大山捨松様に想いを寄せて、時間を揺蕩う | 時は止まる君は美しい

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巡りあった美しい人達の記憶を重ねます・・・
B面ブログ「扉・鎧戸・宵の口」も始めました。

 

逸話が素敵です

美才女、夫は顔では選びません

 

 

YouTubeを流したまま、別のことをしていたら、

たまたま、大山捨松様に関しての動画が流れていて、

拝見しました。

幕末から明治という激動の時代の、

まるで、小説のようなご一生。

久しぶりに、歴史のお勉強を少しさせて頂きました。

 

 

明治維新から、わずか4年後の1871年。

5人の少女がアメリカに渡った。その中に当時12歳の山川咲子、

のちの大山捨松がいた。

 

 

激動の明治時代にあって初の女子留学生としてアメリカで11年間を過ごし、

日本が急激な西洋化政策をとる中、

日本人女性の進むべき道を切り開き続けた女性です。

 

 

「鹿鳴館の名花」と謳われ、

日本の西洋化のためにありったけの情熱を注いだ大山捨松の生涯を紐解きます。

(YouTube解説より引用)

 

 

大山捨松(安政7年2月24日(1860年3月16日)~大正8年(1919年)2月18日)は、

日本の華族、教育者。大山巌の妻。

 

 

旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。

愛国婦人会理事。赤十字看護会理事として看護師教育を、

また津田梅子旧友として女子教育を支援、

スペインかぜの予後が優れず死去。

(Wikipedia様より引用)

 

鹿鳴館の華

 

 

 

東伏見宮妃周子様 

 

 

陸奥亮子様

 

 

 

 

 

 

鍋島栄子侯爵夫人

 

 

 

戸田極子様

 

 

新島八重(大河ドラマのヒロインですね)様

 

 

 

どうしても、鹿鳴館が華やかで目をひきます。

 

 

そこでも、日本初のバザーを開催し、大成功を納め、

看護学校を建てる資金を作られたというからすごい。

 

 

しかし、11歳にして、国の未来を背負う形で異国に渡り

その目的の元、11年の間、見事にその文化を吸収

 

 

期間満了も、資格取得までの延長を許可されてらっしゃる。

↓ 帰国報告の参内。

 

 

帰国してからも、困難な実情の中、

いかに経験を生かすか、努力し続けたって、

・・・もう、すごいとしか言いようがないです。

 

 

結婚も、ちゃんと相手と知り合って、と、

「ガマガエル」と言われた容姿の大山巌伯爵(22歳年上)と、

ちゃんと恋愛されてご結婚されたというのだから聡明な判断力

 

 

 

しかも交際期間3か月で、きっちり、絶対結婚すると決めてらっしゃる。

鹿鳴館関係、調べると意外と睦まじいご夫妻が多く、ホッとするわ。

大山伯爵の連れ子さんが、『不如帰』のモデルとなり、

小説では、義母(現実には捨松様ってことになる)が薄情に描かれ、

誹謗中傷されることになられたというの、初めて知りました。

 

 

 

 

あくまで、結核離縁早逝されたということのみが「モデル」なのですが、

時代も違うし、ばか売れしたメロドラマですから、国中が信じてしまう

実際には家庭円満で、連れ子さんからも「ママちゃん」と呼ばれてらした。

小説とはいえ、お気の毒すぎるわ・・・徳富蘆花先生~。

公式なお詫びが、捨松様ご逝去ぎりぎりって遅いって!

 

大河ドラマ『いだてん』で、白石佳代子様がらしき人物演じられたようです。

 

それにしても、今、コロナの時代・・・

これほどの活躍をされた、大山捨松様のご逝去が、

スペイン風邪で、58歳でらしたということに、

やるせない想いを抱いてしまいます。

 

 

「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」

と下世話な質問を受けた捨松は、

「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、

二番目が私で、三番目がビーフステーキ。

ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」

(Wikipedia様より引用)

 

 

というほどのおしどり夫婦でらした大山伯爵が亡くなられて、

三年後を追われた・・・夫亡きあとのお一人での期間が、

短かったと思うことが救いでしょうか。