分で選んでその家柄に生まれたわけでもないので、出生自体に罪はない。しかし、過ちに気付いたまま継続することは確信犯になることを自覚するべき。大隈や東郷は実情を知りつつも、立場上あからさまなことを言うと自分の身が危ないので言えなかったはず。しかし、彼らの大和魂がどうしても気持ちを伝えたかったのだと思う。

 

封殺されて来た自国の歴史を知り、洗脳された頭を正常化するためには、まず連中が破壊隠蔽しようとして来た歴史を見直すことが必須。歴史の改ざんや隠蔽は時の権力者が多少なりとも行うもの(自分の都合が良い内容にする)であるが、特にその程度がひどいものは近代においては明治と戦後である。ある時は仲間の振りをし、扇動攪乱する。連中が侵略する際に最大の障害となっている日本の精神を内外から破壊しようとして来たのである。精神のよりどころこそが霊性であった。性善説社会は神霊(天)に対する畏敬の念により成り立つもの。これが日本人同士の強い絆を構成していたのである。しかし、侵略者側から見れば、非常に厄介な存在であるからこの精神文化を壊そうと考える。その破壊活動に適する人材は、伝統的精神文化の影響をあまり受けておらず(無教養)社会(幕藩体制)に不満を持つ元気な人間たち。こいつらに西洋思想を叩きこんで洗脳させ、武器弾薬と金銭を投資すれば、自分たちが戦わずとも内部崩壊するのではないかと考えたのである。明治改悪維新はその内部崩壊につけ込んで行われたテロなのである。嘘だと思われる方は維新の顔触れと彼らの出自(教養や生育環境)を考えてみれば良い。そのような若輩者たちがどうして一国の大名をも上回るお金や武器を扱うことができたのか?どこから手に入れたのか?提供したのは誰だ?などと辿っていけば、事実は段々と明らかになって来る。

 

この内部崩壊は最近は「分断」とも表現されている。沖縄や蝦夷地(北海道)の先住民族意識を高め、独立を誘うのもそう。国内に外国人を大量に流入させ外国人村を作るのもそう。海外ではすでに警戒して措置を講じているにもかかわらず、何もしない&できないのは政府内部にも内部崩壊を誘導する侵略者の手先(裏切り者)がいるからに他ならない。良いイメージの有る「国際化」「グローバリズム」「LGBT」などの美辞麗句に惑わされてはいけない。邪悪な存在はそれらを利用する。中身を見るべき。

 

これらは陰謀論でも都市伝説でもない現実の姿。選挙に行かない、歴史に関心がない、勉強していないからよくわからない・・などと言っている場合ではない。事実関係を再精査して学ぶことが将来の日本再興につながる。将来のあるべき姿は、人間世界の情勢や権力関係に惑わされることなく、公明正大な立場を貫くべき。各地の紛争に際しても、大国の動向に合わせるのではなく、日本の霊性のお導き(正義や善の根源)によって判断するべき。この判断は政治屋の風見鶏的アイディアとは全く異なるもの。この立場を維持できるようになるためには、まず自立(現状は植民地国)することが必須。自立とは政治的、経済的、精神的(哲学思想)、物質的(自給自足)などすべてに考えるべき。

 
 

 

我が国は明治の文化改悪運動以来、毎年この時期になると中身の無い馬鹿騒ぎが横行する。あの習慣は関係する信者以外には無意味なイベント。商人たちが金儲けのために大義名分として利用したのが始まり。敬虔な信者たちが行う厳粛な祭事とは別物。

そのイベントの起源である伝説は日時を特定する具体的な根拠に欠けるけれど、元々は地球の「冬至」に関するお祭りと結びついたものだと考えられている。この「冬至」は、夏至、春分、秋分などと共に地球に存在するあらゆる生命と深く関わっている。特に東洋思想における冬至は陰陽入れ替わって、再生に転じる重要な日である。この宇宙を支配する大原則は人間の及ばない力と知恵。これらの自然現象と摂理に基づいて、調整され、決められ、従ってきたのが農歴(旧暦)。

 

ところが明治に半分テロリストのような連中が政権を握り、強引に改悪してしまった。それが現在我々の使っている新暦。宇宙や神霊に対して非常に失礼な行為であるにもかかわらず、現在に至っている。そういう行為を平気で出来てしまう人は自然や宇宙を感じることができないことの証明でもある。こういう人間は宇宙、世界に害をもたらす。「天皇」の名を持ち出すけれど、とんでもない詐欺。もしも本当に神霊の子孫であれば、この大欺瞞に気付かないはずがない。つまり、気付いていても口外できない圧力があるか或いは抵抗できない状況に置かれているということである。明治に端を発し、戦後にはさらに強化された。隠された植民地化の過程で起きている異変の一つであることに気付くべき。これらの不自然で異常な状況を簡単には修正できない背景がある。

我々の政治経済活動と教育や文化活動全般を実質的に管理されているにもかかわらず、日本の元首である天皇や総理大臣すら干渉できない組織があるのだ。そして、それを許している政府(特に外務省、財務省)と司法界は同じ穴のムジナと言ってよい。終戦直後は生命や生活を脅かす圧力やリスクがあったことは間違いないけれど、それを現在まで継続させているのは異常。だから、我が国に不利益な政策、政治家が選ばれ、真実を語る人は抹殺されて来た。実質的な植民地支配であるけれど、ネットが普及する以前にこの手の発言は死活問題であった。ある程度の国際的な教養と判断力があれば誰でも気付くはずだけれど、公職追放や脅迫によって言論は統制され、危険分子は抹殺されて来た。我々はそのような問題提起をすることのできる勇敢な愛国の士を守るべきであるけれど、国民は腑抜けになってしまっている。

 

かの切腹事件を起こした憂国作家は早期に問題提起をしていたけれど、彼が当然気付いてくれるだろうと思っていた自衛隊(旧軍隊関係者)にも裏切られ、非業の死を遂げている。どうして助けずに黙殺したのだ?「裏切り」と言う表現がきついと思う人もいるかもしれない。しかし、支持をすることに多大なリスクをはらんでいた当時から半世紀も経っているのだ。その間に彼の死を懸けてまでの悲痛な思いに、少しでもこたえるような事をしたことがあっただろうか?逆説的に言えば、彼に対する裏切りと良心の呵責を心に秘めている関係者はいるはず。今の時代、その気持ちを開放するべきだと思う。

一方で一般人の中にはその真意や敬意を学ばずに単なる「右翼作家」だと片付ける単細胞も多い。そもそも、右翼(メディアの造語)と言う概念はわかっているのか?アジア主義、愛国者、チンピラ、ヤクザ、政治団体、思想家、宗教家などとの区別はできるのか?それ以前に、自分自身の立ち位置は認識しているのか?北がわからない人には東西南北の違いもわからない。その時点で日本人失格!

