又ブログが停滞した。忘れないうちに沖縄の続き。
この日は少し青空が見えたけれど、それも朝だけ。この辺は見渡すところはほとんどが米軍基地らしい。この人口比率は同じく米軍基地で有名な私の地元の横須賀とは真逆。横須賀では9割が日本人だけれど、こちらでは反対に9割が米軍関係者の様なイメージなのだ。まるで日本国内ではない感じさえする。
この日の予定は主にホエールウォッチング(クジラ見物)。今の時期には繁殖の為にザトウクジラが沖縄周辺に集まるらしく、目撃率は9割以上なのだ。しかし、連日の風雨のため、当日にならないと出港できるかわからないと言われた。なので、予約が確定するまで、港からそれほど遠くない場所を回ることにした。
と言うわけで訪れたのが「旧海軍司令部壕」。入口には史上最大最強の戦艦「大和」の模型と絵画があった。大和は沖縄決戦の為に無謀な海上特攻隊として向かう途中に撃沈された。当時の記録を見ても、無謀だとしか思えないが、そこで強引に計画を実行した参謀と、現状を見ない軍隊的精神論に扇動されてしまったようだ。本当に胸が痛む。
当時の日米の戦力の分析統計が展示されていた。各項目の上段が日本、下段がアメリカである。圧倒的な差が見てわかる。しかし、このような情報を国民が知るすべはなく、軍隊の上層部のみが知りながら、様々な作戦を立てていたのだ。犬と猫の喧嘩なら少しは成り立つかもしれないけれど、ネズミと象では喧嘩にならないはず。普通のネズミなら喧嘩はしないと思う。ある意味無謀、しかし死を恐れない精神力は恐れ入る。実際には、軍部だけが相手を象レベルだと知っており、庶民にはそれほどの格差がある事は知らされていなかったのだ。
沢山の軍隊アリが大型獣も襲うと言う話もあるけれど、日本はそれだけの人口も無かったのだ。だからと言って、女子供まで竹槍で闘えなどと扇動することは現代人には想像もできない。
沖縄戦の遺物類。軍刀、手りゅう弾、水筒など。
物品類よりも衝撃的なのは写真類。隠れていた子供たちの姿は本当にいたたまれなくなる。物と違って、その時の状況がとても具体的で現実的にわかってしまうのだ。
元々、海の向こうから侵略をして来たのはアメリカであるけれど、武力以外の抵抗の方法は無かったのか?言論文化や情報システムが未発達の時代では仕方がなかったことかもしれない。しかし、通常であれば、人間たちが好き好んで人間を殺すものとは思えない。特に非戦闘員である女子供を。それを変えてしまうのが戦争の恐ろしさ。
記念館ではアメリカ軍関係者らしいご夫婦を見かけた。とても勇気がある人たちだと思ったので、敬意をもって会釈した。決して、睨んだり、咎めるようなことはしまいと決めていた。なぜなら、自分が中国大陸で虐殺記念館や歴史博物館で同様の展示を見学すると、全員から突き刺さるような視線を浴びたり、罵られた経験があるからだ。場所によっては入場を断られたこともある。ハワイのアリゾナ記念館ではアメリカの老人からイエローモンキーと罵倒されたこともある。
残念だけれど、そういう人たちはより良い将来を造れない人達だと思う。造れないばかりか、機会を壊す可能性すらある。自分はそうなりたくないと思う。ついでに言えば、こういうブログを書くとアメリカ(それ以外にも関係する国々)の友達を失うと言う人がいるけれど、そんな事で失ってしまう友人関係など最初から有名無実だと思う。そういう人たちは問題があっても事実を直視して分析をしないから、問題の解決や対策を考えることができない。恐らく将来も同じ過ちを繰り返すはず。付き合う意味が無いから、離れてもらってちょうど良いのだ。
資料の展示室を出ると地下に掘られた司令官壕に降りる階段がある。入り口の両側にはたくさんの千羽鶴が掛けられていた。
当時の軍隊組織は現在の認識とは異なり、空、海、陸の三部構成ではなく、陸と海のみ。そして航空部隊は陸と海のそれぞれが所有していた。なので、横の連携は必ずしも良いとは言えなかった。ライバル心や権力闘争もあるから、一丸となって戦う時の障害ともなった。その為、沖縄戦の際も、陸軍の司令部と海軍の司令部は違う場所にそれぞれが地下帽を構築していたのだ。

