決定の問題
良い音楽と悪い音楽がすぐに見分けられるようなリストを作ることは,実際にはだれにもできません。というのは,さきにあげたあらゆる種類の音楽の中で,「完全に良い」,「完全に悪い」という印を押せるものはひとつもないからです。
頭と心を使い,すでに検討したような原則を導きとして,それぞれの音楽の価値を判別しなければなりません。あなたが選ぶ音楽によって他の人たちは,あなたがだいたいどういう人であるかを知ります。
ずっと昔ヨブは,『耳は説話をわきまえざらんや そのさまあたかも口の食物を味うがごとし』と言いました。
「耳は,言葉を確かめないだろうか。舌が食物を味わうのと同じように」。
(ヨブ 12:11)
ですから耳も音楽を聞きわけることができます。歌詞がなくても,どんなムードまたは精神をかきたてるように作られているか,どんな行動を促すかはたいていわかります。
シナイ山から降りてイスラエルの宿営に近づいたときにモーセが聞いた音楽の場合もそうでした。彼はヨシュアに言いました。『これは勝ちどきの声にあらず また敗北のさけび声にもあらず 我が聞くところのものは歌うたう声なり』。
その歌は熱狂的で,偶像崇拝的で不道徳な活動を反映しました。
『その後モーセは身を翻し,証の書き板二枚を手にして山を下った。それは,その両面に書き記した書き板であった。こちら側にも向こう側にも書き記してあった。そして,その書き板は神の作られたもの,その書は神の書かれたもので,その書き板の上に刻み込まれていた。その後ヨシュアは,叫びまわる民のざわめきを聞き,モーセに向かってこう言った。「宿営には戦闘のざわめき+があります」。しかし彼は言った,「力ある業について歌う声ではない。敗北について歌う声でもない。わたしに聞こえてくるのはほかの歌声だ」。そして宿営に近づいて,子牛と踊りとを見るや,モーセの怒りは燃え立ち,彼は直ちに書き板を自分の手から投げ,それを山のふもとでみじんに砕いた』。
(出エジプト 32:15~19)
「そしてモーセは,民が気ままに振る舞っているのを見た。それは,アロンが彼らを気ままに振る舞わせ,敵対する者たちの中にあって恥辱となることを行なわせたからであった」。
(出エジプト 32:25)
もっと最近の音楽のことを考えてみましょう。たとえば古典派音楽は一般に威厳があり,荘重な調べをもつものもあります。その多くはどちらかといえは人の思いに高尚な影響を与えるかもしれませんが,
一方,人間生活の不純なまたは利己的な面を取り上げたものや,それを賛美するものさえあります。多数の有名な古典派音楽の作曲家が不道徳な,放縦でさえある生活を送ったことをおぼえておくのはむだではありません。
彼らはだいたい『人間生活のより高尚な事がら』を理解するとされた聴衆のために作曲しましたが,歌詞のあるものにせよないものにせよ,彼らのゆがんだ見方や感情がその音楽に入り込むことはまず避けられなかったでしょう。
ですから,もし自分の思いと心を健康に保ちたいなら,いわゆる「純音楽」でさえまじめに考えすぎたり,文句なしに受け入れることはできません。
音楽スペクトルの古典派音楽とは反対の端にあるのはシンコペーションを用いたジャズとロック音楽です。この分野にでも旋律的で穏やかな曲があります。しかしほとんどは騒々しくて耳ざわりです。
音楽家自身が,ジャズとロックを,「ソフト」なものと,「ホット」で「ハード」な,または「激しい」ものとに区別しているのはそのためです。この音楽がどんな行動を促すかはわかるはずです。あなたの耳,思い,そして心はそれをあなたに告げるはずです。
ある音楽の歌詞または調子は非常にはっきりしていて,人びとはその音楽を聞くとある種の行動,あるいはある種の人びとをすぐに連想します。たとえば,聖書は「酔いどれの歌」や「遊女の歌」のことを述べています。
「町の門の所に座る人たちは私のうわさをし,酔っぱらいは私のことを歌にする」。
(詩編 69:12)
『その日,ティルスは70年間忘れられることになる。それは1人の王の生涯に等しい。70年の終わりに,ティルスは娼婦の歌にある通りになる。 「忘れられた娼婦よ,たて琴を持って町を巡れ。たて琴を巧みに奏で,多くの歌を歌え。人々に思い出してもらうために」』。
(イザヤ 23:15,16)
今日はどうでしょうか。
たとえば,ある音楽会または音楽祭で人びとが大騒ぎをし,気絶する少女や麻薬を使う者まで出,劇場が破壊されないよう警官隊が出動した,という記事を新聞で読んだなら,そこでどんな種類の音楽が演奏されたと思いますか。
若い人気歌手や音楽家が麻薬の量をすごして死んだという話を聞いたなら,彼らはどんな音楽を専門にしていたと思いますか。
「音楽の心理学」という本が述べているように,『単調で長い律動的な音はみな,種々の段階のこうこつ状態を生み出し』ます。多くのロック音楽は,鈍い,間断のない,重苦しい,震えるような,あるいは脈動的な音を特色とし,精神をまひさせるようなビートがあります。
その容赦ない,執ような強打は,相手の思いの中から他の考えを追い出してしまって,相手がこちらの望む通りのことをする気になるまで,同じことを執ように繰り返して話す人のようです。
一部の「超現代的な」クラシック音楽は,同様の効果をもつ奇妙な,そして多くの場合不協和な音を用いるのが専門です。「ハイ・フィデリティ・マガジン」は,コロンビア・レコードの,次のような区分上の見出しを引用しています。
「ニュー・ロックとニュー・クラシカルを理解するのに必要な感受性の種類は全く同じである。……こちらが断念して音楽に心を奪わせなければならない」。