 

残念ながら、過半数は失格の日本人ばかりである。それは、自国の文化や歴史に対する知識は戦後の植民地支配の支障となる情報であるために、公の情報(教育、教科書など)から削除されているからなのだ。特に恐れたのが「アジア主義」と「愛国心」。これを防ぐために悪くて恐ろしいイメージのレッテルとして作られたのがいわゆる「右翼」。自分の国を守り、戦った基本の精神の源。愛国心が無くなると、国や政治に無関心となり、「今が楽しければどうでも良い」という自暴自棄的な気持ちになる。さらに心理効果が進行すると愛国の情を表すことを恥じるようになる。「日の丸」にも誇りを感じなくなるから、祝祭日に飾ることも恥じる。海外から論争を挑まれても無知ゆえに言い返すこともできなくなる。現実がその通り。日本人を弱体化するために「国を愛する気持ち」「真剣に国を考える言動」を無効化する心理作戦の一つが「自虐史観(日本の軍国主義思想が一方的に悪かった)」なのだ。マイナスイメージを持たせて自国の政治や将来を考えることから遠ざけるのである。

 

それをそのまま、何の疑問も持たずに受け身で教わって来た人たちはわからなくて当然。ここに気付くことが日本人としての覚醒の第一歩。

国民が無知である上に連中の活動はほぼ無制限であるため、犯罪行為も隠蔽することが可能。だから在日米軍の汚点は全て隠す。その為に我が国のスパイ防止法の成立を邪魔している。犯罪を起こしても日本には裁判権もない。損害賠償はなんと我が国が負担するという異常な約束までしているのである。オスプレイが何度墜落事故を起こそうが、連中は知らんふり。賠償金すら支払う義務もないので、痛くも痒くもない。これらの密約があるのに基地建設反対運動や訴訟を日本政府に対して起こしたところで茶番劇。本来ならば、密約撤廃が先。そればかりか、反対に密約を強化するような法律だけは国会で承認されてしまう。特定機密保護法がそうである。これはスパイ防止法とセットであれば正常に機能するけれど、背後にいる侵略国が機密保護の判断をしているのであれば、それは実質的な植民地支配と同じことなのである。「国の安全のため」「国の利益を守るため」というのは詐欺で、背後にある侵略者の支配と監視体制を継続させるためなのである。これを追求した良心を持つ米国人政治家や外交官が問題提起をしても軍部によって門前払いなのである。米国の軍部は本国においても政府を上回る権力を保持しているらしく、表面的な民主主義とは違った深い闇がある。この状態が続く限りあの国の暴走は続く。詳細は小生の過去ブログをご参照下さい。

 

 

極端な話、自国に不利益、危険な対象を抹殺(暗殺)することも可能。警察や検察は介入できないので、調査も行われずお蔵入りとなる。こんな状況を日本の政治家、司法界は見逃して来た。警察や司法、自衛隊も本当の正義を考えない限り、単なる侵略者の使いっ走りに成り果てるのではないか?国民は学ばず、白痴状態。本当に国や子孫のことを考える人物を見殺しにして、侵略者に操られるままになる。

話を戻すと、先日の11月23日は勤労感謝の日であった。これは元々我が国伝統の一大祭日である「新嘗祭」を新暦に無理やり合わせた結果生まれた祝祭日である。「新暦」と言う言葉も腹が立つので「偽暦」と呼ぶことにする。この起源は文書記録以前からの風習だと言われている。明治神宮の説明書きは以下の画像の通り。

 

本来は五穀豊穣を感謝し、翌年の豊穣と平安を願う祭事。古来はこの重大な神事を執り行うことができるのは神霊の子孫と称される人たちとその関係者のみ。しかし、その意義を理解して、宇宙を構成する一メンバーとして我々も感謝することは当然だと思う。盛大な行事をするのではなく、個人個人で感謝すればよい。そして、ポイントはこの神事は元々「冬至」の頃に行われていたのである。つまりクリスマスと同時期。ところが、現在はこれがすっかり忘れられ、偽暦の悪影響もあり、「新嘗祭」の存在とその意義すら知らない国民が増えている。まさに本末転倒。これほど重要な祭日をしらずに、どうして信者でもなく、内容もよくわからない舶来のイベントに騒ぐのか?我々は商人に踊らされて有名無実なバカ騒ぎに散財させられているのである。

 

いい加減に目を覚ませ!

 

商人たちも我々に無意味な散財をさせるな!伝統文化を商売にうまく結び付ければよいではないか。アイディアを欧米ばかりに頼るのは情けない気がする。チョコ祭、化け物仮装イベントも同じだ。恋人同士のお祭りが必要なら七夕にすればよい。霊界とつながる化け物イベントが欲しければ、お盆やお彼岸にすればよい。女性たちに言わせると、伝統の儀式は「可愛くない」「オシャレじゃない」そうである。自分たちでお洒落に楽しく、可愛らしくしようとする積極的な観点が抜け落ちている。そしてその商人(財界)こそ侵略者の手先である可能性が大きいことにも気付くべき。古代より商人は社会制度の下位にランクされ来たけれど、それは社会にとって害となるリスクが大きいからである。だから商売よりも上位に存在する思想、哲学、信仰によって牽制していた。つまり精神(哲学)が物質をコントロールしていた時代。コントロールを失った物欲とそこから生まれる力は弱い人間を惑わす。ところが、その魔力に魅入られた連中はこれを逆転させようと謀略を巡らし、錬金術によって、まんまと物質が精神を超える世界に切り替えてしまったのである。連中に依存しているメディアも彼らの豪勢で派手な言動を騒ぎ立て、都合の良い価値観を流布し正当化する。卑近な話をすれば、戦後の日本を立て直した大企業家で自分自身の豪勢な生活を誇示した人は少ない。それが今は、豪邸、高級外車、グルメ、宇宙旅行などをひけらかす。魂の質が違う。これにより神が嫌悪していた問題を隠蔽するような風潮と価値観を作り上げた。その結果、人間や社会の優劣を経済効率のみで論じるようになっている。物欲には限りが無いので、外に向かえば侵攻(侵略)行為になることは必然。現在のお金や武力中心の世界に変貌してしまった。今は正に神が一番嫌悪し、危険だと警鐘を鳴らしていた状況になっている。

新嘗祭は本各地の神社で行われており、周辺住民たちがお供物(新穀)を奉納する。明治神宮では毎年奉納された野菜を使って宝船が作られる。画像はネット(多摩市の農作物応援サイト)より拝借。

帆掛け船の骨組みに野菜を積んで形を作っていく。完成した状態を見ることはあっても、制作過程を見ることは関係者以外は不可能。ネットの普及によりこのような裏作業を見ることができることはありがたい。

日本の祭事で大切なことは、作業に参加すること。それによってより深いつながりが生まれる。

野菜の宝船が完成すると、こんな感じになる。

地方の神社はここまで盛大ではないけれど、儀式の意味はちゃんと継承されている。地元関係者たちが野菜類をお供えし、参列して執り行う。このような文化の継承はとても大事。儀式自体の見た目はお神輿や山車もないために地味、質素であるけれど、意味は非常に深く大きい。この張り詰めた神霊の気を感じるべき。

皮肉を言えば、派手な法被を着て、威勢よく騒いでいるだけの連中は目立ちたがりの傾向が強いので、神霊とは必ずしもリンクできていない。なぜなら、神霊がもっとも忌むものが自己顕示欲の強い人間だから。アウトプットばかりに夢中になる人間に神霊のメッセージはインプットされないのである。神様が選んだ人は自然に特別な雰囲気、存在感を持っているものなので、自ら目立とうとはしない。自分から目立ちたい、有名になりたい!と思ってきた人たちとは異なる。

 

それどころか、畏敬と感謝の念を持つべきところに、人間のエゴを持ち出すから、乱闘騒ぎになったりもする。「祭りと喧嘩は江戸の華」という言葉を良いつもりで言う人が多いけれど、それは認識不足。神様の目の前で人間の醜さ愚かさをさらけ出して、何が粋で格好いいものか?単なる目立ちたがりのヤンキーに似た発想である。

 

生死が身近であった戦乱の時代から時が経ち、平和ボケをし始めると人間は神仏を忘れ、出しゃばるようになる。これは今も同じ。

伊勢神宮における新嘗祭は静粛で荘厳なもの。一切の穢れやノイズを嫌う。

つまり、この様に地味に見えるけれど、その意義を理解している者&場所に神霊は降りていらっしゃる。そこで神と人間の会話が始まる。雅楽や舞踊も奉納されるけれど、自分の芸をひけらかす芸能とは異なる。神との対話においては人間の猥雑な自己顕示欲や自慢気な言動などは会話を邪魔するノイズなのである。出しゃばるべきではない。