こちらは海軍の地下壕である。那覇空港を守るために、近くにある海抜74mの墓地のある丘の地下に設営された。地図上の赤い三角地点。この丘からは那覇市街が一望でき、絶好の陣地であったことがわかる。
陸軍の地下壕は今の首里城(海軍司令部地下壕から北東に8キロくらいの場所)の地下にあり、未公開のままとなっている。
ちなみに、悲劇として語り継がれている「ひめゆりの塔」に登場する女子学生たちは陸軍所属の病院の手伝いをしていた。
地下に下りる階段は白漆喰で塗り固められたアーチ形のトンネルになっている。
秘密基地の存在を隠す為に民間人は工事に参加させず、3000名の兵士がツルハシで総延長450mもの地下防空壕を造ったのだ。案内図を見ると、まるでアリの巣のよう。初めて入った人は迷うだろうけれど、当時の関係者は非常事態の闇の中でも動けたはず。
戦後に泥水がたまっていた地下壕を調査したところ、2300名以上のご遺骨が発見されている。こんな狭いスペースでそれほどまでの多くの方たちが亡くなった事が信じられない。人数的にはサントリーホールや文化村オーチャードホールなどの都市にある大型の劇場の定員数にほぼ匹敵するのだ。
これは移動用の狭いトンネル。剥き出しの壁にはツルハシの跡が残っている。砂岩は柔らかいので掘り易く、沖縄以外でも、国内の随所に防空壕が造られている。
壁を爪で引っ掻いてみると簡単に削れた。柔らかい砂岩なので防空壕には適した地質だったのだ。しかし、柔らかい分、衝撃にも弱いので、部屋や主要な部分には補強として漆喰やセメントが使われていた。
これに対して、硬い石灰岩でできている土地もあり、地下にある天然の鍾乳洞を利用して、人々は隠れていた。しかし、加工が難しく、基地を造るには適していないのだ。
地下壕内のスペースは極限まで合理的に利用されていた。壁にある窪みも資材置き場として活用されていた。戦闘中には通路いっぱいに兵隊で溢れていたらしい。
見学しながら、これほどの長い地下空間の換気はどうしていたのか心配になった。戦時中の記録を見ると、爆発や銃撃による死傷者以上に、特殊な爆弾の燃焼による有毒ガスや火炎放射器による酸欠での死亡が多かったらしい。そのリスクは、地下を歩いていれば感じることができる。
大きく削った窪みには電気を供給するエンジンも置かれていた。騒音もひどいだろうし、排気ガスの処理なども出来ていなかった気がする。公園でBBQをする時などに小型の屋外発電機を使うことがあるけれど、あれだってとてもうるさい。排ガスは空気を汚染するので、劣悪な環境であったことが想像できる。
部屋には限りがあるため、幹部や負傷者が最優先。それ以外のほとんどの兵隊は通路で身体を休めていた。戦闘時には、地下に籠城するため、足の踏み場もなかったそうだ。
単なる兵隊ではない下士官たちの部屋も木枠で囲まれただけの小さな空間に過ぎない。医務室も同様の造りだった。まるで動物園の檻みたいな感じ。
部屋とは言っても、これらの木枠だけの狭い空間に人が多くて坐る事も出来ず、立ったままで仮眠を取っていたそうだ。
出撃命令があると、この通路から出撃していた。この外側は古くからある墓地になっている。
出入り口は沖縄の伝統的な亀甲墓を利用して作られていた。墓をカモフラージュのために使ったつもりだろうが、外地から来た人には墓だと思えず、かえって特殊な場所だという印象が強いと思った。自分も最初は墓だとは思わず、機銃類の土台かと思っていたのだ。
同じく沖縄文化を知らないアメリカ人が見れば、不自然で怪しい建築と思うに違いないので、カモフラージュは逆効果だったと思う。
当時の写真を見ると、如何にも下に何かありそうな雰囲気なので、アメリカ軍の銃撃&火炎放射器の餌食となってしまっている。
一度知ってしまえば、その傾向と対策が研究されるのは当然。
司令官を補佐する役目が幕僚。彼らが作戦を練った部屋がここ。広さは10平米ほど。他の部屋とは異なり全体が白い漆喰で補強されていた。
