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雲水・ISA(九龍)のブログ

日本は神の国
仁術師

明けましておめでとうございます。

 

今回の年越しは慌ただしく、全くお正月気分が無かった。元々、連続している時間に区切りや期限を設けることが性に合わないこともある。メールやSNSが普及してきているので年賀状の苦労は大分減ってはいるけれど、色々な雑用が重なる。なので、ブログの更新も放置したままであったから、ついでに当時を振り返ってまとめた。

 

昨年の漢字一文字は「災」だったらしいけれど、東日本大震災の起きた2011年は「絆」。漢字能力検定協会のアンケートによって民衆の潜在意識にある感情が浮かび上がる。

災いが多い昨年だったという事であるが、今回の冬は庭の実が大豊作。金柑は鈴生り状態で、しかもそのまま種まで食べられてしまうほどの甘さ。種特有の苦みが一切ないのだ。

センリョウとマンリョウも枝が曲がるほど実が生っている。天変地異などがあると生物は子孫を残す本能が促進されるという説もある。

この隣に植わっているイチョウの樹は学生時代に特殊な訓練の為に手足を叩きつけて鍛えていたせいで、幹の部分に穴が開いてしまった。途中で影響のない(生命の無い)電信柱を相手にするようになったけれど、今でも見るたびにとても申し訳なく思っている。再々にその後樹皮が再生したので、現在はこぶ状になっている。

 

年末に常連だった40年以上も続いた老舗ラーメン店が店仕舞いをした。昔は松竹撮影所があり、予備校の学生たちで賑わっていた街であるが、最近は閑散としていた。

最近は駅近くのファーストフードやコンビニ弁当で済ませる人が多く、わざわざ離れた場所までラーメンを食べに来る人は減って来ているらしい。

 

自分は趣味のアルゼンチンタンゴのスタジオが近くにあるので、毎週レッスン後に立ち寄っていたのだ。食べてから、海岸の公園でレッスン内容を復習してから帰るのが習慣。

一番好きだったのは脂身の少ないチャーシュー麺。これはタンメンだけれど、野菜たっぷり。餃子も美味しかった。

バブル時代には店の外まで長蛇の列。カウンター席は6人掛けで狭く、待ち切れないので、何度も行列を眺めるだけで通り過ぎたものだった。それが、最近は満席は滅多にない状態だった。お蔭でオーナー姉弟の昔話が色々と聞けて楽しかった。

 

それにしても、自分のラーメン好きは大したもので、最低でも週4日は食べているはず。ひどい時には、ランチに食べたばかりなのに、夜もまたラーメンを食べていることがある。何を隠そう、今年の年越しがそうだった。

贔屓にしている有名ラーメン店から年越しの500円サービスラーメンのご招待をいただき、指定された時間に行って来た。空いているはずだと言われた時間なのに、まだ行列は続いており、食材が無くなりそうで心配だったらしい。

 

なにしろ、日頃のご愛顧に感謝を示すため、完全に赤字覚悟で作り上げる逸品なのだ。まるでおせち料理の様に豪華な内容。表面を見ただけでも凄いのに、スープの下にはチャーシューが二枚と、蒸し鶏が隠れている。

 

年末は車とバイク掃除が後回しであったから、午後に掃除を済ませ、バイクの調子を見るためにチョイ乗りに出かけた。

 

午後の遅い時間帯に出かけたので、途中で日が落ち寒くなって来た。すると、寒い時にはやはりラーメンだなあと、条件反射で友人から聞いていたお店に入ってしまった。

注文してから、ランチは何を食べたのだっけ?と考えて、自分のラーメン気違いぶりに驚いた。よく考えたら、前日の夜もニンニク入りのラーメンだったのだ。私の場合、言葉自体に罪はなく、使い方に問題があると考えるので、「気違い」などの、いわゆる放送禁止用語などは全く気にしない。そもそも半端な綺麗ごとを言いたがるインテリたちが決めた事だ。自分に対して使うことで文句を言われる筋合いはない。

昼はあっさりの魚介出汁で夜は豚骨だったので、喉は通るけれど、さすがにもう良いという気分。ちなみに、ラーメンではなくて日本蕎麦やパスタ類ならまだいける。正確にはラーメン気違いではなくて、麺類気違いだと思う。

 

年越しそば(ラーメン)も食べたので、帰宅してSNSをチェックしたところ、オーストラリア人の友人から紹介された外国人主体のバイクグループの元旦ツーリングの知らせが来ていた。いつもなら除夜の鐘を撞きに行き、帰りに氏神様に初詣をして寝正月のはずだけれど、急遽参加を決定。5時起きなので、早目に寝てしまう。

 

彼らの目的は箱根の山の上から富士山と記念撮影をしてから、ラーメンを食べる事。なぜか、そのドライブインのラーメンがみなさんお気に入りらしい。またしてもラーメンが出て来た。しかし、この時期の箱根は路面凍結や積雪があるので、まともな地元の日本人ライダーなら行かない。前夜にSNS上で私も問題提起をしたけれど、どうしても行きたいらしかったので、天気の様子を見ながら付き合うことにしてみた。

 

元旦の朝は雲が多かったけれど、晴れる予報。この時はまだ太陽が見えていないけれど、走っている間に上ったみたい。

実際に陽が射し始めたのは横須賀を出て、江ノ島近くに差し掛かった頃。空気はまだ冷たいけれど、すがすがしい元旦の朝日。

陽が出ると暖かくなるから、箱根の雪が溶けていることを願うのみ。しかし、平地を走っているぶんにはとても爽快。

先導しているのは外国人たちだけれど、日本でのマスツーリングにも慣れていることがわかる。それに、米国軍隊関係者は集団行動の訓練を受けているので、臨機応変な判断と行動をとることができる。かなりの猛者たちであることは、見ていれば一目瞭然。

