「誰になんと言われても良いけれどもこの人に叱られるようなことはしたくない」とこのブログで書いたことがあります

 

いつからどういうきっかけでこう思うようになったのか定かではありません。

 

正法眼蔵随聞記にある「人を愧づべくんば明眼の人を愧づべし」という言葉に近いかもしれません。

 

入蔵が初めて正法眼蔵随聞記を読んだ(内容を真に理解したかどうかは別)のは、たぶん高校の終わりから大学の1,2年生の頃ではないかと思います。

 

入蔵の心のどこかに上記の道元の言葉が刻まれていたのかもしれませんが、定かではないです。

 

この言葉を直接的に思いだして、冒頭の考えに至ったわけではありません。

 

入蔵は時々「よくあんなに思い切ったことが言えますね」と会議や講演会などで同席した人に言われます。

 

「あんまり、あんなこと言わない方が良いですよ」という意味かもしれません。

 

入蔵は「正しければ平気で人を傷つけても良いという考えを持たないようにする」という事にはいつも注意しているつもりです。

 

しかし、言うべきことは言わないわけにはいきません。

 

また、入蔵の考え方が、しばしば常識的な考え方と違っていることがある事も承知しています(もちろん非倫理的だという意味ではありません)。

 

人から見れば入蔵は少々扱いにくい人物という事になるかもしれません。

 

入蔵は「日常生活で至らないことの多い」人物だといえるのでしょう。

 

けれども、入蔵には「この人に叱られるようなことはしたくない」という基準があります。

 

人から見れば入蔵は野放図な人生を送っているように見えると思います。

 

確かに野放図です。

 

本当にお恥ずかしい。

 

でも、野放図に見えても入蔵には入蔵の事情があり、その事情を抱えた状態ではこうせざるを得ないという事もあるのです。

 

入蔵の抱えている詳細な内容を知らずとも、それを慮る度量があり、その上で叱ってくれる人がいます。

 

そういう人が入蔵にとって冒頭の「この人」なのです。

 

入蔵が年取るにつけ「この人」は減っています。

 

存命の人物としては。

 

しかしながら、入蔵の心の中では「この人」は生きており、ほぼ毎日、入蔵を叱咤激励してくれるのです。

 

「われ以外皆我が師(本来的な出典には諸説あるようです)」という視点からは上記のような考え方は狭量と言えるかもしれません。

 

でも、今の入蔵は冒頭の思い、考えに実際に救われ、導かれています。

 

六十を越えてこういう事でいいのかと思わないではありませんが、仕方ありません。

 

今は「この人」がいる幸せを嚙みしめていきます。

 

多分「この人」に出会っていない人もいるでしょうから。

 

出来れば、いつか自分も誰かの「この人」になれたらいいのですが。

 

今日から入蔵は盆休みを取らせていただきます。

 

盆休みの初日の今日、入蔵は寅さん記念館の高座に上がる予定でしたが台風で中止になりました。

 

高座で馬鹿なことを言っているかわりにこの記事を書いているのです。

 

入蔵の盆休みは何となく波乱万丈なものになる予感がします。

 

今日は月遅れの盆の入りです。

 

昭和20年に玉音放送が行われた8月15日を明後日に控えて、コロナ禍に見舞われている地球上では戦争、紛争が絶えまなく続いています。

 

出かけなくてよくなった入蔵は、今まで録画しておいたNHKの番組100分de名著「アレクシエーヴィチ(2)『ジェンダーと戦争』」を見ていました。

 

 

 

 

多分、戦争・紛争にかかわる人皆それぞれに「この人」がいるでしょうに。

 

入蔵にすらいるのですから。

 

では、また。