その奥の壁にある黒い斑点は、周囲をアメリカ軍に囲まれ、籠城した幕僚たちが手りゅう弾で自決した時の爆発の跡である。見ていると、当時の痛みや苦しみ、悲しみを想像してしまうけれど、そういう時代や歴史があってこその今の日本だと思う。
この広い部屋は暗号を送受信していたところ。ネットや携帯電話が無い時代、戦時中の通信は傍受される危険があるために暗号化されるのが普通。もしも、この内容を敵に知られたら、全ての行動が筒抜けになってしまう。ところが、アメリカはある時期から日本軍の暗号をすべて解読していたのだ。それを知らなかったので、史上最大の戦艦大和も撃沈されてしまった。
同様の事はヨーロッパでも起きていた。ドイツの暗号装置「エニグマ」の解読にイギリスも成功していたのだ。すべての手の内を読まれるわけだから、勝てるはずがない。
机のある部屋は司令官室。神棚もある。
これらの部屋は全て出入り口が複数あり、移動や非難がし易く造られている。
地下通路から見た部屋の出入り口はこうなっている。
司令官室は立ち入り禁止になっていたけれど、入口にある柵は当時のものなのか、観光客の順路を制限しているためなのか不明。
反対側から見た司令官室。
当時の司令官の評価は賛否両論。幕僚の背景も様々。考え方の相違が実際の戦略の結果となる。全般的に言えることは、「気合だ!根性だ!」ばかりを強調して、客観性や合理性を見失った指導者の戦略は失敗することがほとんど。多くの犠牲者を生む。
沖縄戦でも同様だった。教訓としては、やはり知識と情報量がポイント。司令官は最終決定者であるが、実際の計画を立案して実行させるのは幕僚と呼ばれる複数の人たち。その彼らのレベルによって結果は分かれる。

海外経験もあり、知識も豊富な人は言論も論理的であるが、その反面、冷徹でとっつきにくいイメージを与えてしまうことがある。その反対に、知識はないけれど、感情表現も豊かで社交的なタイプには人間味を感じることが多い。両方を兼ね備えているに越したことはないけれど、そんな大人物はなかなかいない。
これが非常事態にどのように心理的な作用を及ぼすかという事がとても大事。不安になった時の人間は客観性を失い、感情に流されがちなので、どうしても現実を見ずに、安心感のある、居心地の良い方に行きたがるのがほとんど。これが歴史から見た結果だと思う。
重苦しい地下性から、出口に向かって、また長い通路を上る。主要な通路なので白い漆喰でトンネルが補強されていた。
出口の上には資料やお土産を売っている売店がある。買い物ついでに店員さんに話を聞くと、この記念館を訪れる人は外地からの観光客がほとんどで、地元の人たちは滅多に来ないらしい。
売店の裏側が丘の最高部で、慰霊碑が建っていた。
沖縄と言うと「綺麗な海」「泡盛」しか想像できないのは、余りに勉強不足と言うか、平和ボケの極みだと思う。そういう教育や宣伝をしてきた社会全体が平和ボケなのだ。
地下壕を出た頃には小雨も降り始めて、午後に予定しているホエールウォッチングも危うい雰囲気。なので、確認の電話を入れると、余り理想的な条件ではないけれど、出港する予定らしい。それで、待ち合わせ場所の港に向かうと、土砂降り状態となった。
海は見えないし、寒いし、イメージしていた「沖縄」とは大違い(笑)。風雨も強く、余りに寒いので車内で待機
。
同乗したメンバーは船長と助手、上客が7名。その内、1名は耳が不自由な人だった。出港したら、いきなりの波浪に船が凄い揺れ。立っていられないから、サービスのホットコーヒーも飲む気にならない。風も冷たいので、厚手のスカジャンの上に、更にレインコートを羽織った。
こういう状態の場合、湘南や東京湾では警報が出て、出港する人はほとんどいない。この時点でクジラを見る気は半分以上失せていたけれど、せっかくのチャンスなので仕方がない。ツアーを企画したスタッフの情報では、親子のザトウクジラが目撃されていて、遭遇する確率がかなり高いと言うのだ。通常の天候ならこの季節にクジラに遭遇できる確率は9割以上らしい。