こういう所は流石に世界最強の軍隊の片鱗だと思う。政府はドラエモンのジャイアン的なところもあるけれど、素晴らしい人たちも多いのだ。政治に徳と哲学が伴ったら正しく世界最強のはずなんだけどね。

 

山頂にあるドライブインで記念撮影をするためにバイクを並べる。みんなはレストランでラーメンを喜んで食べていたけれど、自分はラーメンが続き過ぎているので、さすがに食べる気にならず、ノンアルコールの甘酒とホットドッグのみ。

移動していると観光客たちが話しかけて来る。車椅子のご両親に元旦の富士山を見せに来ていた人が何組もいて微笑ましかった。外国人にとっては単なる新年の第一日目だけれど、日本人にとっては重要で神聖な一日でもあるのだ。

これを仲間に言ったら「ISAはとても日本人だね」と言っていた。見掛けも乗っているバイクも日本的ではないけれど、中身はバリバリの日本侍だからね。

集まった人間たちも多国籍であるが、バイクのメーカーも多国籍。

アジア系の人もいるけれど、片言の日本語しか話せない。逆に如何にも外国人なのに流暢な日本語を話す人が多くてびっくりする。

 

言語的なセンスの問題もあるけれど、言語能力とその国に対する思い入れは比例することがほとんど。日本語が上手い人は日本に関心を持ってくれている証拠。なので、とても嬉しい。

 

一方の自分は英語を話す機会が減っているので、復習しながら話している感じだった。勘が鈍っている。

 

自分が来ているデニムのベストは3代目。刺繍だけは子供の頃に買った物を使い続けているから40年近い歴史がある。

米軍基地のある地元で有名な刺繍屋さんがアナログのミシンで刺繍した一品もの。だから、コンピューターで自動的に刺繍するものと違って、文字や図柄に乱れがある。これをわからない人は下手な刺繍だと言うけれど、その価値は雲泥の差。

 

最初は米軍のアーミージャケットにつけていたけれど、それをデニムのジージャンに自分で縫い付けたのが2代目。その後にベストに移植した。それからすでに30年以上経っている。

富士山側の駐車場にバイクたちを移動して記念撮影した頃には富士山が雲を被ってしまった。

まだ日が短いので、寒くなる前に移動することにする。

富士山側の道は予想通り凍結と積雪が残っていた。日陰部分の路肩は全てが危険地帯。前を走るネイビーの彼は雪があると、指で差して後方に危険を知らせる。

自分の走りだけではなく、集団行動を考えていることがよくわかり、一緒に走っていても、とても気持ちが良かった。こういう仲間と知り合えることは財産。

午後になると富士山の上だけに雲がかかっている状態のままとなる。これは温度変化と気流によるもの。

東京や埼玉に帰るメンバーもいるので、ここで解散。凍結が心配だったけれど、日が出てからは快適。素晴らしい元旦ツーリングだった。

 

と思ったら、高速道路上で再会。見たことのある集団が前を走っていると思ったら、メンバーたちだった。バイクにはためく星条旗が格好いい。日の丸を持ってこなかったことを後悔。

ここで思ったのは、彼らは本当に国を愛し誇りに思っていることを堂々とアピールすることができる。それに対して日本人の我々はどうか?

 

うっかりバイクや車に日の丸を掲げるといわゆる怖い右翼や危ない思想の人間だと思われてしまうという風潮がある。これはおかしくないか?私は星条旗をたなびかせて走る彼の姿をとても素敵だと思った。良い奴だったし、特に危ない国粋主義者だとも思わない。

 

この違いは何か?簡単に言うと、ブログでたびたび言及している我々の自虐史観と洗脳教育の結果だと思う。歴史や文化も知らずに日の丸を掲げて粋がっている連中と、本当に故郷やその文化を愛する精神を混同されてはたまらない。

 

元旦の富士山も素晴らしかったけれど、この刺激もとても有意義であった。

帰る途中にお気に入りの夕日スポットがあるので立ち寄る。駐車場は観光客とカメラマンで大混雑。入場待ちの列に並んで、日没20分前にようやく駐輪することができた。

陽が落ちると急激に寒くなって来る。しかし、日没後の醍醐味はその後なので、鼻水を垂らしながら我慢して待つ。
風景が影絵のようになり、空の色が千変万化となる。雲が多かったけれど、素晴らしい光景だった。

元旦の日の出から日の入りまでを見たのは人生で今回が初めて。日が上る国の象徴が「日の丸」でもあるから、元旦は「太陽」とご縁のある一日だった。

映画好きの友人から評判が良いらしいと聞いた映画を見に行くことにした。天気予報は晴れだったのに、空は雪空で寒そう。でも、空気は澄みきっていて、見通しが良い。

富士山は5合目より下にも雪が積もっていることがわかる。

お目当ての映画は、日本ではマイナーな印度映画。いつも映画関連情報にはざっと目を通しているけれど、見過ごしていた。

最初、題名だけをチラ見した時には「パッドマン。5億人の女性をすくった男」という説明だったので、てっきりコウモリ男のバットマンが女性を助けるアクション映画のシーリーズ、或いはそのパロディー版なのかと思っていた。なので、それ以上の詳細を読みもしなかったのだ。

映画のCMを見たような気もするけれど、あまり印象に残っていなかった。これは今から考えると宣伝の失敗だと思う。私が受けた印象はコメディー風の雰囲気だったのだ。最初に「バット(BAT・コウモリ)」と「パッド(PAD・生理用ナプキン)」を読み間違ったこともあるので、宣伝内容と結びつかなかったのだ。

