神権革命へ、幕末、三人の陰謀 | is6689のブログ

is6689のブログ

ブログの説明を入力します。

        明治維新三人の救世主

勝砂基天皇宗廟

10月21日18時13分撮影

この時間の撮影で空まで明るく写るのは「不思議」と感じます。墓石の一番下に先祖の骨が納まっている事は以前の記事で伝えています。その先祖は明治維新の三人の救世主の一人、西郷と海舟の奥に居た勝砂基天皇です。維新を起こした帝は万世一系の勝砂基天皇でした。北朝または南朝の天皇ではありませんでした。

勝天皇の詔(密勅)で西郷は『討幕』の戦いを始め、果敢に進め、わずか二年でおさめました。勝海舟は大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書き、勝砂基天皇は憲法前文(告文・憲法発布勅語)を書きました。帝国憲法は『勝憲法』です。

 帝国憲法前文

漢字とカタカナで句読点の無い文章です。辞書にも無い漢字の語句もあります。一般には「難しい」と感じると思います。「万世一系の帝位を践み・・・・・・・」とあります。また憲法は天皇家の代々の『訓え』と伝えています。

この文章は本当の天皇でなければ書けないと思います。本当の天皇=万世一系の天皇は、第57代陽成天皇の皇子元平親王=清和源氏の始祖源経基王の直系の子孫、源為朝の子孫です。天皇家と清和源氏の系図から明白です。小学生でも理解できます。

幕末の1866年(孝明天皇崩御の年)、勝砂基天皇の御歳は51、海舟は43、西郷は39です。北朝孝明天皇(清和源氏足利家の子孫)の御子睦人親王(1852~1912)の御歳は14です。また親王は「稚なかった」と聞きます。自然な推理を働かせると睦人親王に討幕の密勅を出すことは出来ないとなるはずです。それに親の孝明天皇は「公武合体」で時の難局に当たるとの考えでした。その御子に討幕の考えがいきなり生まれたとは思われません。

「西郷に誰が討幕の密勅を出したか」で明治維新を考え直してください。孝明天皇は自身が万世一系の天皇ではない事は知っていたという事を考慮してください。

海舟は万世一系の天皇と共に帝国憲法の草案を書いています。この憲法は1889年の発布となっています。砂基天皇は1888年の崩御(推定)です。発布した方は万世一系の天皇ではありません。したがって帝国憲法は「草案」のままです。真実の天皇にしか憲法発布権はありません。詐欺行為の憲法発布の方は北朝の睦人親王になりすました南朝系の朝鮮人寅吉偽天皇です。

寅吉偽天皇は明治時代「南朝正統」を主張していました。「南北朝正閏問題」で広辞苑に当たるとその当時の議会も「南朝正統論」であった事が分かります。当時の議会が天皇に反対する事は無いはずです。

  陰謀対陰謀

勝砂基天皇は西洋の陰謀(北朝・南朝で戦わせ彼らの傀儡政府をつくる)を見抜き、討幕の主導権を孝明天皇崩御(1866年12月)の後、即取るように西郷に命じています。1867年正月、西郷は藩主久光に薩摩・土佐・越前・宇和島の四藩連合を建白しています。討幕のためです。安藤英男著『西郷隆盛』P477にあります。西洋の陰謀に対して日本を護る勝砂基天皇の陰謀がありました。天皇の右に西郷、左に海舟がいて極秘に、西洋の陰謀と戦っていました。右は武、左は智です。『討幕』と『大日本帝国憲法』は三人の救世主によるものです。

南朝系の朝鮮人偽天皇が北朝の御子になりすましたのは、いや、なりすまさせたのは『大日本帝国憲法』です。憲法に「万世一系の天皇」とあるためにです。・・・・・・・・・・・・分かりますよね。「南朝の天皇」と言ってしまえば、憲法により皇位に居る正当性が否定されます。寅吉さん、泣く泣く北朝の仮装天皇ということになったのです。朝鮮人伊藤博文はこの憲法に怒って、海舟と袂を分かちます。朝鮮人を使った西洋の陰謀は、二人の勝と西郷の三人の陰謀により敗れました。第122代の真の天皇は『勝砂基天皇』です。教科書の明治天皇は北朝であっても南朝であっても偽者です。

その後、砂基天皇は徳之島伊仙町で、草薙剣を先祖砂守栄郷の墓に隠し、「この墓石は絶対に他人に取られるな!」と遺言し崩御しています。その嫡流の系譜は勝砂基ー勝砂富―勝砂富ー勝宮永ー勝昭市―勝信貴です。

「勝」は苗字ではありません。天皇に苗字はありませんから。苗字に見せて隠しているのです。勝=力+朕(天皇の自称)と分解できます。漢和辞典に拠ります。「勝」の意味は「力の天子」です。聖書に「力」は「聖霊」と解せる文脈があります。勝=聖霊の天子です。

