「奄美」の「奄」の由来4、奄美王国の都発見 | is6689のブログ

is6689のブログ

ブログの説明を入力します。



 上の画像、『孟子』第6巻9章の記述から、間違いなく、殷王朝時代山東省=奄国であり、そしてその奄国の君は東シナ海の隅、奄美(徳之島)に居た、理論的に間違いありません。

 「理性的なものは現実的である」と、哲学者、ヘーゲルは言っています。わたしはその意を理論的に正しければ必ず、それに対応する現実があると理解しています。奄国、わたしは「奄美王国」と呼びます。なぜなら、殷王朝は神を主とした神政政体、殷王朝と奄国は一体(共に周王室に滅ぼされた)、したがって奄国も神政政体、奄美の神の御名は「アマミキヨ」、神の御名から、国名を「奄美王国」とします。奄美王国の都は何処に、・・・・・・・・それは「ここに」が今日(12月27日)のテーマです。

 その探求の手掛かりを山東省の奄国遺跡、奄城(グスク)」とし、グスクの町徳之島天城町に目が行き、そこに都の名と思われる三京集落があることから、奄美王国の都は、三京との可能性を昨日書きました。



 今朝、ふと思い当たる所が現れました。三京の真南、伊仙町上面縄、女王卑弥呼が都を置いた地、その真北にグスク、『ウガン城(グスク)』があることを想起しました。「ウガン」とは島言葉の「うがむ」がその由来と思われます。「うがむ=拝む」です。人が拝むグスク=ウガングスクです。


     グスク

 「グスク」の意を学者に聞いてみます。『伊仙町誌』のP91に次のようにあります。

 「『日朝同祖論』の中で金沢博士は、グスクについて次のように解説している。『朝鮮の古語では村の事をスキ、村主のことをスクリといっているが、日本語では城と書いてシキと読んでいる。ㇱは住むという意味で囲いの中という意味である。日本語でシキ、朝鮮語でスキ、琉球語のスクは、高いところにあって石の壁で取り囲まれている所、即ち城壁という意味である。

 そのようなグスクについて『徳之島小史』は『今なお、所々の部落の後方なる丘山に何々グスクと名付ける所は、アジ屋敷の遺跡なりと言い伝えている。首長の城塞としては規模小なりと雖も、三方断崖をめぐらし、前方は漂測(?)たる海岸に望み、如何にも形勝の地を占めしものというべし。』と書いてある。」

 グスクとは、城壁、アジ屋敷、形勝の地をその特徴とするようです。形勝の地にある城壁のアジ屋敷がグスクの定義になるようです。


   按司(あじ)

 広辞苑に「按司」は、「古琉球の階級の一つ。諸侯に相当する。もと領主の意。後には一間切(村)を与えられた王家の近親をいう。」と説明されています。「諸侯」とは「昔、中国で天子から受けた封土(ほうど)内の人民を支配した人。」と説明されています。

 ここで疑問、按司=諸侯なら、奄美において天子に相当する位は、何でしょうか。

 『伊仙町誌』のP89に次のようにあります。「アジの語源については、日本の文献で探求することはできない。それは奄美以南、沖縄諸島にしかなかった酋長的支配者の名称であったからである。『沖縄文化史辞典』によると、アジは按司と書き、文語ではアンジと読むとしている。

 徳之島では按司をアジといい、それにガナシをつけてアジガナシと呼ぶ場合があるが、ガナシはカナシの濁音で『畏敬』の称である。」

 徳之島には、中国の天子に相当するような「按司ガナシ」がいたようです。

 按司とその居城、グスクは「日本の歴史や文化」では説明がつかない、つまり日本由来ではないということです。では、その由来は、・・・・・・・・・・。今の所誰も気づいていません。それが紀元前21世紀頃に始まる中国夏王朝、その後の殷王朝(前16世紀~前1023年)時代に存在していた「奄美王国」に由来するとは。その証拠史料が『孟子』第6巻9章にある「奄」とは。


   按司の本質

 難問とは、その解説を理解するには簡単ですが、発想に困難な問題とわたしは体験からそう考えています。按司とは何かについての諸説を見て、難問と感じます。「按司」について書きます。

 按司とは按手のリーダー、按手の概念から生まれたリーダーです。

 「按手」について広辞苑に「キリスト教で、人の頭の上に手を置いて祝福やカリスマの伝達・授与を神に乞う振舞。」と説明されています。

 この説明は正しくありません。按手の歴史はキリスト教に始まるものではありません。アブラハム系シュメール人イスラエルに始まるものです。旧約聖書にその例があります。


 「すると、イスラエル(父)は、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。・・・・・・・。それからヨセフ(エフライムとマナセの実父)を祝福して言った。・・・・・(創世記48章14・15節)」。

 「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。(民数記27章18~20節)」。「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。(申命記34章9節)」。

 

 ヨシュアは神に選ばれた人モーセの「按手」を受けて、その能力が授けられイスラエルのリーダになっています。即ち、按手を受けた按司になっています。ヨシュアは按司です。論理的にモーセは、按司の中の按司、徳之島で言う「按司ガナシ」に相当するでしょう。按司ガナシは神と通じている人です。奄美王国の王です。