しかし、改めて公式サイトにある宣伝動画を見ても、見直しても、やはり明るく賑やかな感じが強く、出だしのセリフ(駄洒落)も場面(女性下着を穿く)もコメディーっぽい構成になっていると思う。

ところが実際は、予想外に深いし、重さがある。なので、この予告編は構成ミスだと思うなあ。

風景や音楽も伝統的なインドらしくて美しい。登場する街並みや人々の衣装、生活に根付いている伝統文化と風習。でも、その背景には重い現実が存在した。それはつい先日国際関連機関の展示館で見たばかりの、女性虐待問題を思い出させた。https://ameblo.jp/isa96/entry-12425127766.html

歴史と文化のある国ならではの問題である。伝統的な慣習に縛られて自由、客観的な考え方が出来なくなってしまった社会&人々の現実が見える。古いヒンドゥーのカースト制度などの慣習が今でも残っていることがわかる。これを救おうとした釈尊はその矛盾と不自然さを説明して解決しようとなさったけれど、再び旧態に逆戻りしてしまっているのだ。

旧社会ならではの偏見と差別が根強く残る農村がいまだに存在しているのだ。時代設定は2001年だったけれど、まだそんなに遅れていたのか?!という印象もある。ただ、その様な社会に長期滞在したことのある自分にとってはとても親近感がある内容であった。学生時代に民俗学を勉強した際に、日本でも昔は女性が生理や出産時に外にある小屋に隔離される風習がある事を学んだことも思い出した。それに関連して、エナ(出産後の胎盤)供養の伝承状態も調査したものだ。これを継承しているところは少ないと思うkれど、昔はエナを自宅の庭や家の下に埋めていたのだ。

 

科学的な論理や客観的な哲学が無視され、ルールに従わないものは異端視されてしまう。大衆のほとんどはそこから飛び出す勇気がない。世間体や恥ばかりを考えてしまい、真実を探そうとしないのだ。

現実と真実を客観的に分析して考えずに、主人公の言動を非難する一方で、お祭りでは詐欺まがいの出し物にお金を惜しげもなく使っているシーンがある。先日のブログで書いた内容と同じだ。自分で真実を考えもせず、現世利益ばかり考えて、お守りを買いに出かける大衆そのものである。その様な環境の中、主人公の取った行動は大変に勇気があるものだし、非常な忍耐とプラス思考が無ければ途中で挫折してしまうと思った。同時に、この様な民たちと混沌とした社会風土の中から釈尊のお生まれになった意義もわかるような気がして、とても感慨深く拝見した。私は特定の宗派には属さないけれど、釈尊の大ファンである。単なる偉人、超人、最初から特殊能力を持っていた神仏とは異なり、人間の世界で苦しんだ後に哲学的境地に至ったというところに惹かれる。

 

映画は2時間半近いものであったけれど、一秒も目が離せない演出と話しの展開には感心した。ストーリー展開は単なる起承転結ではなく、予想を裏切る波乱万丈なもので、無常感に貫かれていると思う。

脚本、演出、キャスト、風景など全てが素晴らしい作品だったと思う。

しかし、他の映画ほどには宣伝もされていないようで、大きな映画館にあるポスターはロビーにあるこれだけだった。他の映画は記念撮影もできるような大きなパネルやポスターが至る所にあるのだ。

 

平成最後(まだわからないけれど)の映画としてはとても良かったと思う。ちなみに、これからご覧になる方は、公式サイトの説明にある「楽しむための七つの知識」を読んでおくと更に楽しめると思う。私は何も読まずに行ってしまったけれど、それでも十二分に楽しむことはできた。

公式サイト http://www.padman.jp/site/

 

山下公園前のイチョウ並木がやっと黄色くなっていた。今年は塩害と天候不順で紅葉がイマイチだと言われているものの、久し振りに見ると見事。

確かに塩害で枯れている樹やすでに葉が落ちているエリアもあったけれど、青空とイチョウの黄色は美しい。

昔よくお世話になっていた国際関連の機関があるビルでランチ。機関と関係のある様々な国の料理が食べられるのも便利なのだ。

ビル内には機関の活動に関する展示もあり、海外での災害支援活動の様子が紹介されていた。

何気なくトイレに行こうと思って通路を歩いていると、壁に子供が描いたらしい絵画が並べられていることに気付いた。

写真を見るとインドの可愛らしい女性たちの写真だった。みんな微笑みを浮かべていて楽しそうな雰囲気である。

その隣にある絵を見ると、何かの儀式か物語を描いたものかと思った。ところが、事実は全く予想外であった。

作家自身が書いたコメントを読んで初めて絵の意味が分かった。実は17歳の少女が悲惨な家庭内暴力の様子を描いたものだったのだ。他の絵も全て女性に対する理由の無い非人道的な虐待に関するものなのだ。

こちらもテーマは同じだけれど、16歳の少年が描いたもの。正常な思考を持っている人間であれば、女性でなくとも理不尽に感じているはずなのに、それが常習化しているのだ。

 

ヒンドゥー教にはカースト制度などを含む伝統的な差別・区別思想がある。生まれながらにして階級が決められていたり、行動も制限されているのだ。その様に不自由で理不尽な世界にはいたくないと思うのが普通だろうと思うけれど、生まれた時からそういう環境にいると、外界と比較することができないから、それが当たり前だと思ってしまう。

 

そして、何事でもそうであるが、自分で考えようとしない人&考えられない人はマニュアルに従うのが一番楽。どうしてそうなっているのか考えず、親が言った、先生がそう教えた、法律にそう書いてある、と答えるわけだ。でも、その理由がどうしてなのか知っている人は少ない。そして、その理由をよく考えもせずルールや習慣を暗黙して従っているのが大衆なのである。

 