(Study Hackerより)

 

元々、祭りは芸能と密接。歌謡や舞踊は呪術や巫女とも関係が深い。人間の作った言語(言霊とは違う)によらない神との会話であるとも言える。最近はアルバイトのにわか巫女さんも多いけれど、本来は神とリンクできる人は選ばれた人のみ。参列する人々も潔斎をして臨む。その人間を通して参加者全体がリンクすることができた。これが神事の奥義。清浄な波動。神や宇宙と通じている芸能にはこれがある。それを勘違いして祭事と見世物としての芸を利用して成り立っているのが現在のいわゆる芸能界、イベント屋。神とリンクしている、神様がお認めになった本物の才能も確かにあるけれど、大多数は無縁の芸であり、弊害となりがち。観光や町おこしと結びつけているところも少なくない。彼らにとって祭事は神霊とは無関係の、人集め&金儲けの手段としての催事なのである。そのような偽神事では神様を差し置いて人間たちが主役になりたがる。見て見て!俺様は凄いだろ!格好いいだろ!私は可愛いでしょ!生き物には子孫繁栄のための異性に対するアピールもあるけれど、人間はその範疇を越えた自己顕示欲(名誉欲、権力欲など)が強すぎる。これが害。

(白山神社の新嘗祭)


また、動物を狩る、捕まえる、追いかける、闘わせる、などの祭りがあるけれど、あれが神事であるとは思えない。他動物いじめを神様がお喜びになるだろうか?あれらの蛮行を「勇壮だ」と形容するようになったのは、戦乱の時代に武力(暴力)で台頭して来たチンピラたちである。現在はサムライ、武士などと格好いいイメージになっているけれど、始まりはヤンキーや暴力団に近い。そのままでは平和が訪れないことに気付いた偉人たちが長い乱世から学んだ教訓が武士道の骨子となっている。自分たちの持つ武力の裏表の危険性を熟知しているから、自制、自己コントロールに関する解決方法を神仏や禅などの哲学に求めた武将、武人も多い。そこから様々な決まりや礼儀作法が生まれた。狩猟を武士としての技術や知識を継承するための稽古、その一環としての競技会であると言うならば、まだ理解できるけれど、それを無理やり「奉納」「神事」とするのは神様に対して失礼。下品な他動物イジメを一方的に奉納して、神様がお喜びになるはずがない。そんな行為を「町興し」「村興し」と言うのは詭弁だと思う。

(寒川神社の新嘗祭)

 

話を世界に広げればオリンピックも同様。聖火をあたかも神事のようにギリシアから運ぶのは正当化するための大義名分。偽神事だから国力を見せつけ合い、商人と政財界が癒着した利権まみれのイベントと化している。スポーツ信仰者(自分も大好き)は反感を覚えるかもしれないけれど、筋肉主体の発想で世界平和は実現不可能。正確には動物と同じような単純な脳ミソであればよかったけれど、中途半端な脳を持ってしまったために余計な事を考えてしまう。それを修正するために神の叡智が必要であり、その内容を知るためには哲学的な素養が必須。スポーツで本当に世界平和を作れると言うなら国連は要らない。

(「オールアバウト」の記事より)

 

大きなノイズは感覚を麻痺させ、真実を覆い隠してしまう弊害がある。ホワイトノイズと言ってノイズの存在すら気付かせないようにするものもある。だからノイズに隠された闇がある。最近話題のプロダクション会社の問題などもその闇の一部。その表面的で華やかな部分のみを利用し、闇を見て見ぬふりをして来た業界関係者の手のひら返し的な言動と、自称被害者に対する過剰な綺麗ごと(擁護)は不自然に感じる。
 

これがわかるとお笑い、歌手、俳優、スポーツ選手,yotuber、文化人、政財界人などがいかに有名であろうとも、神霊とリンクしていない人たち(大多数)は単なるノイズの大きな見せたがり、出たがりの存在(自己顕示欲過多)に過ぎないことがわかる。ノイズが大きな人は即ち感性の鈍い人であるとも言える。五感が鈍いため、過剰な音、激しい運動、強い匂い、濃い味などを求めてしまいがち。これに対して、感性の繊細な人は自然界や宇宙の至る所に素晴らしい歌(音)、ダンス(波動)、芸術作品(自然界)を感じることができるので、高額なチケットを買ってはるばる商人の私腹を肥やすイベントに出かける必要もない(個人の楽しみは別の問題)。ところが、世間ではそのように繊細な波動を感じることができず、大きなノイズを発信する人のこともインフルエンサー(影響力のある人物)と言ってしまうことが多い。神のメッセージを理解しないノイズは大きくなると逆に害毒。刺激が強いために、起きている問題を隠したり、宇宙(神)の摂理をわからなくしてしまう。強いお酒や麻薬と似ている。上手に使えば妙薬であるけれど、間違えると毒になる。洗脳などの情報操作にも用いられる。

 

また、ノイズ人間たちは同じ波長で類は友を呼ぶ傾向がある。芸能スポーツなどで大勢が盛り上がる集団心理現象があるけれど、あれがその一形態。それが社会的な行動になると革命や運動、紛争などに形を変える。ノイズの共振である。そして侵略者のメディアはそれを利用して洗脳する。自立していないメディアはノイズ拡散の役割を担うこととなる。単に公共電波やメディアに露出する回数が多いだけのいわゆる有名人を、どうして妄信するのか?発信する内容(質)を考えるべき。質の悪いノイズの拡散は世界に害をなす。多量に放出された結果がいわゆる風評被害、デマ、洗脳、錯乱などになる。

自分で学習もせず公共電波に依存しているだけの人たちはほぼ被洗脳者と言える。被洗脳者はノイズと近い波長をもっているために共振する。現世界は被洗脳者が圧倒的多数。つまり、世界や社会構造は被洗脳者の波長(波動)に影響される。共振元の波長が正しければ、平和な世界(正調)であるけれど、間違った波長であれば乱調の世界となる。不安定な乱調の世界の中で正調を保っている人間(極少数)は止まっている(不動心)か、あるいは調子がズレている(浮いている)ように見える。従って、今の世の中がおかしいのであれば、世界を蔽っている波長(波動)が狂っているということ。これを修正するためには基調となっている波長(波動)を変えなければならないけれど、乱調が主体となっている世界において、多数決(愚衆の民主主義)は悪循環を継続させるだけで、修正は不可能。間違った悪循環から生まれる思想や理論(権威、優劣、正誤、真偽などの根拠)も同じ指向性を持っているから、その渦中にいる限り正誤の区別すらできない。だから、そこから離脱せよと一生懸命にご説明なさったのがインドの賢人であった。まず正誤を見極めてから、修正の方法を考えて実践することになる。ちなみに、波長(波動)を判別するためによく観察することを日本では「気を読む」と表現する。観察分析すること自体は非常に重要なことであるけれど、これを狭義(全体を見ない偏った指向性)で用いると、しがらみ、腐れ縁、組織内腐敗、コネ社会、村社会、忖度などにつながる。

 

