三が日は鉄馬にまたがり海岸まで富士山を見に行くのが慣例となっている。正月二日は小春日和。

西洋歴では元旦から年が変わるけれど、太陽の運行は冬至からプラス方向に変わっている。これを陰陽の思想では「一陽来復」と呼び、「うまくいかなかったことが好転する」「病気が快復する」「運が良くなる」などのゲンを担ぐようになった。

この民間信仰で有名なのが都内の穴八幡宮。元々は、騎馬や射的の訓練場のあった高田(高田馬場など)にあるので高田八幡宮が正式名称であったけれど、江戸時代に神社の建つ丘から古墳の横穴が発見され、その中から神像が出て来た。なので、それ以来通称「穴八幡」と呼ばれるようになっている。

この地に八幡宮を勧請したのは奥州征伐から戻る際に立ち寄った源義家。その際に武具を奉納したことが起源。当時はこの高台が前方後円墳であることは知らなかったのかもしれない。義家は弓の名手でもあり、武名も高いので、歴代将軍家も手厚く庇護をしている。
毎年、冬至になると一陽来復にあやかる人々で大行列ができる。

これは昨年末の風景であるけれど、週末は賑わっていた。ここは趣味のタンゴのスタジオに行く際に毎回前を通るのだけれど、今まではあまり気にしていなかった。自分は哲学や歴史は好きだが、ゲン担ぎや混雑は大嫌いなのだ。この時はたまたま「一陽来復」の文字を発見して、立ち寄ってみた。

境内に入ると意外なほどの賑わいと規模で時間を忘れてしまい、タンゴのイベントは遅刻することにした。江戸時代、神仏習合という制度があり、神社は寺院が管理することになっていた。管理する立場の寺院を別当寺と呼び、穴八幡の隣にもある。将軍家の息がかかる寺院だったので葵の御紋章を使うことが許されていた。

この寺院は縁起を担いで、幸福が来ると言う意味の「一陽来福」と書いている。ただ、普段の自分の行いがめちゃくちゃなくせにこういう時だけ神仏に頼ろうする人間にご利益などあるはずはないと思う。本来の神仏関係者は、お守りや御朱印などでお金儲けをすることばかり考えず、きちんとそういう教育をするべきだと思う。なので、自分は余程の関心が無い限り、見学だけで、クジやお守りの類は一切買わない。

正月の海岸はいつも大混雑。バイクでも並ぶことがあるほど賑わう。今年から祝日には日の丸の国旗をはためかせて走ることに決めた。それは最近「日本」が絶滅するのではないかという危機感を切実に感じているから。最初は伝統的な精神文明が崩壊し、弱体した状況につけ込まれて侵略されてしまうという危機感。

今回のコロナウィルス騒動でそれはますます真実味を帯びてきた。平和ボケが広く浸透した結果、庶民どころか政府すら危機管理と国防が全く機能していない。私は当初からシミュレーションをしていたけれど、政府の対応と、国内外で起きる現象はほとんど当たっている。私自身も平和ボケ環境で育っているけれど、その後の経験のお陰で、ある程度の分析と対処はできるようになっている。最前線にいる現役のプロはこんなレベルではないはず。もしも人材がいないのであれば、民間からも経験のある人材を探すべき。温室で勉強するだけでは、実際の修羅場の怖さがわかるはずはない。そこにおける、人権などの解釈は平常時とは大違いなのだ。現状では「人権」に関する綺麗ごとが多すぎる。原発事故の際に綺麗ごとの理論ばかりを論じていた人物は今回もある野党の党首として同様の屁理屈をのべていたけれど、あれでは間に合わない。一方の政府は議席数を悪用して嘘つきと独断の悪印象を与えたので、こういう緊急事態でも信用&協力を得られないのだ。私は騒動後に「悪」はぶっ潰すべきだと思う。政治に無関心で選挙にもいかなかった人たちも反省するべき。お前たちが今の政府を作ったのである。

この日は富士山の上にだけ雲がかかっており、見えなかった。日中にはとても綺麗だったそうだ。雲がかかるのは富士山付近の上昇気流と関係があり、夏場は昼過ぎに雲が発生する。
4日はタンゴを踊るバイク仲間たちと路面凍結の心配がない房総半島へ初ツーリング。

房総半島の春は早い。すでに菜の花が咲き始めていた。

普通なら正月はお節料理なのだろうが、我々は常識と少しずれているメンバーがほとんどなので、正月からジンギスカンになった。セルフサービスで食材を購入して、自分たちのテーブルで焼く方式。これは明朗会計だし、シンプルで良いと思った。

食後はバンジージャンプ。高所が大嫌いな私以外はみんな自殺未遂をやりたがった。よくやるよなあ~。

楽しみ過ぎて、フェリーの最終便ギリギリの乗船。南端の岬にあるユニークなカフェで時間をつぶし過ぎてしまい、すでに日が暮れていたので大慌てで港まで走った。房総半島は広いけれど、渋滞が無いのが幸いだった。