ところが、快楽追求の本能だけは残っているから、その限られた世界の中でそれを追求しようとする。つまり、世界や社会を改善しようと言う気持ちは無い(諦めている)ので、自己中心的な考え方になると思う。そうすると自分や家族の幸せや健康だけを祈願する狭い宗教観が生まれ、自分の健康や能力を高めるための特殊技術に関心が集まる。世の中が不安定になるとこの傾向が強くなる。この現象は昨今の日本と似ている。大衆は政治や文化に無関心となり、目先の現世利益に飛びつく。ある意味現実逃避とも言えよう。インド起源のヨーガは元々解脱するための瞑想に至る修行法だったことを忘れられ、健康や美容をやたらと強調する健康ビジネスに変貌してしまっている。ヒーリング、セラピーや占い、風水なども同じ事。自己中心の現世利益が目的となっている。「世界平和だ、幸福だ!」と唱える人もいるけれど、政治も経済も哲学も勉強していないので、知っているのは単なる個人レベルの願望や欲求を満足させようとする技術のみ。そんなもので世界や社会が救えるはずがない。釈尊がその様に矛盾した世界で苦悩し、中身の伴わない形骸化したヨーガの苦行から得た悟りもこれだったはず。逆に言えば、その意志さえあれば、無理な姿勢をわざわざする必要もなく、電車に乗っていても、トイレで用を足している時にも瞑想に入れるし、何かの収穫を得ることはできると思う。

 

ある人は「みんなが健康で幸せになれば、世界も自然に幸せで平和になる」と言うけれど、それは歴史を見ても詭弁だということがわかるはず。知恵を持たない人間が健康になり、余裕ができると本能と欲望に走ることがほとんどではないか。それが人間の愚かさ。愚かさを克服できるものは知恵だと思う。技術だけでは役不足。ここでいう知恵は愚かな人間の脳ミソから出て来るものではなく、より大きな存在。宇宙の理とでも言うべきもの。

これを当事者に言うと「自分は世界の事まで考えていないし、その器ではない」とか言って逃げる。それでは「みんなが健康で幸せになれば、世界も自然に幸せで平和になる」という大前提が論理的に破綻しているではないか。つまりは、所詮は自己中心の現世利益と自己満足に過ぎないことが露呈する。誰かが言った大義名分を借りているだけで、当人にはその確固たる意志が無いのだ。そういう人たちが烏合の衆となっているかぎり世界は救われない。それに気付いて問題提起したのが釈尊であるし、いわゆる大乗思想を哲学した先人たちであった。

 

表面的な知識は使い方によっては逆効果だと思う。最近は仙骨、丹田、チャクラなどと色々な専門用語が普及しつつあるけれど、そういう言葉は病を呼ぶことがある。今日は何となく頸椎の何番目辺りが痛い、仙骨周辺が緊張している、などと自分で言い始める人がいる。元々は医療する側が用いる身体の中の地図みたいなものなのに、患者自身がそれを意識し過ぎると、その部分が本当に反応してしまう。そんなもの知らなければ、首がダルイ、腰が重いなあ、だけで済むのだ。「ストレス」とか「鬱」なども同じ。医師や他人から「あなたはストレスがたまっている」「鬱の気がある」などと言われると、見えないものに対する恐怖心が増長する。一般用語になりつつあるけれど、そういう言葉を素人が無闇に使うから病がやって来る。この理屈がわからない人はどんなテクニックを学んだところで治癒することはできないと思う。

 

元々農業国である日本は女性の労働量も多かった。子だくさんで電化していない時代には家事の量も多い。それでも、寝る前に風呂に使って、子供たちに肩でもトントン叩いてもらえれば、それでOKだったのだ。放っておけば治る。それでも治らない時は本当の異常だから病院に行くものだった。日常的に整体だ、ピラティスだ、ヨーガなどと騒いでいた人は知らない。あるとすれば、都会の時間とお金の余っている有閑マダムくらいだったのではないだろうか。今でも地方へ行けば、似たようなものだ。都市ではある種の暇つぶしの趣味になっているのだろう。

健康&医療の技術としては有意義だと思うし、知っておいて損はないと思うけれど、中には霊や神仏とつなげる輩がいる。これが厄介。大部分が害毒となる。身体が歪んでいる、ストレスでおかしくなっている、霊や気の影響を受けている、などと素人の恐怖心を煽って、身体の不調を商売につなげようとする。この種の人間は占いやヒーリングなどとも結びつけることが多いけれど、哲学や宗教の知識が半端な人がほとんどなので、言っていることは都合よく部分的に引用した牽強付会的な内容。チャクラがどうだこうだ、マントラをこれだけ知っているなどとひけらかすけれど、実際の修業はおままごとみたいなレベル。その手の講習会&資格制度などをライセンス商売にしている団体もあるし、どこそこの資格を持っていると宣伝する自称インストラクターも山ほどいる。感受性の強い人間は天候や環境の変化を受けやすいのは当たり前なのに、それを自分だけの特別なものと思いがち。それをいちいち超常現象やパワー(気)とかにつなげたがる。実態はそういう外的刺激に対して起きた心理現象やその暗示結果を自画自賛しているだけ。本当に霊的な力と言うものはそんなに表面的で軽く、曖昧なものではない。ましてや、商売や資格などと言うレベルの力ではないのだ。明らかに重く大きな存在がある。私はご縁があり、学生時代からその方面における経験が数多くあるけれど、本者と偽者は格が違う。本者は素晴らしくもあり、また、とてつもなく恐ろしい。そして、一般人が想像するような姿をしていないことが多い気がする。つまり「僧侶」「神父、牧師」「達人」「先生」「権力者」の様に、如何にもそれらしい風体ではない。人間の作った固定観念として現われるとは限らないのだ。むしろ反対で「えぇ、こんな人が?!」と思うような人も多い。でも、その違いはすぐに感じ取ることができる。偽者は固定観念に憧れるし、利用する。Youtubeに特殊能力をアップしている人、世界ランキング第何位のスーパーサイキックなどがいるけれど、それは本者を知らない人達が騙されるレベル。つまりマスメディアの露出と実力は比例しないのだ。