私の分析と経験では洗脳被害が一番大きいのは戦争直後に子供時代を過ごした世代。洗脳教育は最初の6年間が一番念入りに厳しく行われたため(WGIP洗脳計画)、多感な時期がそれと重なった世代は、年は取っているけれど日本人ではないような人が多い。大体の目安としては、日本の伝統文化習慣思想や歴史に疎いことが特徴。幼少期に戦争体験をしているはずなので、そんなはずはないと思いがちであるけれど、現実は違う。人格形成の一番大事な時期にモロに洗脳されてしまったのである。皮肉なことに(侵略者側には都合が良いことに)ある程度裕福な家庭に多く、彼らが戦後の政財界を構成して来たのである。舶来志向で洋風の住宅に住み洋風の風俗習慣(音楽や飲食、ファッションなどの趣向)に染まっている人が多い。自国の文化のことには詳しくないけれど、海外事情には明るく外国語も話せる。日本の伝統文化や思想を「島国の貧乏人の発想」だと馬鹿にして来た。これらの人々が政治や教育の中枢にいるとすれば、その国は同じ志向性(指向性)を持った社会となることは当然。

(戦後の進駐軍によって立案された日本植民地化政策)

 

よく、昭和は素晴らしかったと言う人がいるけれど、昭和の大企業を創生した方たちはその洗脳を受ける前の世代である。そして洗脳被害の大きなブルジョア出身ではない。第一洗脳世代は現在70代から90代の人たち。昔の記憶は残っているけれど人格形成時期は洗脳期間に相当する。第二世代は生まれた時点ですでに洗脳真っ最中なので伝統的日本文化の素養すら持たない人が過半数。その子供たちは数世代に渡って物質文明に魂を侵されバブル経済を作った。カブキモノ(目立ちたがり)や成金、アウトロー的行為が格好いいと勘違いする若者が増え、道徳や伝統的な哲学が否定され、正体がまだよくわからない「資本主義経済」「民主主義」「自由」「人権」などを妄信していた。そこから家庭内&校内暴力、○○族などが登場。大学は学び舎ではなく遊園地と化した。子供のくせに身分不相応なブランド品に夢中になった。本物のヒッピーやレゲエ、ロックの精神&哲学には人間の深遠な苦悩と向上心があったけれど、日本で形だけを真似したそれとはまったく異なる。

そういう連中が平和ボケ社会を作り、私利私欲にまみれたバブル経済を経て大企業の管理職や幹部となったから日本企業は衰退したのである。実体のない数字だけの幻想経済(先物や投資などの不労所得と不相応な融資)に踊らされ、先人の作り上げた会社を乗っ取られてしまった大企業も少なくない。

 

もちろん全部がそうではないが圧倒的多数。しかし、日本は文字として記録に残される先史時代から同様の経験をしてきたようで、神霊の理から外れた場合の教訓を魂の遺伝として持っている。そこから個人が出しゃばることを控え、謙虚、謙遜、気遣いなどの発想が生まれた。これは近代まで非常に優れた自衛システムと情報分析フィルターの役目を果たしていた。それが言霊(言語)と結びついて物質と精神的の両方の防御&調整システムを構築している。だから、日本は他国のように簡単に植民地化されなかったのもこれが一因。世界中の非侵略国は自分たちの言語と文化を失ってしまったところが多い。残っている場所は侵略者たちが興味を示さなかった未開の地のみ。おそらく彼らは今でも神霊と共に生き、我々の古い形態を継承している家族、同志である。そして彼らの存在は「近代科学文明がなければ生きられない」という偽神話が嘘である証拠でもある。

 

ちなみに、気遣いは忖度とは違う。神様との関係で人間が考えるような忖度は無く、圧倒的な畏怖の念のみ。神霊の理から外れて人間同士で勝手にする気遣いを「忖度」と言う。先述したけれど、この誤った忖度の弊害が村社会、島国根性、組織の束縛や癒着や腐敗、能力と無関係の年功序列制度、悪い意味のコネ社会につながっているのである。実は忖度は人間の支配者(権力者)が合理的な支配と服従のために作った概念なのだ。同様に常識や決まり事にも同様のカラクリがある。当時の権力者は自分たちに歯向かうことができなくなるように気遣いの定義を都合よく改ざんしたものも多い。多くは神霊の理を大義名分とするけれど、よく見れば、宇宙の必然から生まれた調和や善意に基づくものと、権力者たちの恣意的都合から作られたものの区別がある。

一方でこれらの伝統的防衛システムを破壊しようと企んで来たのが近代の侵略勢力である。連中は日本の伝統文化、価値観、習慣、信仰、伝統教育、言語などを古くて間違ったものだと思わせて、自分たちの言いなりになるような教育を強制的に行って来た。日本の文化という壁を破壊するために基本の精神や哲学を破壊して来た。強固にまとまった精神文化はなかなか壊れないので「個人」の人権やら「自由」などを過剰に強調して内部崩壊を促す。お互いに思いやりや気遣いを失い、いがみ合うようになると、求心力を失い分散する。連中はこれが狙い。政治経済産業生活は本来一体のものだけれど、私利私欲を優先して全体を考えなくなると、連携していたバランスが崩壊し始める。これが日本の現状。それでもまだ壊れないので、今度は「地球(グローバル)」「国際化」「世界のため」などの概念を持ち出して、日本の連携の鎖を分断しようとしている。騙されてはいけないのは、それらは「一部勢力が考えたグローバル、国際化」であって、宇宙や自然の摂理とはかけ離れた都合の良い既得権益勢力の発想なのである。

 

日本古来の絆や言霊を壊す存在がノイズである。精神世界と関係が深い言霊を弱体化するために外来語とその概念を押し付けて浸透させる。言葉(言霊)をぞんざいに軽率に用いることは危険。正体不明の概念(外来語に多い)を不用意に取り入れるのは寄生虫や病原菌に感染するのと同じ。身近なところから親密性を装って近づき、侵入&同化する。連中は我々の栄養を見えないところで吸って肥え太り、繁殖する。

 

教科書、教師は都合の良いものだけが選ばれ、真実はうまく隠される。これらの謀略を誰かが問題提起した場合はメディアを操作して「陰謀論」「都市伝説」だという方向へ誘導し、それ以上の調査や分析をさせないままに問題をウヤムヤにし、自然消滅させる心理的効果も考え出された。我々はこんな目くらましの策略に乗らず、徹底的&客観的に追及するべき。

 

最近の例として横文字の羅列で関心を集めているSDGsやLGBTもその一つだと思う。そんなものは日本においては自然発生して融和して来た存在である。当初の欧米は日本に存在したそれらの概念を穢れた貧しい思想と習慣であると批判し、それを真に受けた無知な成金政治家たちが西洋の不自然な理屈を社会に持ち込んだのが迷治異心。それにようやく気付いたにもかかわらず、自らを最先端の思想のごとくアピールし正当化しようと騒いでいる現象なのだ。それを金儲けのチャンスだと捉えた連中がそれに便乗する。安定した社会になると金儲けは難しいから戦乱や危機感、不景気、不安を利用するのである。その経緯や歴史も知らない日本人が有難がっているのが昨今の状況。今さら特別扱いするほどのことでもない。

年中行事の中では2月チョコ贈呈祭、10月化け物仮装祭、12月西洋風偽聖人祭が三大ノイズである。この手の横文字言葉を得意げに使う連中は既に言霊を失いつつある証拠。政治家、有識者、メディアにも多い。従って、どれほどメディアが害毒ノイズを垂れ流そうとも、我々は意味不明で不快な言葉は拒絶するべき。使うべきではない。言語伝達を生業とする自負があるならば、メディア関係者もきちんと和訳するべき。和訳ができないということは、内容を正確に理解していないと言うことでもある。それすらできないマスコミ人は既に終わっている。ちなみに、現在我々の使う科学や政治経済用語のほとんどは近代に日本の知識人たちが和訳した成果である。

 