「日の丸」は今では暴走族やヤンキー、街宣右翼といったマイナスイメージと結び付けられてしまうことが多いので、とても可哀想。それに、私のバイクはアメリカ製で、どちらかと言えばアメリカナイズされた人たちが好むタイプだから、横文字のアクセサリーを付ける人が多い。なので、とても奇異な目で見られることが大半だったけれど、逆に手を振ってくれる人もいて、面白い体験だった。
日の丸をつける直接の動機は、前回に外国人と元旦ツーリングをした際に、日本でも堂々とアメリカや自国の国旗をはためかせて走る姿にとても感動したから。国際関係や政治はともかく、自分たちの文化や国を愛する姿はとても尊く美しいと思った。ところが、日本人はずっと戦争で自分たちが悪者で侵略者だと教えられて来た。いわゆる「自虐史観」に洗脳されて、自分たちの誇りを忘れてしまっていることに気付かされたのだ。だから自分たちの歴史も知らず、文化の素晴らしさも知らず、その結果として自分たちに誇りや自信を持てなくなってしまっている。この状態から脱却するためには、まず自分たちの歴史や文化を学ばなければならない。外国の芸能人、ファッション、車やバイク、音楽をいくら知っていても、自分たち自身の文化を知らなければ、「あんたは何人?」と言われることになる。海外体験のある人は少なからず体験しているはず。どこの国に行っても、自国に誇りを持たず、欧米の真似&媚びへつらうような日本人は信用されない。
今年の正月は暖冬で晴天が続いた。地元の公園も水仙が満開となり、あたり一面が甘い香りに包まれていた。

地元の海から対岸を見ながら、先日のツーリングを思い出した。フェリーの航路はちょうど真正面。東京湾の一番狭い浦賀水道を横切っている。最終便に乗り遅れそうだった記憶がよみがえり、日没まで滞在していたカフェを思い出した。そのカフェは東京湾の入り口にある重要な岬にあり、古くから灯台も整備されていた。灯台が無い時代からも、海に生きる人間たちにとってはとても重要なランドマークだった。

そこで、思い出したのがその岬にある不思議な石。昔、修験道の始祖である役行者が浦賀水道を守るために置いたと伝えられているのだ。役行者は空海(弘法大師)の先達であり、大自然の理をよく知る人物だった。水道を守る石は水道の両側に置かれており、一つがカフェの近く。もう一つが私の地元にある。昔は貝塚もあったエリアだけれど、今は開発されて住宅地の中に埋もれてしまっている。
思い出したので久し振りに行くことにした。滅多に行かないので所在地がわからなくなり、まったく関係のない公民館の裏山に入ってしまい、道を尋ねた公民館に集まっていた子供たちに「全然場所が違う!」と笑われてしまった。

そもそも、今の参道は後から開削されて作られたから、昔の出入り口は逆方向にある。そのせいもあって、地理がわからなくなっていたのだ。本来は海に向かって参道が続いていた。今は狭くて、裏口のようになっているけれど、こちらが本来の参道。たまたま通りかかった地元の老人に話しかけたところ、色々教えてくれた。

周囲はすっかり住宅地となっていた。しかし、斜面からは奥に夕焼けの富士山が薄っすらと見えていた。

この神社は神社と言っても建物が一切ないところが特徴。それはご神体が例の守り石だから。とは言え、普通は地元の名士や豪族が廟などを建立して庇護するもの。それが行われずに、野ざらし状態であることはとても原始的で特別な存在感があり、逆に感動してしまった。
こちらの社伝では役行者の伝承より古い時代に霊石は安房の国(房総半島)から飛来したもので、日本武尊が東征の折に霊石を拝したとの話もあるらしい。

ご神体の霊石は現在は鉄の柵で覆われているが、周囲は多少の石碑があるのみ。それほどの巨木は無いことから、自然消滅か、人の手が入っていたのだと思う。昔、東北に向かう東海道は海を渡るルートもあった。沼地であった東京エリアを通るよりも、三浦半島から房総半島に海路を渡る方が合理的だったからである。

ここから海に向かうと日本武尊と弟橘姫の海難伝承が残る「走水」へ出ることになるので、古人たちがこの周辺を通っていたことは間違いない。ちなみに、その伝承内容は、日本武尊が部下たちと浦賀水道を渡る途中で暴風雨に出遭い、許嫁の弟橘姫が入水して犠牲となることで無事に対岸に渡ることができたというもの。
しかし、私が昔聞いた話はもう少し具体的だった。日本武尊が船上で「この辺りの潮は流れが速くて水が走るようだと聞いていたのに大したことは無い」とうっかり口走ってしまった。それを聞いた海神が「生意気な人間だ。だったら怖さを思い知らせてやろうではないか」ということで暴風雨を引き起こした。その海神の怒りを鎮めるために弟橘姫が自らの命を捧げたというもの。後日海岸に流れ着いた頭飾りを納めて姫の御霊を祀ったのが走水神社だとされている。