 

これは本気で哲学や修行をして来た人にとっては大迷惑である。例のO真理教もそうであった。真剣な人間でも用心しないと騙されるという、典型的な教訓だったと思う。

 

しかし、自分で考えない大衆はこのようなトリックに騙されてしまうのが現実。風水や占い、イカサマ霊能者たちの言動は無知な大衆の人心を惑わすだけ。あの人の気が悪い、方向が悪い、色が悪い・・・などと、おかしなマイナス暗示や脅しを言われると不安になってしまう。そういう不安な気持ちは悪い連鎖を起こしてしまうことになる。特に心に不安を抱えていたり、ストレスがある時には影響を受けやすい。歴史を見ても、不穏な時代に登場するのが常なのだ。そして大衆は自分で哲学や勉強をしないままに身近にあるものにすがる。図書館やネットで勉強する時間を作ろうともしないくせに、遠方のパワースポットにはわざわざ行き、大行列に並んで御利益のあると言われるお札やお守りを買うのだ。

この心理的な現象を熟知し、それらを利用して商売とするのがいわゆるスピリチュアルと呼ばれる業界の人達。チャネリング、中南米の霊媒師、中国の道士、日本の修験道にも同様の歴史がある。もちろん本当に能力のある道士もいるけれど、お祭りや街頭で小遣い稼ぎの為に特殊技術を披露したり、心理現象を商売に利用している輩は山ほどいる。政治に利用した輩もいた。最大の矛盾は、こうした人間の愚行を諭すべき存在の寺社自体が同様の商売を行っている事である。本当に神仏(霊、知恵)がそんな事をおっしゃったのか?もしもおっしゃっていないならば、それはオレオレ詐欺の一種だと思う。正確には、「オレは神仏の代弁者だ詐欺」「お布施詐欺」だよなあ。

 

こういう状態では人間を救うことができないと思って問題提起をなさったのが、似たように混乱した時代に登場された釈尊ではなかったか。しかしながら、その様な偉人と哲学が生まれた場所にもかかわらず、インドの現状は逆行して、カースト制度を存続して、現世利益の社会に戻ってしまった。これには、とても哲学的&人間的な意味を感じてしまう。

子供の頃に違和感を覚えて、仮に反抗したとしても、伝統を口にする大人たちに説教をされ、教育されているうちにいつの間にか自分自身が洗脳されてしまう。これが封建社会の特徴でもあり、我が国も同様の時期があった。旧体制は革新する際には足かせとなる事が多いからだ。明治維新以降(特に戦後)の日本もそうだと思う。

そこには伝統と発展の矛盾が存在する。伝統にこだわりすぎると、自由を失ってしまいがち。反対に発展ばかりを考えて自由を強調し過ぎると、大切な文化を失ってしまうことにもなる。

 

これは伝統文化を継承しながら発展してきた歴史と文化のある国々は遅かれ早かれ経験することになるプロセスだと思う。この影響を比較的受けないのは新興大国。大航海時代に侵略して自分たちの文化を無理やり押し付けながら発展して来た国々がそう。代表的なものはアメリカ、カナダ、オーストラリアとアフリカ大陸と南米大陸にある白人系が支配する国々。彼ら方式の侵略では伝統の価値や文化の継承など考える必要もないのだから楽である。残されている伝統文化は侵略者たちに都合が良い内容だけなのだ。原住民の文化や信仰・思想は無視してしまうから、聖なる山、川などの大自然も好き勝手に開発してしまうことができる。しかし、失われた自然や文化は取り返しがつかない。これに気付いて試行錯誤しているのは最近のイスラム世界も同じ事、戒律を遵守する原理主義者と市場経済で成金となった政財界人たちの間で対立がある。背後には侵略&地下資源の利権搾取を企む輩もいる。イスラム圏は物騒だと言われるけれど、その原因は富と権力に迎合するだけではなく、きちんと哲学している人たちもいるのだと思う。

古い企業の改革は難しいけれど、新しく会社を作れば何でもやりたい放題なので、フットワークも軽いから発展も速い。国も同じだと思う。そして、企業の規模も小さいと改革はし易いけれど、大きいと規則だけを変えても無理で、関連する人間の思想も変えなければ実現は難しい。

 

この古い体質の残る大企業的な存在が中国とインドなのだ。新興国のアメリカはその苦労がわからないので、言いたい放題、やりたい放題であるが、中国とインドは伝統と発展の板挟みになり、足踏み状態を続けているのが現状だと思う。

気軽なランチに行ったつもりが、全く思いがけず、貴重な哲学の機会に遭遇することができた気がする。

 

この季節、どこでもクリスマスのイルミネーションで賑やかになる。商店もクリスマスと年末商戦で大忙しだ。車の停めてある駐車場に戻るついでに建物内の商店街を見物していると、不思議なフロアに遭遇。

フロア全体の色彩やデザインが統一されている。そして売っているものは全て玩具類なのだ。つまり、フロア全体がおもちゃ屋さんなのである。正に子供の夢の世界。精神年齢の低い私にとっても夢の世界が現実のものになったように感じた。

以前トイザラスというおもちゃ屋の世界的チェーン店があったけれど、こちらは通路やコーナーがテーマパークのようにデザインされている。

商品陳列の仕方も遊び心をくすぐる仕掛けがたくさんある。合板で組み立てられたロンドンバスはとてもよくできていたので、その組み合わせる構造をじっくり研究してしまった。