ノイズを取り去り、神の本当の叡智を知る方法は主に二種類。哲学(精神)と科学(物質)。そしてこの二つは真理に到達した時点で同体となる。別の言い方をすると、どちらかを極めると他方も自然と極まる。そして、その時に三つ目の力が与えられる。「与えられる」と言うよりも、別次元にステップアップしてしまうのだけれど、それはまるで三つ目の力のように見えるのである。そして、この第三レベルの発する情報(霊魂などの万有エネルギー)が大ノイズを淘汰駆逐する正調(正しい波動)となる。そうすると精神と物質の一見すると対比関係にあるような構造を俯瞰することができるようになるので、そのバランスを修正し調和しようとする。その動きはまるで、オセロゲームと同じようになる。

と言うのは、実は大ノイズは正調に対する乱調であり、等しく「調子」(波動)に依存しているから。つまり裏表の関係。大悪人は大善人と似ている。調子を作ることができるエネルギーの大きな集合体(その他大勢の我々一般人はその粒子の一つに過ぎず、指向性も持っていない)である点は同じ。だから、大ノイズを発する人は調子が違っているだけで、本来所有しているエネルギー自体はそれなりの力がある。自分の乱れに気付いて、正しい調子を取り戻してくれれば、この世界と宇宙に多大な貢献をできるだけの力を備えているのである。敵が味方になるのであるけれど、それがオセロの裏表(白黒)と非常によく似ている。これらは東洋哲学では陰陽、タオの発想につながる。西洋では悪魔は元々は神だったという発想。

 

このオセロゲーム盤は第三の存在に気付いた時点で登場する。第三レベルの存在に気付いた人たちにしか見ることができないゲームと言える。しかし、ある条件が整わない限り、見るだけで、参加することはできない。ちょうど現世界がそのタイミングとなっている。同様の問題提起をされている方々は世界中に散在しており、それらの言論や本人と遭遇する機会は神霊がお作りになった「ご縁」「タイミング」「運命」。それは「神様からの次のステップへ至る招待状」だと思う。そして、この招待状をもらった人はそれを仲間や同志たちに無限に配っても良いことになっている。私もかなり前にこのご招待をいただいたので、配っている最中。このブログもそのうちの一つ。

 

黒(乱調)で覆われていた世界も、正調(神の叡智)を知った途端に、次々とパタパタと裏返り、白い世界に変わるのである。何も学ばず、問題意識を持たず、適当に生きる人たちはゲーム盤上に上がれない無指向の粒子たちに相当する。それらの存在にとっては白黒の裏表はどうでも良いので、自動的に追従するのみ。責任感も存在意識もない。ゲーム盤の存在すら認識できない。選挙の時などに特定の思想を持たないけれど選挙権だけは持っている「浮動票」と同じ。都合次第で白にも黒にもなれる。安定していないからノイズの影響を受けやすい。これが大多数の民衆。自分で調整することができず(学ぼうとしないのだから当たり前)、不安定だから癒し(安心、安堵)を求める。癒しは本当の安定と、ノイズによる攪乱&錯覚や逃避(一時しのぎ)の二種類あることに注意。

 

そして、もう一つ大事な点は、オセロは自分だけ白でも(単独)相手を裏返すことはできない。味方が他にも存在して、相手を挟むことによって裏返すことができる。即ち、正調を持つ人々が同時に立ち上がり、邪悪な乱調(黒)を囲んで挟み込んでこそ勝つことができる。これこそが、救世、改世である。正調を理解した正義の戦士たちが超国家、超民族で一斉に蜂起することによって、白黒の裏返しは可能となる。間違いなく、黒い連中は白の撲滅を図るけれど、それに我々は負けてはならない。世界、宇宙を良い方向に替えるのは、白(正調)をできるだけ増やすこと。まだ白黒の区別もできず、ゲーム盤上にも上がれない魂が大多数であるけれど、まず白(正調)を知ることが大前提。現時点の白い戦士は圧倒的少数であるから、まず数を減らされないように助け、守る。それと同時進行で正調を世界に普及して白い仲間を増やすことが現実的な救世の方法である。その意味では私のブログに偶然遭遇してこの問題意識を持った時点で、すでにその人は白の戦士となるきっかけを持ったことになる。反対に敵意を持ち、黒を守ろうと思う人もいるかもしれない。そこから先は本人次第。これらの調整が不可能となった場合に神の恐怖の強制リセットが来る。

そこで問題となるのが、では一体何が「正調」だと言うこと。これは哲学や宗教でも未解決の大問題。人間としての私は無知であるけれど、私の力の背後にいる存在からのメッセージを簡単に言えば、神霊の心が比較的残っており、客観分析研究ができる環境(生活経済、文明力、自然条件など)が整っているのは日本。特に参考するべきは、平和ボケをする以前の清濁を併せて吞む経験をしていた時代。戦乱を収めた江戸の初期が今の我々には理解しやすいと教わっている(途中から平和ボケをしたので、後半は要注意。精神が弱体化して初心を忘れる教訓でもある)。また、最近は超古代の綺麗ごとや理想社会に注目する言動が多いけれど、最初からそれに焦点を絞るのは、文明格差(生活や思考の相違)が大きすぎて、最初から諦めてしまう。冷水にいきなり飛び込んだら心臓マヒを起こすのと同じ。そして、古代の支配者が作った神話とそのまま結びつけることも間違っている。支配者は侵略者であり、その末裔は偉大な前時代の文化遺産を模倣しているだけに過ぎないのである。霊性は人間の考えるような遺伝はせず、模倣は所詮コピーであり本物には成れない。コピーが本物になろうとすることが大間違いの根源なのだ。本物は黄金の宮殿に生まれ住むとは限らず、掃きだめやスラムからも生まれる。しかし、真偽を見分けることができるのは同レベル以上の存在であるので、一般人間世界では至難の業。見分けるヒントは神霊の声。教えてくれる。

 

とにかく、世直しには先に積もり積もった害毒をデトックスすることが必要。再生の前にはリセット作業が大切。これは私の治療法と全く同じ。そこを治さず綺麗ごとを論じたり、表面的な施術をしても一時的な措置に過ぎないので、また悪い状態にリバウンドしてしまう。この悪循環にハマるといわゆる不治の病、難病となる。話すと長いので、以下省略。

偽暦によって捻じ曲げられた勤労感謝の日に米国やカナダではサンクスギビングと呼ばれる感謝祭なるものが行われる。この意義は世界各地で行われる冬至の感謝祭と同じルーツを持つものであるけれど、その形態は似て非なるもの。

別名「七面鳥の祭典」とも呼ばれる通り、生き物の大量虐殺である。 伝統的な正餐のメインディッシュとなるのは、七面鳥の中に角切りにしたパンを用いた詰め物(「スタッフィング(stuffing[3]」または「ドレッシング(dressing)」と呼ばれる)や野菜、ハーブなどの詰め物を入れた大きな七面鳥の丸焼きである

五穀(特にお米)や野菜を主とする我が国とは全く異なる価値観。そして、これが挙行されている土地に元々住んでいた先住民たちとも異なる。自分たち(侵略者)の命や健康、利益が最優先であり、他の生命に対する尊厳の心は皆無。彼らの信じる存在が本当の「神」であるかどうかを疑うような光景である。本当に神様が、人間たちの欲望のために作られた、血塗られた食事をお喜びになると考えているのだろうか?おそらく、将来、これらの批判から逃れるために彼らは新たに「犠牲となった生き物たちの供養」「先住民慰霊」の祭典を作ると予想する。これも問題をうやむやにする心理作戦に過ぎない。つまり、建前として供養するけど肉食文化を継続させようとする姑息な発想。供養するくらいなら今すぐその原因となる行為を止めるべき。先住民に申し訳ないと思うなら、土地も文化も返還するべき。