霊石は房総半島のある東を向いており、その背後は西。ちょうど夕日が沈むところだった。今では地元でも無関心な人がほとんどで、知る人は少ないが、古代日本の歴史を伝える貴重な文化遺産だと思う。
正月の富士山は昼間の方が見えるのではないかということで、平日の日中に西へ向かった。鎌倉から富士山の姿もばっちり見えた。しかし、この頃から中国の新型SARSらしき噂が聞こえ始めた。

菜の花の名所は平日でも凄い賑わいだった。この丘陵を上るのはかなりしんどく、いつも体力管理のバロメーター的な場所となっている。長い上り坂の途中で苦しくなったら足腰が弱っている証拠。

座れる場所は全て高齢カップルで占領されていたので、景色だけを見て、早々に引き上げる。三毛猫は石の上でまどろんでいた。
まだこの時点ではマスクをしていた人は、本当の風邪引きさん以外は皆無。

ここには、偶然に先日訪れた霊石や走水の弟橘姫の伝承と関係がある神社がある。それは、日本武尊が西に帰る際に、この山の上から三浦半島を振り返り、自分たちの為に犠牲となった弟橘姫を偲び、遺品をこの地にも祀ったと言われているのだ。

このまま富士山方面に行くことも考えたけれど、数日前に雪が降ったはずなので、その手前の箱根の様子を見に行くことにした。箱根は昨年秋の台風被害で大損害を受けていた。大規模な地盤の崩落によって大事な交通手段であった登山鉄道が復旧できない状態が続いていた。当時はコロナウィルス騒動ではなく、台風被害の影響で観光客が激減していたのだ。しかし、自分の場合はいつも車かバイクで行くので交通機関の影響は無し。かえって渋滞もなく快適ではなかろうかと推測して行ってみた。

これは終点近くの平らな部分で、運休中の線路には雪が残っていた。上ってくる途中の山道に沿って見える箱根登山鉄道の軌道(線路)は地盤が無くなって宙ブラリン状態となっている箇所がたくさんあった。あれだと、先ず地盤を造り直さないと線路を敷設することは不可能。重量が重い鉄製の車両が上を走るわけだから、大規模な工事になることがわかった。損害の大きさを考えると同情するので、頻繁に遊びに行こうと思った。
いつも行きつけの餃子屋さんは数年前にもらい火で店舗を焼失し、最近新装開店したと聞いていたけれど、その後の台風騒動で行けずじまいだった。この機会に立ち寄ると、以前とは全く違って近代的なレストランになっていた。昔はカウンターのある地方の食堂みたいな建物だったのだ。

いつも注文するのはニンニクと銀杏が入ったスタミナ餃子。今回は寒かったので餃子ラーメンも追加。ここの餃子は有名だけれど、通常の店の倍近い値段がするのが、少し残念。まあ、観光地だから仕方が無いのかもしれない。客層は欧米人が多く、中華系が次だった。ネットで調べたのだろう。

通常は渋滞するエリアもスイスイ快適に走れたので、久し振りに道沿いにあるカフェに立ち寄ることにした。この建物は昔のバス停留所を改造したもの。

曲がり角の傾斜地に建てられているので、扇型をしており、後ろ側は斜面に沿って半分地下のような構造なのだ。この建物の精巧な紙製模型を製作した方のブログには詳細な紹介kが書かれており、とても面白い。
https://zakixzakix.jimdofree.com/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%8B%E8%87%AA%E5%83%8D%E8%BB%8A-%E5%AE%AE%E4%B9%8B%E4%B8%8B%E5%BE%85%E5%90%88%E6%89%80/

店内にはこの模型や古い写真も飾られており、当時のバス乗り場の様子がわかる。

店内は太い木の梁がむき出しで、山小屋風。扇型のスペースを利用して快適な喫茶スペースが作られている。客は日本人の家族連れが一組のみ。台風被害以降は経営難が続いているらしい。今はコロナウィルスとWパンチでさぞかしご苦労されていることが予想される。

せっかくなので他のカフェでは食べられない、オリジナルのパフェセットにしてみた。

窓の下を見ると、中華系の観光客の歓声が聞こえて来た。最近では、日本人よりも上客である。彼ら無しでは観光業は成り立たない状況になりつつある。台風被害で減少しているものの、もうすぐ旧正月でまた大量に押し寄せるだろうと考えながら、一方でウィルス騒動の危険性も心配していたことを思い出す。
旧正月の休暇は最も長く、海外に移動する中国人も最多の期間なのである。なので、もしも感染症が広まりつつあるなら、直ちにその大移動を阻止しなければ大変な災害となることは予想できていた。
自分も仕事と直接関係があるので注意していたけれど、連休は1月24日から始まったので、1月末にはすでに中国内で騒動が始まっていた。

武漢の感染が広まり、ほかの都市でも武漢帰りの人を特別扱いし始めた。住民が出られないように、近隣の住人と警察がドアを外から木材を打ち付けて塞いでいる映像が報道されていた。

このタイミングで日本も何ならかの措置を講じなければならなかったのだ。旧正月休みの大移動はウィルスを世界中に拡散することは必然であった。何よりも、それを野放しにした中国政府自身が最大の元凶であることは間違いないけれど、それに適時対応できなかった我が国の危機管理と国防は今考えても間抜けである。