ある程度沖に出ると、走るのを止めて、クジラを探す。やっと二階のデッキに上れる状態となったので、二階席からみんなでクジラを探す。この時点ですでに聾唖者の男性と若い女性客が船酔いでダウン。横になったままで、とても可哀想だった。
停泊の状態でも波浪による揺れは大きく、立ってはいられない。こんな状態で本当にクジラが姿を見せるのか半信半疑。それに、海上は波頭が白く砕け散って、クジラが出て来てもわからないのではないかと思った。
スタッフの話では、クジラが呼吸する際に潮を噴くのでそれが目印だと言うのだ。潮の高さは3m位になるので、経験を積むとわかるらしい。とは言っても、風が強くて、周辺は波しぶきだらけなのである。私自身も海育ちだし、アウトドアの経験は豊富な方であるが、半分以上無理ではないかと諦めかけていた。
すると助手の男性が「いた、いた!」と教えてくれた。彼には潮噴きが見えたらしい。それを切っ掛けにして、親子クジラの所在がわかったので、近くで観察することになった。
いつ出て来るのかわからないので、普通の写真では撮影が難しいと思い、ビデオ撮影で回しっぱなしにしておいた。そうしたら、かろうじて潮噴きの様子を確認できた。中央左側の白い小さな点が親子の潮噴きである。右がお母さんクジラ、左の小さなのが子供クジラの潮噴き。ビデオなので瞬間を写すことができたけれど、実際には風が強いので一瞬で白い潮噴きは消し飛んでしまう。これを360度の範囲で探すわけだから、至難の技。
こちらは親クジラの潮噴き。接近すれば、潮噴きもよくわかるようになる。しかし、クジラの体色も暗い海のグレーと同化しているために、白い潮ばかりで姿形が全く見えないのだ。
また、クジラは一度水に潜ると数十分は手て来ない。子供の場合は呼吸の感覚が短いので、その点、子供連れはラッキーだという事であったけれど、寒さと揺れの我慢大会みたいな状態だった。
一階の船室は右端の青いドアがトイレ、ピンク色は倉庫。中央の奥の船室は船酔いでダウンしている人たちの休憩場所。彼らにも教えてあげようと声をかけてみたけれど、ぐったりして、動けず、二階に上る気力もないそうだった。
結局、綺麗な姿を見ることはできず、潜る瞬間に尾びれが一瞬見えた場面を最後にして、引き上げることになった。
この程度のクジラであれば、沖縄以外でも見ることができる。先日、地元の定置網に紛れ込んでしまったザトウクジラもいたほどだ。一回体験すればいい感じ。水族館の方が楽しめる。
ガイドブックの広告にはこんな写真が載せてあるけれど、現実はそう簡単に見られるものではなさそうだ。
那覇市街にあるホテルに荷物を置いて、沖縄一番の繁華街と言われている国際通りに向かう。すると面白い建物を発見。窓の外には植物が配置されて、文明と自然が融合している、古代文明の遺跡みたいな印象を受けた。
通行人に尋ねたところ、何と那覇市役所であった。あのクソ面白くも無いお堅い役人たちが居る場所とは思えないではないか。そして、その隣にあるのが沖縄県庁だった。県庁はそれらしい感じがするけれど、那覇市役所はとても気に入ってしまった。
紅イモで一斉風靡したお菓子屋さんの沖縄風のお店。この系列のお店は統一デザインらしい。しかし、自分はお菓子類にはあまり関心が無いので入った事はない。
倉庫みたいな店舗に雑貨が所狭しと展示されていたお土産屋さん。店頭にはスカジャンを着たヤンキーが坐っていた(人形)。天井からは大きな口を開けたジョーズらしきものがぶら下がっている。
沖縄とは関係なくてもお楽しそうなお店なので、ためらいもなく入店。店内の品々の種類は豊富で、他のお土産屋さんでは見たことの無かったものも多かった。観光で買い物をする時間が無い場合にはとてもありがたいお店だと思った。
非売品ではあったけれど、店主のコレクションらしい様々なキャラクターの模型が天井部分に陳列されていたのも面白い。
ステッカーを見ていたら自分の愛称「ISA」が隠れていることを発見。「ハイサイ」とは沖縄方言で「こんにちは」という挨拶に近いらしい。ハワイでアロハと言うのと同様のニュアンスみたいだ。