 

ちなみに、日本では古くから色々な生き物の殺生塚(慰霊碑)がある。墓ではなく、この世の一切の無常(無情)な行為に対する思いの表れ。また筆塚、針塚などもある通り、物質に対しても同様の敬意と愛情を持っていた。それは、その背後に神様の存在を常に意識してきた証拠なのである。

Wikipediaによると感謝祭の歴史は以下の通り。

感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州プリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムがプリマスに到着した1620年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた。1621年の秋は、特に収穫が多かったので、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っていて、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた1623年の感謝祭は食事会というよりもどちらかというと教会で礼拝を行って、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった。

この説明を読むと、日本の新嘗祭に近い形態であったことがわかる。ところが、この後に彼らの子孫は飢餓に際して助けてくれた恩人である先住民を駆逐して全土を侵略すると言う暴挙に出るわけだ。どうして恩人に対してそのような裏切り行為をできるのだ?信仰と魂を失ってしまったのである。その末裔に侵略されている我が国では彼らに都合が良い話しか教わらない。しかし、先住民(インディアン)の見解は以下の通り(Wikipedia)。私もこれにはその通りだと賛同、同情する。

 

インディアン達は「感謝祭」は、この日を境に先祖達の知識や土地がヨーロッパからの移民達に奪われた、「大量虐殺の始まりの日」としている。1969年のアルカトラズ島占拠事件では、これに賛同したインディアンたちは「感謝祭の日」に合わせて数百人がアルカトラズ島に上陸した。ワンパノアグ族を中心に、ニューイングランドのインディアン部族が結成する「ニューイングランド・アメリカインディアン連合」は、「ピルグリムファーザーズ」のこの「感謝祭」にぶつけて同じ日に、「全米哀悼の日英語版」としてデモ抗議を毎年行い、喪服を着て虐殺された先祖達に祈りを捧げている。

また、感謝祭の翌日の金曜日は「アメリカインディアン遺産記念日」(American Indian Heritage Day)として、合衆国におけるアメリカ先住民の位置を認識し高めるための祝祭行事を行い、かれらの伝統文化や言語の遺産を再認識するための日になっている。

最近のロシア、中東の紛争も同様だ。どうして遠路はるばる他者に干渉し、侵略しに来るのか?その発想こそが大問題。連中はそう思わせないように、内乱を扇動し、あたかも救援のためにわざわざ駆け付けたかのように見せる。これは連中の常套手段で我が国も明治期からその影響下にある。内乱を鎮めるための支援だと偽り、大量の武器を敵味方の双方に供与して、戦わせた。その結果、国を治めることができずに迷って、間違った精神性に舵を切ったのだから、私は「迷治異心」と呼んでいる。葵のご紋章一族は欧米列強の脅威に備えていなかったから近代兵器の前におびえただけのこと。初代家康であれば必ず匹敵する防御システムを準備していたはず。ついでに八月十五日は「植民地潜在支配開始の日」と呼ぶことに決めた。

 

ちなみに、最近は援助友好を隠れ蓑に、返済が到底不可能な融資を持ち掛ける手法が国際的に流行している。これは武力を大っぴらに使えなくなった国際情勢に対応した新しい侵略方法である。大規模な鉄道、電力、通信などのインフラ建設を融資とセットで持ち掛け、返済が不可能となると、その代わりに土地や権益を強奪する。その策略に引っかかる側は目先の利益に渡りに船とばかりに飛びついてしまうのである。彼らが狙うのは港湾、天然資源の存在するエリア。発展途上のアフリカがターゲットとなっているけれど、日本も危うい。経営不振&負債を抱えている企業や自治体、不動産が狙われている。ウチが肩代わりしてあげますよ!もっと人生を楽しくしましょうよ!有効に資産活用しては如何ですか?などなど。このままでは合法的に国土が侵略される。

 

この点についてはかなり前から関係機関に問題提起をして来たけれど、政府は全く動かない。つまり、危機感の欠如と、それを妨害する&手引きをする裏切り者がいる証拠である。いわゆる獅子身中の虫であるけれど、これらを駆除しない限り、我が国は虫食い状態になることは必定。

(アフリカの輸入統計・ジェトロ)

 

平和ボケで世界情勢も自国の歴史文化すらも知らない人たちはいい加減に目を覚ますべき。よく「私は歴史が嫌いだ、関心がない」「私はそれほど頭も良くないし、一般人だから・・・」「今が楽しければいい」「もう年だから先は長くないし・・・」などと言う人がいるけれど、

 

だから何?

 

そのままでいいわけ?自分のことばかりで、子供たちの将来のことは考えて上げないわけ?それじゃあ何も変わらないし、変えられない。

 

一方で若い人たちは「どうせ選挙に行っても何も変わらない」「高望みはしないから、ほどほどに今が楽しければ良い」。学習をしないから日本が今でもほぼ植民地同然の状態であり、政治が機能していない理由にも気付かない。改ざんされた歴史教科書や、嘘つき政治家たちに抗議することもなく、選挙もいかず、選挙以外の具体的行動もせず、一方的に洗脳され続け、諦めるだけ。

 

だから何?それで、何ができるの?

 

本当に日本のことを考えている政治家は消され、芸能人まがいの見た目とウケ狙いの言動だけで頭が空っぽの操り人形が選ばれるようにできている。君たちが変えない限り、その悪循環は継続する。そして侵略者たちは我々の内部に隠れ潜み続け、寄生虫のように栄養分を吸う。せっかく君たちが働いて収めた血税は、連中と洗脳された自虐史観をそのままに放置して来た昭和生まれの老害高齢者たちに喰いつくされるのである。彼らの大多数は侵略者たちに飴と鞭で脅され、もはや更生して、社会を直す力を失っている。無知で勉強不足、私利私欲だけの老人たちは、国の将来も考えずに、税金だけでなく、代々受け継がれて来た国土や会社、知識、技術までも平気で海外資本や外国人に売り渡してしまっているのだぞ。自然豊かな山林、水源地、田畑は君たちのものではなくなりつつある。おかしな農政により農作物の自給率はどんどん減少し、肥えていた大地や田畑は荒れ地と化している。こんな状況で「新嘗祭」が行えること自体が先祖や日本の神々に対する冒涜、無礼、恥である。

 

それでいいのか?

 

このまま、消極的なだけで、何も行動を起こさず、将来の君たちに何が残されると考えているのだろうか?将来住むところも、食べるものも全て失うことは間違いない。これを誰が止めるのだ?いつか誰か(平和ボケの大人たち)が止めてくれるなどと、他人に依存して甘えている限り、何も変わらないよ。そして変えるタイミングは今が最後のチャンス。それは歴史の事実と裏事情を知る人が少数ながらまだ生存しているから。これは君たちの最後の生命線と言っても過言ではない。失うと、過去の素晴らしい遺産と将来のリンクが切れてしまう。身近にいるなら、大切に接し、有益な知識と情報を引き出すべき。そこから対策を導くのだ。