わたしは27歳の年1983年9月25日の夕、教会で聖霊を受けました。先祖砂基も聖霊を授かっていたと思います。聖霊から来る知恵が無ければ悪魔の側の陰謀に打ち勝つことは不可能と考えるからです。西郷と海舟も天皇を通して『聖霊』を受けていたと思われます。天皇は『天子』です。天の神の子です。母なる神キリスト=天照皇大御神の御子です。聖霊を受けるとは神の子になるという事です。天皇家は霊的に神の家です。明治以降の偽天皇家は霊的に悪魔の家です。この真実に早く目覚めて欲しく思います。

  陰謀の証拠

今日(25日)、このページに導かれたと思います。岩波文庫『海舟座談』のP125です。

「西郷に初めて会見せられし時の事を聞きかけしに、『イヤ、大阪で会ったよ。・・・・・・・』・・・・・・・」です。

聞きかけたところに「イヤ」と即応するのは、海舟に何か隠したいことがあるからと思います。皆さんもそれぞれに、海舟の心の動きを分析してください。わたしは西郷と口裏を合わせて二人の最初の会見は「1864年大阪で」としていると思います。『陰謀』があるためです。

ウィキペディア

「島津斉彬」

海舟を西郷に紹介したのは島津斉彬公であると海舟は明言しています。公は1858年に亡くなっています。海舟と西郷の初見は「1858年以前」と考えるのが自然です。

この史料に「二十年も以後に、初めて西郷に会った時」とあります。ここの会った時を1864年とすると、1864-20=1844です。西郷18歳、この年初めて藩の役職「郡方書役助」に着いています。西郷と海舟の初見は1844年の可能性があります。その時の海舟は22歳です。

海舟と西郷に陰謀があったか否かは、二人の初見がいつであったか、1864年以前であったか否かで判明します。そして二人だけでは陰謀は成りません。二人は「臣」ですから。命令を出す「君」が必須です。

   勝伝

1862年西郷が島流しの身で徳之島に留まっていた家は「松田勝伝」宅となっています。「松田」は明治以降の苗字です。「勝伝」は、・・・・・・・・・・・人の名ではありません。上の由来書からその事を解きます。

二人の婆さんの話が出て来ます。一人は勝伝宅の「婆や」、もう一人は西郷が道端で出会った「老婆」です。

「婆や」の意味を広辞苑で調べます。「年老いた召使の女」とあります。さらに「召使」を調べます。「禁中で召し使われた卑官」と出て来ます。「老婆」は「年とった女」です。「老婆心」と言う慣用句があります。親切な心からの忠告です。

勝伝の婆やは西郷に「遠島の身についての説教」をしています。西郷はその説教を(謙虚に)受け入れています。・・・・・・・・・・・・・・・。「この婆やは一体何者?」とわたしはいぶかります。島流しの身の者の島での在り方を説いているのですから。また西郷は素直にその教えを聞いているわけですから。・・・・・・・・・・・・・・。

婆やは召使です。勝の召使です。勝=力+朕です。婆やは天子の召使です。天子の御言葉を西郷に伝える召使です。勝=天子が西郷に島での在り方を婆やを通して伝えたのです。「勝伝宅」は天子と西郷が連絡を取り合う家です。

松田の婆やの子孫と先日、会いました。草薙剣を見せました。いろいろ話を聞いて、天子の一族と感じました。勝の一族です。言葉を伝える召使は同族で無ければできないと思います。

道端で出会った老婆は親切の心から西郷にハブへの注意について話をしています。

「勝伝」の真実、勝砂基天子と西郷と勝海舟の陰謀が存在していた事を伝えます。

    義兄弟

今日(26日)昼の時間、テレビ(BS)をつけたら「北島三郎ファミリー」の特番が現れました。『兄弟仁義』で知られる北島三郎です。北島さんを親として弟子たちは皆、義兄弟・姉妹です。ファミリーに堅い絆を感じて日本人として感動しました。天皇制の原型をそこに見ました。

わたしは伝えています。天皇は神の子の「長子」と。長子には親の代わりの務めもあります。天皇には親として国民の幸せをはかる義務があります。

天皇=親としたとき、西郷と海舟は義兄弟になります。堅い契りの義兄弟です。絶対に親を護ります。砂基天皇の事は絶対秘密です。陰謀の『主』は絶対秘密です。1864年に二人が初めて会ったという事で父の存在を隠すことができます。『尊皇』の原点です。

    義兄弟

①親の血を引く兄弟よりも、堅い契りの義兄弟。こんな小さな盃だけど、男命をかけて飲む。

③俺の目を見ろ、何にも言うな。男同士の腹の内。一人ぐらいはこういう馬鹿が居なけりゃ、世間の目は覚めぬ。

   日本人の覚醒 

世間の目が覚めて日本は『家族国家』として世界に現れます。

   吉兆

26日7時24分鱗雲

ネットで調べて、鱗雲は「大きな龍がやって来た」のしるしで、「幸運の前触れの知らせ」との事です。

万世一系の天皇ダビデ

彌勒の転輪聖王ダビデ