沖縄の獅子・シーサーのお店も色々あった。中国語の発音がシーズだけれど、南方で訛るとシーザーにも聞こえるので、地理的にも大陸文化の影響が大きいことがよくわかる。
厄除け、魔除けだけれど、それ以上に信仰されているのが「石敢當」と呼ばれる、魔除け石。魔物は直進する性格があるので、路地などの突き当りに家があると、魔物が侵入してしまうという大陸起源の迷信がある。その為に、正面から来る魔物除けとして置かれたのが起源。
こういう面白い話を聞いてからは、路地を歩くたびにあるかどうか観察するようになってしまった。観察すると、現在は方角に関係なく、単なる魔よけとして使っている人も多いみたいだった。そして都市部には少なく、地方では多い。やはり都市では、どこでも民俗や伝統が失われつつあるのだ。
沖縄の伝統工芸品で気になっていたのが漆器。日本の鎌倉彫や寺院の彫刻も起源は大陸。当然、大陸に近い沖縄も同じ。
想像通り、絵柄や色彩などは大陸に近かった。鎌倉時代以降の日本漆器は独自に発展してきているので、大和の侘び寂びが感じられるけれど、沖縄のものは、一言で言うと「派手」。しかし、茶道でいう意図的に遊ぶ派手さとは異なるもの。もっと言うと、中華街の派手さに近いと思う。好き嫌いは分かれると思う。
漆器店の女店主三のお話が面白かったので長居をしてしまった。話しこんで写真を撮るのを忘れてしまったので、この漆器関連画像はネットからの拝借(念のため)。
何度か森林に足を踏み入れたものの、幸いに遭遇することの無かったハブ。地元でマムシに出会えば、捕まえてマムシ酒にしてしまうところだけれど、知らない場所では、君子危うきに近寄らず。
ハブ関係では面白いグッズも売っていた。一瞬買おうか迷ってしまった。
ハブ以外のコブラとかアナコンダも作って欲しい。
タイでは有名な三輪バイクのトゥクトゥクが停まっていた。同じ南国のせいなのか、開放的で、とても似合うと思う。昔はバイクを改造したものだったけれど、最近のものは小型のAT乗用車を改造している様だった。
運転手さんと話すと、観光客にも人気の居酒屋さんの送迎車であるそうだった。
色々な生物の骨を使ったアクセサリー屋さん。ちょっと気になって入ってみたら、1m以上の長さがある一角獣の角は180万円もしていた。
昔、アーノルド・シュワルツネッガーが主演をした「プレデター」という映画で、人間を狩って、頭がい骨などを飾っている宇宙人が登場した。こういうのって、同じ事なんだろうなあ。そう考えると、彼らが人間の頭髪や皮膚を衣類やアクセサリーとして楽しむこともあり得るわけだ。刺青をした人間の皮膚を綺麗に切り取って額に入れて飾るかもしれないなあ。そう考えると、あの映画は皮肉だったのかもしれないと思った。
晩御飯をする場所を迷った挙句、沖縄っぽい風土料理が豊富で、琉球音楽ライブもあるというお店に入った。偶然に先ほどのトゥクトゥクの送迎を行っているお店。観光ガイドにも乗っている有名店。
地元の人には地元民が通う裏通りのお店を勧められたのだけれど、沖縄初心者の自分としては、いわゆる沖縄も体験してみたかったので、敢えて観光客向けの店に入ってみたのだ。
このお店の女性芸人たちはかなり人気のようで、他の島から出張に来ていたサラリーマンたちは毎回この店のライブに来るそうだった。
帰りに勧められた裏通りを歩いてみたら、規模は小さく、質素だけれど、確かに面白そうな店がたくさんある。しかも、値段が表通りよりも安い。次回はこっちだな。
ホテル近くにあるお洒落なカフェのインターホンの飾りは素焼きのシーサーだった。
これは欲しかったけれど、街では見かけなかった。
この翌日が、見どころ満載の首里城としらゆりの塔方面。







































































































































