黒いロンドンタクシーもあった。どちらもイギリスと関係があるので、このお店はイギリス系であることがわかる。

ここは車やバイク、プラモデルなどのコーナーになっており、私の滞在時間が一番長かった。その次がドローンコーナー。プロペラが付いていて上昇&下降が自由自在なオモチャである。

女性のスタッフが実演しながら説明をしてくれたのだけれど、見ていると自分でも操縦したくなって来る。通常のプロペラ式と違って人型をしているところが面白いのだ。こどものオモチャを買いに来たはずのお父さんが買ってしまうそうだった。飛び回っている様子を見ていると、その話は納得できる。何を隠そう、そういう自分も買いそうになった。

動くおもちゃコーナーは子供が夢中になって遊んでいた。子供はなぜか、誰かが何かやっていると集まる傾向がある。空いている方へは行かない。そう考えると野次馬現象は人間が生まれつき持っている本能なのだろう。でも、子供が多いとオモチャの奪い合いになりそうな気がする。この時もレールの上を走らせる列車の主導権争いが起きそうだったので、親が背後で見守っていた。

主導権争いとは無縁の誰もいない平和なコーナーがこちら。昔から敷かれたレールの上を走る電車のオモチャがあったけれど、これはそのトトロ版。大トトロと小トトロたちが黄色いレールの上をちょこまか走るだけのもの。

 

ジブリファンの私としては見逃せなかったけれど、子供は誰も見ていなかった。私が一生懸命見ているのに気が付いた、3歳くらいの女の子が寄って来ただけだった。俺の精神年齢は3歳ということか。

恐竜、動物、魚類、キャラクターなどあらゆる種類のぬいぐるみが集められていた。これは部屋の片隅だけれど、実際にはこのエリア全体がぬいぐるみの世界なのだ。ぬいぐるみにはできの悪いのも良いのもあるけれど、選択肢が多いので、ここに来れば欲しいものが見付かると思う。

疲れたら奥のカフェで休憩もできるらしい。その脇では、お菓子も売っていた。関心のあるものを全て商売に結び付けるところが素晴らしい知恵だと思う。下のフロアにはメリーゴーアラウンドもありますよ、と言われたので見に行く。

乗りたいと思ったけれど、お子様だけだそうだった。残念。三鷹にあるジブリミュージアムにある猫バスと同じだ。あれも大人は乗れない。実際にはサイズや強度などの問題がある事は重々承知。しかし、そういう差別は気分的に腹立たしいから、俺がテーマパークの設計者なら、絶対に「心が子供なままの大人」用の乗り物やアトラクションも作ってやる。それと「お子様ランチ」に対抗して「大人様ランチ」も作る。

隣は巨大なフードコートになっていた。アジアや欧米の多国籍料理が食べられるようになっていた。時間が無かったので素通りしたけれど、食欲をそそる店が軒を連ねていた。

外の回廊を歩いていると可愛らしいクリスマスの飾りが目を引いた。このエリアは人通りが少ないので穴場だろうなあ。この飾りがある事に気付く人は少ないと思う。

日がどんどん短くなっているので、4時頃にはこんな感じ。横浜の夜景は美しい。趣のある建造物が多く、クリスマスでなくてもそれなりに美しい。せっかくなのでイルミネーションも見学することにした。

公園の大規模なLEDによるショー的なものも面白いけれど、私は色彩とわざとらしくない自然なデザインを重視する。過剰な演出は途中で飽きて来る。

この二つ(観覧車と帆船)はクリスマスとは関係なし。しかし、明かりに浮かび上がった様子は風情がある。

その脇の高層ビルの下にあるドッグ跡にはクリスマス用のイルミネーションがあったけれど、少しわざとらしい気がして、好みではない。素人が安売りしていたLEDを手当たり次第に並べた感じなんだよなあ。

むしろ、周辺にある樹につけられただけのLEDと建物の明かりの方が好みだった。

あまり好みではないので、ビルの反対側に移動。こちらが海側なので、反対の陸側には横浜美術館や横浜駅がある。

抜け道にあるのがお馴染みのステンレス製のジェットコースターコースの様な金属造形作品。そこから青色の街路樹が続く。圧倒的にこちらの方が好み。

遠ざかるとドッグのあったランドマークタワーの威容が見えて来る。

美術館前で街路樹が切れると、隣接するビルの前に紫色のLEDに彩られた庭木群が登場する。

中央通路の街路樹よりも枝が広がっているために、下を歩くと光の柱が地面から湧き上がって来るかのように見える。これは見事。

この続きは大通りに降りる階段となっている。ランドマークからここまでは青と紫のLEDの林が連続して美しい。

階段を下りて通りを渡ると向かい側の街路樹群にも青いLEDが灯されていた。美術館側に比べると新しいエリアなので木々もまだ小ぶり。

平日の遅めの時間だったので、人が少ないのが何より嬉しかった。何しろ、混雑は大嫌いだから。と言っても、好きな人は痴漢とスリくらいのものかもしれないけどね。

ついでに、もう一つのイルミネーションの名所である赤レンガ倉庫の様子も見ることにした。

アイススケート場はまだ設営中。イルミネーションと催事用のエリアは出来上がっていた。

店は閉店して人通りはわずか。クリスマスの頃になるとこの通路は人の頭しか見えない状態になるのだ。売店で何か飲食物を買おうとしても、並ぶスペースは無いし、持ち運びも不便。あれはもうこりごり。