しかし,そのようにして心を奪わせるのは安全ですか。ワールド・ブック・百科事典は,多くの人にとって「ロック音楽はひとつの明確な生き方を象徴するものである」と述べています。
あなたもそのことは百科事典に言われなくともご存じでしょうし,また若い人たちの多くが,ロックの歌詞は「自分たちの周囲の世界の現実や問題を描写している」と信じてロック音楽に引かれているということもご存じでしょう。
ロック音楽はおそらく他のどんな形式のポピュラー音楽よりも,おとなになること,世代の断絶,麻薬,性,公民権,反対,貧困,戦争その他これに類する,問題を取り上げていると言えるでしょう。
「よりよい世界についての若い人びとのいろいろな考えや,社会の不公正に対する若い人びとの不満」を表現しようとします。しかしロックはどんな影響をおよぼしますか。
立ちどまってご自分に尋ねてみてください。ロック音楽は(1950年代の初めに)はなやかに登場して以来約20年の間に(1974の記事),若い人びとのために何をなしたでしょうか。ロックの哲学は彼らに真の解決策をもたらしましたか。
ロックが伝えるおとずれは,明りょうな,一致した解決策を実際に提示しましたか。それとも,ある歌は暴力を提唱し,他の歌は反対のことを提唱して,世の宗教の教派のように混乱し,入り乱れていますか。
ロックの作曲家や演奏家の私生活は,彼ら自身が ― お金をもうけること以外の ― 生活の諸問題の解決策を発見したことを示していますか。ロックは何か新しいものを実際に提供しますか。
不品行,権威の軽視,責任をのがれること,麻薬の使用などは古い歴史,それも決して成功の歴史ではなく,おそかれ早かれ失敗に終わった歴史を持つものではありませんか。
そのような音楽が現実に焦点を当てたものであるというのであれば,なぜその多くが麻薬と関係があるのでしょうか。ある歌詞は麻薬常用者にしかわかりません。
ロックは,若い人びとが人生を理解するよう助けるよりもむしろ,責任を逃れることを求める子どもじみた傾向に興味を持たせるものではないでしょうか。
ですから,音楽を選ぶことは決してささいな問題ではありません。群衆に従うことによって他の人に決定をさせ,人気のあるもの,大衆にアピールするものを選ぶこともできれば,自分自身でよく考え,神のことば聖書に見られる不朽の,そして卓越した知恵を導きとして注意深く選ぶこともできます。
「経験のない者はすべての言葉を信じ,明敏な者は自分の歩みを考慮する」。
(箴言 14:15)
伝道の書・コヘレトの言葉 7章5節には,『賢き者の勧責を聴くは愚かなる者の歌詠を聴くにまさる』とあります。聖書のいう「愚かさ」は,知能的なおくれだけでなく,将来必ず問題を招く道を歩む道徳上の愚かさをも意味しています。したがって,あなたがどんな音楽を選ぶかは,あなたが「おもしろく時をすごす」ことだけに関心があるか,あるいは神の恵みによって永続する幸福な生活に関心があるかの問題です。
また,あなたの選択が他の人びとにも影響を及ぼすことを考えてください。歌詞のなかに,真実なことや正しいことと相いれないことばが含まれている音楽や,官能を刺激する,騒々しい曲の音楽を聞いても自分は影響は受けないと思うかもしれません。
しかしあなたは他の人にどんな影響を与える人ですか。使徒パウロと同じように感じますか。彼は,肉を食べるといった正当な事がらでも,もしそれを食べないことによって人のつまずきとなることが避けられるなら,肉を食べるのをやめる,と言いました。
「しかし,その選択の権利によって弱い人たちに過ちを犯させてしまうことがないよう,常に注意してください。もし,知識を持つあなたが偶像の神殿で食事をしているところを,誰か弱い人が見たなら,その人は大胆になって良心に逆らい,偶像に捧げられた食物を食べることになってしまわないでしょうか。あなたは知識によってその弱い人を破滅させることになってしまいます。あなたの兄弟であるその人のために,キリストが死んでくださったにもかかわらずです。そのようにして兄弟に対して罪を犯し,兄弟の弱い良心を傷つけるなら,皆さんはキリストに対して罪を犯していることになります。それで,食物によって私の兄弟に過ちを犯させることになってしまうなら,私はもう決して肉を食べません。私の兄弟に過ちを犯させないためです」。
(コリント第一 8:9~13)
「ですから,もう兄弟を批判することがないようにしましょう。同時に,過ちのもととなることを兄弟の前でしないことを決意しましょう」。
「肉を食べることやぶどう酒を飲むことなど,兄弟に過ちを犯させるような事柄は何も行わないのがよいでしょう」。
「各自が隣人を喜ばせるようにしましょう。その人のためになることをし,その人を力づけるのです」。
(ローマ 14:13,21; 15:2)
あなたが選ぶ音楽は,あなたがどんな人であることを示しますか。
音楽的才能の与え主,神(エホバ,ヤハウェ)の真の崇拝の一部となっている歌もあります。そのような歌だけを歌ったり聞いたりしなさいと要求されていないのは事実です。
しかし,神への賛美を歌う人びとだけが地上に住む時代が近づきつつあることを,わたしたちは常におぼえている必要があります。
「若者よ,おとめよ,老人よ,幼子よ。主(神)の御名を賛美せよ。主(神)の御名はひとり高く,威光は天地に満ちている」。
(詩編 148:12,13)
「ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。息あるものはこぞって主(神)を賛美せよ。ハレルヤ」。
(詩編 150:1~6)
ですから,あなたの思いや心をその目標から引き離すことのない音楽を賢明に選んでください。