 按手は家族の中で父親(イスラエル)が後継者を指名するものとして行われています。イスラエルの後継者はヨセフの子エフライムとマナセです。詳細は聖書に譲ります。右と左では右が優位です。父イスラエルは、右の手の按手によって跡継ぎをエフライムと公にしました。エフライム族は失われた十部族の頭領、即ち按手を受けた按司です。

 按司は父が指名した次の世代の家長、父です。按司は家の概念から生まれた「長」です。長は家族の長、親族の長、部族の長、一族の長と発展していきます。血族の長が按司です。

 父は天神に祈る人です。家族を代表して祈る人です。父の祈りが家族を護ります。祈る父が按司の原点です。按司は一族、血族のために祈る人です。武力で支配する人ではりません。その屋敷は聖なる家です。城壁で区別します。全ての子どもたちに見えるように高台につくります。それがグスクでしょう。


 奄美・沖縄の研究者たちも按司は父親がその由来と考えています。それを『伊仙町誌(P89・90)から紹介します。

 「平田嗣全氏は『奄美大島や島尻地方(沖縄)の一部では父親を呼称するのにアジというが、支配者としてのアジではなく、父親や始祖に対する呼称』とし、外間守善氏は『アジはおもろ語で父親を意味する「あさ」が転化したもので『おもろそうし』の中で「あさ」という語が親の同義語として使われているのと同時に、部落の長老、一般から尊敬されている男というように使われ、生活単位が血縁集団として「長老の中の長老」が生まれ、さらにこのような長老の中の長老が、さらに社会的責任の重く、かつ大きな武力を持った支配者、即ち一般的に言う按司となり、・・・・・・・・」

 徳之島では父親のことを「アジャ」といいます。按司の由来は「按手の概念」がその由来です。

    日本のカタチ

 按司は諸侯ではありません。奄美王国と殷王朝は按司、周王朝以降の中国は諸侯の国です。日本の天皇制は按司です。天皇を父とする家族社会、それが真実の日本のカタチです。

 

    金神天皇ライン

 なぜ、本来の天皇制のカタチが奄美・沖縄にあるのでしょう。

金神天皇ライン

 この霊的ラインについては先述しています。完璧に奄美・沖縄を通過しています。日本の本来のカタチがここにあるのは、金神天皇ラインによるものでしょうか。・・・・・・・・・・・。

 

   ウガングスク

伊仙町誌

 その史料を箇条書きします。

①卑弥呼の都、上面縄集落の真北、徳之島の中心地、三京の真南、三京と上面縄の直線上に位置している。三京、ウガングスク、上面縄の3点で南北の直線を形成している。上の画像参照。


②上面縄集落から北へ約1,2キロ上った所にある海抜約100メートルほどの丘陵。


③西部と北部は断崖、東部・南部は急傾斜。西部の谷間を面縄川が流れていて、自然の砦をなしている。


④中央に按司屋敷跡があった。現在は民有地で畑になっている。ときどき鍬や鋤に触れて、刀のつば・古銭・石斧・墓石などが出土したという。


⑤遺跡として残っている物に、按司の鍛冶場だったとされるツガイヨウ、按司グムリと称する泉、北側入り口の多数の戦死者の遺骨、南側入口の二段積みの石垣等がある。


⑥城外の丘の積み石。この石の上に立つと面縄と目手久が見渡せる。敵の来襲を監視した所ともされている。


⑦近くに馬走道と言われる当時の騎馬練習場の跡がある。


⑧近くに按司に仕えていた坂水ノロの居た跡と言われる祭り場がある。


⑨村人から神山として畏れられて、そこの木を伐ると祟られると信じられている。


⑩太平洋線戦争が始まったころ、面縄集落のある青年がウガン山から宝物らしい物を拾ってきてその晩、発熱して苦しんだ。青年の父はウガンの祟りと信じて、宝物を山に返したところ、子どものの熱はひいたという。


⑪明治生まれの古老たちは、ウガン城のどこかに按司の宝物が埋蔵されているだろうと幻の宝物の夢を持ち続けているようである。


⑫ウガン按司はウガンウスジに城を築き、坂水にノロをおいて一切の神事祭式を司らしめ、面縄地区の人々を支配した。ウガンウスジの城跡は、現在でも見ることができる。


⑬按司はノロをして精神教化に努めながら、農具を製作して百姓に与え、生産を高めるなど善政を施したので百姓も心から信用して喜んで貢物をするようになった。


⑭ウガン按司は全島の按司を統括さい配していたと伝えられている。


⑮ウガン按司の滅亡

「ある時、唐の軍隊がウガン城にうんかの如く攻めてきた。防御がよく、なかなか攻略することができなかった。持久戦となり、唐軍は面縄川をせき止め、水不足させようと計画して堀切を造るが、ウガン按司の策略により工事は中止となった。最後に白兵戦となり、親按司をはじめ七人の男の子は討死し、末子の娘一人だけが残って勇敢に戦ったが、ついに殺されてしまった」。

「唐」とは、王朝ではなく中国を指す。


⑯出土品

面縄 ウガン城出土 中国産青磁碗 15世紀


⑰城の北、近くに古代の祭祀遺跡「先天道」がある。


⑱近くにパワーストン千枚岩の面縄川がある。


   奄美王国の都
 「奄の君」が居た所は、ここ、面縄のウガン城ではないでしょうか。


万世一系の天皇

イスラエルダビデの子孫

平安天皇ヨシュア