うねった光の天蓋が美しい。色は電球色のみだけれど、落ち着いた雰囲気。

お店の軒先や屋根には色々なサンタさんがいて面白い。

その突き当りにあるのが、この緑がかった金色に輝くクリスマスツリー。

みなとみらい地区のイルミの内容は毎年ほとんど同じだけれど、極彩色のLEDを使わずに、演出や飾りもほどほどで、実に大人の雰囲気を保っていると思う。

横浜の場合は背後にある港や海に面した歴史的建造物が借景できることも有利な点。中国の上海に似ている。あちらは戦災を免れた建造物が多いのでさらに壮観である。

海側から赤レンガ倉庫を振り返ると、中央通路が眩しいほどに光輝いていた。

 

人も少なく短時間で楽しむことができた。

 

 

 

天候はイマイチであったけれど、コキアの紅葉が終わってしまうということで、高速道路で東京湾を跨いだ。

 

コキアというのは外来語で、和名は「ほうき草」。プラスチック製のホウキが登場する前はこの草を束ねて使っていた。今でも古いタイプの和ボウキはこれを使っている。子供の頃には身近だったけれど、単なる藁草を寄せ集めたものだと思っていた。これが真っ赤に染まるのを知ったのは大人になってからである。時々紫色の枝が混じっていることを覚えているけれど、今の姿は想像もしていなかった。

こんなに肌寒く、雲が多い時に見物に行く人は少ないから、移動は楽。いつもは駐車場にも入れないアクララインの海ほたるSAも楽々入れた。食堂も空いていて、待たされることも無く、順調。問題はどんよりとした曇り空。こんな様子では綺麗な風景は見られないだろうと思っていた。

天候が不順で紅葉の時期がずれているという話ばかりを聞くので、正直期待していなかったけれど、現地に到着したら別世界だった。

赤くて丸い生き物が整列しているかのような奇抜な光景にあっけにとられる。数の少ないコキアであれば河口湖などでも見たことはあるけれど、これだけまとまっていると、迫力が違う。

近付いて観察すると、これは花ではなくて茎が赤くなるために、この様な形に見えるわけなのだ。実に可愛らしく、ユニークな造形をしている。

遊歩道の両側の斜面全体を覆うように赤いお団子が並んでいる姿は壮観でもあり、動き出しそうな感じがした。「だるまさんが転んだよ」と言って振り返ると、いくつかは移動しているような気がして来るのだ。

赤いお団子の遊歩道を歩き続けると、奥が池になっている。

低地に降りると、片側はベコニアの群生エリアとなっていた。まるで、赤い河のようである。

遊歩道は並行して複数あるので、両方を行き来しながら景色を楽しみつつ、奥へ歩いて行く。

地面の目線からコキアを見ると、茶色くなりかけているものもある。これがホウキの材料となるわけだ。

突き当りが池で、その隣がパターゴルフ場になっていた。湖の池では釣りもできるらしく、貸しボートもあった。

池の手前には人口の池が複数あり、鯉や金魚の釣り堀があった。大人であれば天然の池に行くであろうが、家族連れの子供たちにはこの方が気楽で安全だということらしい。

釣り堀を見学してから再び赤いお団子の丘に上るとセイタカアワダチソウの群生地帯があった。赤いコキアとのコントラストが美しい。青空であればなおさら綺麗なはずなのに、それが残念。

近くの女性体は「ブタクサだわ!花粉症の元なのよ!」とか騒いでいたけれど、この二種類は混同されやすい事で有名。しかし、細かく見ると花の形状や葉の形が異なる。自分も後から植物に詳しい友人から教えられたけれど、現地では、花粉症でもないのに、その声を聞いて思わず息を止めていたことが笑える。

ブタクサは花の一つ一つが細い茎の先に毛虫のように独立しているけれど、セイタカアワダチソウは複数の黄色い花が三角形にまとまっているのだ。茎も太いし、葉の形も縦長である。

 

ちなみに最初にこの草の存在を教えてくれた女友達は「ブタクサ草」だと思っていた。「草」が一つ余計なのだ。私が鼻をムズムズさせている彼女を見て「どうしたの?花粉症?」と尋ねたところ、「豚臭そう」と答えたのだ。最初は何を意味不明な事を言っているのかと思って問い直すと、そういう変な名前の植物が原因となっていることを言いたかったのである。そんな、豚に失礼な名前があるものかと笑うと、絶対にあるから調べてみろ言うのであった。結局、後日それが彼女の覚え間違いだったことがわかり、笑い話になっている。

この公園はエリアごとに植えられている花が違っているので、タイミングが合えば複数の花々を同時に鑑賞することができる。この日はコスモスも満開だった。

時々青空がのぞくものの、基本的には曇り空。写真を見ても、青空と曇り空では印象が全く異なる。

遊びに行く側は気楽だけれど、天気が悪い時の主催者側は可哀想。訪れる観光客より公園内で働くスタッフの数の方が多くらいであった。その代わり週末や祝祭日は混むのでバランスを保っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供の頃に、大自然の楽しみを教えてくれた名彫刻家の先生の作品に会いに行く。ずっとお会いしない間にお亡くなりになっていたらしい。

竜神伝説が伝わる湖のほとりに二つ作品があるということで、初対面であった。

作品名である「ガルーダ」はインド神話に登場する鳥の姿をした神。ヴィシュヌ神の乗り物でもある。

もう一つのガルーダ像はツリーハウスのあるキャンプサイト内にあるらしい。このツリーハウスは地方自治体も注目しており、時々見学者が訪れるほどの人気がある。大のツリーハウス好きとしては、興味津々であった。

 

ここのツリーハウスは樹の幹を利用した昔のタイプとは異なり、複数の樹からワイヤーで吊るす方式。遠くから見ると、着陸しようとしているUFOのようにも見える。構造は強固な鉄のフレームと帆布の組合せ。

湖畔周辺には地上に設置するタイプもあった。冬には積雪を防ぐために解体して保管するらしい。

 

