「死んだ者」を裁く
聖書によれば,裁きの日の間に死者が「立ち上がり」ます。
「ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に復活し,この世代を断罪します。ニネベの人々はヨナの伝道によって悔い改めたからです。しかし見なさい,ヨナを上回る者がここにいます」。
(マタイ 12:41)
イエスは次のように述べました。
「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」。
(ヨハネ 5:28,29)
死者の体を離れた魂のことを言っているのではありません。死んだ人には全く意識がなく,死後に魂が生き残ることはありません。
「生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる」。
(コヘレトの言葉・伝道の書 9:5)
『イエスはこれらのことを述べた後,さらにこう言った。「友のラザロは眠っていますが,私は起こしに行きます」。弟子たちは言った。「主よ,眠っているのであれば,良くなるでしょう」。イエスは実際にはラザロの死について話していたが,弟子たちは,眠って休んでいることについて話していると思った。 それでイエスははっきり言った。「ラザロは死にました」』。
(ヨハネ 11:11~14)
『イエスは言った。「あなたの兄弟は生き返ります」。マルタは言った。「終わりの日の復活の時に彼が生き返ることは知っています」』。
(ヨハネ 11:23,24)
イエスは,死の眠りについている人たちを地上によみがえらせるのです。
復活する人は,死ぬ前の行ないに基づいて裁かれるのでしょうか。そうではありません。
聖書は,「死んだ者は自分の罪から放免されている」と教えています。
(ローマ 6:7)
ですから,地上に復活する人は,この体制の終わりを生き残る人と同じように,裁きの日の間の「行ないにしたがって」裁かれます。
「さらに見ると,死んだ人々が,大きな者も小さな者も,王座の前に立っており,数々の巻物が開かれた。別の巻物,すなわち命の巻物も開かれた。死んだ人々は,数々の巻物に書かれている事柄に基づき,各自の行いに応じて裁かれた。海はその中の死者を出し,死と墓もその中の死者を出し,その人々は各自の行いに応じて裁かれた」。
(黙示録・啓示 20:12,13)
その人の行動の最終的な結果次第で,永遠の命に至る復活ともなれば,滅びに至る復活ともなります。
よみがえらされた人の多くは,神について,また命を得るための神のご要求について,初めて知ることになります。
その人たちには,神のご意志と調和した生活を送って地上での永遠の命を受けるという機会が差し伸べられるのです。