同時に老害となっている非日本人は淘汰するべき。日本人としての中身(質)は年齢、肩書(キャリア)、地位(家柄血統)とは必ずしも比例しない。しかし、権力者や狡猾な大人連中は賢明な人間に気付かれるリスクに備えて、巧妙な保険(縛り)を考案した。それが実質の伴わない年功身分序列社会、○○崇拝、○○制度、〇孝行、様々なタブー禁忌などである。これは保身&支配のためにはとても便利な概念であるから権力者は古来から治世、組織支配に採用して来た。〇教、○○学などがその代表。「道徳」という大義名分を持ち出し、背後には神霊と関係があるように見せかけて、自分たち(年長者、親)に抵抗できないように教育してしまうのである。必要な内容と混在しているし、状況が時代とともに変化しているので、判別が非常に難しい。また、裏に実在する邪悪な年長者や毒親(子供の可能性奪う)などは言及されていないので、世界にのさばり害をばらまき続けることになる。それらは子々孫々の負の遺産となり、後輩や子孫の可能性を潰し、神霊の正調世界を壊している事実もある。そんなものは真の「道徳」「神様」ではない!宇宙の害毒は淘汰駆逐するべき。のさばらせて、好き勝手をさせてはならない。

 

念のため、くれぐれも「淘汰」「駆逐」の意味を安直に誤解しないように。「若気の至り」と言う通り、若いエネルギーは道理を軽視して暴走するリスクも大きい。その時に頼れるのが、先述した歴史や文化に精通した賢明な年寄りたち。国や子孫のことをちゃんと考えている大人たちは残念ながら圧倒的少数であるけれど、君たち若者がその気になれば必ず助けてくれる。私も微力ながら当然その一人になるつもり。そして、これからの世代はオセロの白の戦士をどんどん増やすべき。少数精鋭の白い戦士部隊で黒い烏合の衆世界を変えるのだ。お化け仮装祭や偽聖人祭で都会に繰り出す時間とエネルギーがあるなら、ヤル気を見せて欲しいものだよ。亡国メディアの洗脳と事実を隠蔽する攪乱戦略に乗ってはいけない。

 

一方では親や大人のせいにするばかりで、自分自身は何も学ばず、具体的行動もせず、愚痴をこぼして自暴自棄になるだけの若者は間違いなく次の世代の老害となる。すでになりかけている。

卑近な例を挙げれば、一部の軽薄な若者たちによって子供たちが大好きだった回転寿司の楽しみが奪われた。実物を見て感じて選ぶことはできず、写真の乗ったお皿が回って来るばかり。あれではメニューの写真を見るのと同じである。不要な設備投資をしたから値段も上がった。

 

過保護で自己中心的な苦情を言う大人が増えたから、海や山の遊び場には「立入禁止」の札がかけられる。無節操にバカ騒ぎをして、ゴミを持ち帰らずに汚せば美しい自然(海岸、キャンプ場、山)は利用できなくなる。日本の常識を無視する外国人も増えている。こうして、次の世代(子供たち)の遊び&冒険する機会と場所はどんどんなくなっている。

こういう悪循環の方向を変えないと、世界は悪化するばかり。世界の大部分はそうなっている。凶悪事件が増えると法律は強化されて差別も生まれる。正しい精神哲学(霊性)を教える人がいなくなり、自浄作用を失なうと世界はどんどん汚れていく。例えが飛ぶけれど、ある自動車メーカーの創始者は汚れにすぐ気づき、事故などの問題を直ぐ修正することができるように、わざと真っ白な作業着を着せることにした。普通なら汚れても気にならないように濃い色のものを着ることが多いのだけれど、彼は逆転の発想をした。世界や社会も汚れを放っておくと二次災害を生む。また、モノ作りの初心の謙虚な態度を忘れないために幹部社員たちは率先してトイレ掃除をする。これは伝統的な日本の精神哲学が受け継がれている良い例だと思うし、昭和の有名企業には似たような概念が共通している。それが愛社精神にもつながり、高度経済成長を成し遂げた。愛社精神は愛国精神の小型版である。企業規模に関わらず、自分の会社、家族、社員を愛する経営者と社員たちの絆は強い。これが日本社会の基盤であった。

 

反対の侵略者の立場から見ると、この絆と哲学こそが植民地化の最大の邪魔者であるから、絆を強化している歴史や情報、思想をことごとく潰そうとして来たわけだ。教科書から神話、英雄偉人物語、道徳などの内容が消されて、単なる年代と記録の羅列になった。これでは自国の文化や歴史に関心がなくなる。あんなクソ面白くもないものを受験試験に使う文科省や教育者たちはそれを自覚していないのか?右翼、軍国主義、ファシズム、専制政治などのマイナスイメージを作り上げて、それらが「あなた達の自由や権利を邪魔する古い封建主義的な思想なのだ」と教えて来た。これにより、日本人の絆はバラバラに分断する危機に直面しているのが現代。

実際に戦時中のような特殊な状況では滅私奉公のような束縛や不自由は存在した。また封建的習慣の中には「余計なお世話」的な過剰な干渉もある。村や近所のお節介年長者、戦時中の警察官などが典型的な例。地方では今も残っていることがある。その原因はやはり教養レベル。戦時中は優秀な人材は最前線に赴き、残されたのは老人女子供とレベルの低い公務員が多かった。それらの公務員(軍部関係者、警察官など)は教養に限界があり臨機応変な思考と対応ができないから、現代のマニュアル化して考えることができないファーストフードの店員と同じ。しかし、公務としての権力だけは与えられていたから弊害を生んだ。これは腐敗した国家に共通する現象。当時の子供たちはこの時の悪い印象が強いから、警察官をとても恐れ嫌っていた。侵略者である米軍兵士たちにギブミーチョコレートと言って懐いたのはこの反動もある。

 

よく、教養レベルを生まれや育ちと結びつけて言い訳にする人が多いけれど、言い訳できるのは遅くとも成人前後ではないだろうか。生まれたばかりで教養のある人など存在しない。受け身である限り恵まれた環境で育っても本物の教養は身につかない。逆にスラムや劣悪な家庭に育っても教養のある人はいる。感性、観察力、向学心、努力、哲学、情報などの集大成だと言えるけれど、得意不得意による分野の違いもある。万能な人間などほぼいないので、助け合って知恵を補完するべきなのだろう。

現状もマニュアル化した公務員が多いのではないか?また、憂慮するべきは、また非常事態になった場合はそれらの不適格な公務員が権力を持つことになること。そういう連中は将来のためにも排除しておくべき。AIなども活用して質と効率を上げ、人材不足であれば給与を上げれば良い。その代わり、不良人材は排除しておくべき。だから、古代の社会制度では、頂点には思想、哲学に精通した霊的レベルの高い指導者がいるべきだとされているのである。その下であるべき王(支配者)、武力(軍)やお金(財界)が上になろうとするからバランスが崩れる。精神性が伴わない人間に財力と暴力を与えれば戦乱を招くのは当然。戦後に教わって来た「政教分離」の発生起源は腐敗した宗教組織による干渉を避ける為であったかもしれないけれど、本来、政治には高尚な精神が必須である。神と共に生きていた古代は政教同一なのだ。


財布を落としても交番に届くのがこれまでの日本のはずだけれど、逆に盗まれるような社会になったら、人々の良心や信頼関係は失われる。誰かがタバコの吸い殻やゴミを投げ捨てているからと言って、自分も真似をしたら町は汚れる。道具類を満載したワンボックスカーで移動することが多い「職〇」と分類される業界の人たちによく見られる行為。自覚せずに当たり前に行っている時点で道徳観念が欠如していることは明らか。自分の悪行は社会を悪化させ、次の世代に悪影響を与えることに気付くべき。昨今は一様に「差別するな」と教えるけれど、差別(区別)は使い方によっては教育でもある。自業自得の原理は教えるべき。悪行&悪人は差別されるべきものなのだ。悪徳政財界人、社会に有害な組織、不正行為を働いた人間や企業、迷惑行為をする人間、品性の下劣な国などを良い意味でイジメ、差別することによって連中が居心地の悪い環境を作れば、生活や経営が困難となり、駆除することができる。付き合わず、話さず、物も売らない買わない・・・など、江戸時代の村八分制度的なアイディアが参考になる。ただし、間違った状態の多数決による村八分行為は誤った差別の悪循環を生むので要注意。例えば、情やしがらみによる「忖度(圧力)」である。これによって正しい言動は潰され、癒着、腐敗、戦争などが導かれてしまうことがある。