内部は大きなテントみたいな雰囲気。空間が広いのでテントとは違って圧迫感は無い。トイレや炊事は外になっている。

そのキャンプサイトの中央にもう一つの「ガルーダ」がいた。このツリーハウスをきっかけにキャンプサイトが再整備されたが、それまでは原発事故以来、ほとんど誰も来ることが無く、荒れ放題だったらしい。せっかくの彫像も苔生していたので、係員たちが洗浄をしたそうだ。それまでは黒い何だかわからない物体だったものが、美しい花崗岩の名作であったことに驚いたそうだった。先生も天国で喜んでいらっしゃることでしょう。

キャンプサイトが有名になると不法にマスを乱獲する人間も増えているらしい。獲ったマスを祭事の出店で焼いて売るのだそうだ。タダで仕入れた魚を一匹500円以上で売っているわけだ。そういうやつらは湖の竜神に食べられてしまえば良い。この湖は水深が深く、水温も一定なので水の透明感が素晴らしい。

この湖には竜神が棲んでいるという伝説があるが、それにちなんで国内では珍しい「妖精美術館」がある。知る人ぞ知るマニアックな美術館なのだ。ここも、冬季は閉館してしまうので、ギリギリで間に合った。

 

「妖精」というと、日本人にはピーターパンに登場するティンカーベルみたいに羽根の生えた可愛らしい女の子の姿を想像することが多いみたいだけれど、これは天使と混同した結果。しかし、本来は妖怪やお化けに近い存在。絶対的な存在ではないので、感情もあるし、悪いのも善いのもいるし、怖いのも可愛いのもいる。

 

これらは欧米の挿絵に登場する妖精たち。

ゲゲゲの鬼太郎に登場するのがそう。大部分は不気味な姿形をしている。欧米の伝説ではゴブリン、トロール(ノルウェー)、ホビット、ドワーフなどとも呼ばれる。アニメで有名なムーミンはトロールである。そしてトトロも日本の妖精である。

ゲゲゲの鬼太郎と言えば、私は仕事で水木茂さんの展示会を台湾で開催するという企画に携わった事があるけれど、氏が急逝したことによって実現できなくなり、とても残念であった。とても貴重で面白い展示会になると思っていたのに、とても残念。

聖書系の宗教が入って来る前には原始的な信仰があったけれど、妖精はそれらの世界にいる存在。大自然や宇宙と人間の間におり、身近な存在であった。聖書系の宗教はそれらを邪教とみなして抹殺しよう試みたが、今でも信仰は根強い。敢えて言うなら、その様に無理強いさせる思想の方がむしろ不自然に感じる。だから綺麗ごとを言ったところで、結局は共存共栄ではなく、絶対的な価値観の押しつけと支配という発想に結び付くのだ。

最近はハリー・ポッターシリーズが大ヒットを続けているけれど、あれはまさに妖精や魔術の世界。かつては邪教と虐げられてきた世界が大ヒットしているのは皮肉なことだ。宮崎駿監督の作品にもこれらの世界が数多く登場する。それは子供の頃から見聞きした伝説や民話が基礎になっているからにほかならない。

 

20世紀初頭にも妖精ブームがあった。イギリスの農村に住んでいた少女たちが妖精を撮影することに成功したというのだ。その写真の真偽に関する論争には名探偵シャーロック・ホームズの作者であるコナン・ドイル氏も参加するほどの騒動となった。私も子供の頃に

結局は少女たちが半世紀以上も経って、高齢になった時に捏造であることを告白したけれど、騒動になるほど人々が関心を持っていたことがよくわかる。この写真の原版は日本の妖精学の第一人者である井村君江さんが所蔵しており、彼女がこの美術館の館長でもあるのだ。

 

当日は戸田和子さんによる妖精作品展を見ることができた。

 

「夏の夜の夢」

妖精が登場する古典として有名なのはシェークスピアによる「夏の夜の夢」。この作品は映画、ミュージカル、舞台などで上演され続けている。ユーミンの唄に「真夏の夜の夢」があるけれど、あれは余り妖精とは関係ないみたい。

 

「パンドラの箱」

 

「アンナ・グレースと魔界の妖精たち」

ケルトに伝わる妖精物語。

 

「女王ジェニラ」

 

「誘惑された妖精王」絵画からモティーフを借用した作品。

 

「オーラックの手」

これは事故により手を切断してしまったピアニストに、殺人犯の手を移植してしまったことから始まる恐怖映画がモティーフ。

 

二階建ての館内は吹き抜けになっていて、巨大なステンドグラスは天野嘉孝氏の作品。氏はファイナルファンタジー・シリーズのキャラクターデザイナーとして有名。昭和ではタイムボカン、ガッチャマンなどもデザインしている。

 

二階の回廊には氏のデザインしたブロンズ製の妖精たちが並んでいた。

 

魔法の杖を持つ妖精

 

まどろんでいる妖精

 

二階からは戸田和子さんの妖精作品群を見渡すことができる。

 

奥には欧米の妖精をモティーフとした小物雑貨類の展示スペース、関連書籍、トイレなどがある。

 

ジョン・フィッツジェラルド「誘い出されたエアリエル」

 

ジョン・フィッツジェラルド「妖精と猫」

 

エサリーン・E・デル「妖精と野ネズミたち」

 

ニッキー・ブロイルス「妖精と蝶々」

 

窓の外を覗くと、竜神の住む湖が森の向こう側に広がっている。駐車場は無料。冬には閉鎖される。

 

他にはない、とても貴重な美術館。冬季は休館なので、来年の5月から開館するはず。

http://www.do-fukushima.or.jp/shoukoukai/kaneyama/html/kankou/youseib.htm