現実に企業の不正行為、詐欺などの犯罪が増えると、法律は厳格化されて住みにくい社会となる。日本の許認可制度は有資格者による申告制が基本であるため、有資格者が背任行為をすれば信頼基盤が根底から破壊される。だから有資格者の犯罪は厳罰化が望ましい。

 

実はここにもカラクリがあり、予防としての厳罰を作らず、わざと犯罪を犯させて、それを口実に民衆を差別して支配する方法もある。治世の矛盾や問題点をカモフラージュする存在が欧米のスラムと被差別民の存在。人権擁護運動を行うように見せかけて、抜本的な解決をしない。それは本当の抜本的解決は自分たち(政財界の既得権益者たち)に損になるからなのだ。

日本も同様の現象が起きつつある。ネット上の詐欺行為や若者の犯罪行為、企業や組織の不正行為など、日本の宝である「性善説社会」を侵す行為が増えている。私が経験(接触)して来た犯罪者(悪人)が一番恐れ、有効だと言うのは厳罰化であるけれど、警察も政府も対応が甘いまま。その気になればできるはずなのにしないのはなぜか?これを許しておけば日本もスラム化する。犯罪者は罰則を考えた損得勘定で行動するので、平和ボケな綺麗ごとは甘やかしてつけ込む隙を与えるだけ。性善説社会を守るリスク管理は正反対の「性悪説」的思考となることも知っておくべき。陰陽清濁を知ってこそ、正道がわかる。

 

そういう中で、唯一「性善説世界」を細々ながらも維持して来たのが我が国であることを再認識しなければいけない。公衆トイレに「綺麗に使ってくれてありがとうございます」、車の後部ガラスに「子供が乗っています」「お先にどうぞ」などのシールを貼る、気遣いと思いやりの精神こそが宝物なのだ。古来より「正直者は馬鹿を見ない」社会を理想として来たのである。それを、正直者が馬鹿を見る(この言葉が生まれた時が問題発生の時期)時代になってはいけない。

 

残された時は少ない。

 

 

暑い日が続くので涼を求めて山越え。お盆過ぎで、少しは混雑も終息したのではないかと思って、水浴びでもしようと思った。

田畑は秋の気配。コスモスが咲き、稲穂の実りも間近だった。

この辺は鎌倉幕府を作った源頼朝の行った最大規模の狩猟イベント「富士の巻狩り」の際に野営地が置かれた場所らしい。

このイベントに乗じて仇討を画策したのが、後の執権となる北条氏と曽我兄弟。侍の歴史上でもっとも有名な赤穂浪士の忠臣蔵と並ぶ有名な仇討である。

これを美談だとする考え方もあるようだけれど、元々は一族内の相続や所領争い。仁義や道徳の欠落した時代と人間たちの所業なのであまり価値は感じない。

日蓮宗の寺院があり、傍を清流が流れている。それを利用してワサビなども栽培しているようだったけれど、クレソンも自生していた。

満開のクレソンの花にはキタテハがたくさん。葉の香りも良いけれど、花の蜜も美味しいのだろう。

近くにはハナトラノオも咲いていた。

自然が保たれて山の幸が豊富にある素晴らしい環境。

清流沿いには百日紅が満開。

普段ならペットボトルの飲料でも買ってしまうところだけれど、せっかくなので飲み物の代わりにトマトとキュウリを購入し、食べながら歩いた。

清流をさかのぼるとこの川の水源地に出る。小さな泉である。

和泉の腋出している様子を見ているとオニヤンマが現れた。都会ではほとんど見なくなったので、とても嬉しい。しばらく見ていると複数が現れたので、集団見合いだったのだろう。

指をさし伸ばすと近寄って来たけれど、とまることはなく、そのままカップルを探して飛び去って行った。

色付き始めた稲穂の上をたくさんの赤とんぼも飛び交っていた。

田んぼの畦道にはあでやかなエゾミソハギ。

水源地のエリアにあるのが、水浴びをする予定だった滝。

夏は子供や家族連れで大混雑のはずだけれど、時間も早いせいか、滝壺にそれほど人はいない。

意外に空いているなあと思いながら滝壺に入ったら納得。あまりの冷たさに1分も入ってはいられない。

足だけでも麻痺して痛くなるくらいの温度だった。

水辺に来ると必ず水中を撮影しているけれど、冷たくてすぐに水から出てしまった。こんなに冷たいし、人も歩いているから魚などはいないだろうと思っていたけれど、後から動画をよく見たらマスやヤマメが足元にいたらしかった。この画像内にも3尾以上いる。

 

寒いので水から上がると、なぜか足元に白い蝶々がずっとまとわりついて来て、周囲の子供たちに笑われた。パンツの模様が花に見えたのかもしれないけれど、可愛いのでウェルカム。

伝承では源頼朝たちが夜営していた時に滝から太鼓をたたくような音がしたので家来に原因を探させると、滝壺から円筒状の太鼓のような石が出て来たらしい。それは溶岩が倒木を包んだままで石化したもので、お寺の境内に「太鼓石」として展示してあった。

帰ろうと思って駐車場に戻ると、滝の入口に参道らしきものを発見。登ってみると大東亜戦争の戦没者慰霊碑だった。

滝と清流を求める人たちは全く関心がないらしく、誰も来ない。

墓碑類を観察すると、ほとんどが階級の低い兵士で、地元から出征された方々であることがわかる。源頼朝の巻き狩りよりもこちらの方がよほど重い歴史だと思う。折角のご縁なのでご挨拶。

近くにある高評価のお蕎麦屋さんでランチをする予定が、1時過ぎに行ったら、全部売り切れ。混む時間帯を避けて滝を優先したのが失敗だと一瞬思ったけれど、ランチを先にしたら、逆に滝は混み始めていたはずなので仕方がない。

実際に帰る時には大勢の家族連れが集まり始めていた。

ならばと言うことで、近くにある湖のレストハウスを目指すと、そこも臨時休業。

仕方がないので、近くにある大規模観光地エリアに行くことにした。

ようやくありついたざる蕎麦とニジマスの塩焼き。しかし、静岡県の習慣らしいおでん出汁を使ったそば汁は個人的に合わない。やはり江戸風のキリっとショッパイ醬油味が良いなあ。特に暑くて汗をかいたときにはなおさらだ。

 

食事をしたらすでに日が傾いていたけれど、せっかくなので名物の滝も拝見することにする。脇の清流を下ると大瀑布になっている。

こちらの滝は超有名でスケールも大きい。

大きいけれど、最近はどこも滝壺に入れないので全く面白くない。マナーや事故のせいなのか?そんなのは教育と自己責任の問題のはずであるけれど、その観点を忘れると居心地が悪くなるだけ。最近の行政や世論は過保護な綺麗ごとが流行していることが非常に気持ち悪い。

普段は水しぶきに虹が見られたりするけれど、日が陰って来たので期待できず、早めに退散。

しかし、この領域の空気と温度は地上とは全く異なる。天然のエアコンになっている。とても気持ちがいい。

この日の富士山は朝からずっと雲の中。低地は晴れていたけれど、富士山の周辺にはずっと霧と雲がたちこめていた。

山を越えて反対側に出たところで、ようやく初秋の富士山の頭が見えた。

これからは紅葉の季節。楽しみだ。