11月12日、大阪のフェスティバルホールで行われたシャルル・デュトワ指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団演奏の《ロメオとジュリエット》(抜粋)と《春の祭典》を聴いてきました。
え~、前もってお断りしておきますが、私はたいしたことは書けません。なにしろ都会のホールで聴く本格的なクラシック公演は20年振り(!)なんですから。20年前に聴いたのも、覚えていることといったら、会場が大阪のシンフォニーホールで、演奏されたのが弦楽による室内楽だったことぐらいで、曲目がなんだったかは完全に忘れてしまっています(-_-;) しかも私は“ド”のつくクラシック音痴で、家にあるのは「春の祭典」が2枚、「火の鳥」が1枚のほか、フランスの近代物少々と息子のために買い与えたベートーヴェンの「月光」ぐらいという情けなさです。
え~、前もってお断りしておきますが、私はたいしたことは書けません。なにしろ都会のホールで聴く本格的なクラシック公演は20年振り(!)なんですから。20年前に聴いたのも、覚えていることといったら、会場が大阪のシンフォニーホールで、演奏されたのが弦楽による室内楽だったことぐらいで、曲目がなんだったかは完全に忘れてしまっています(-_-;) しかも私は“ド”のつくクラシック音痴で、家にあるのは「春の祭典」が2枚、「火の鳥」が1枚のほか、フランスの近代物少々と息子のために買い与えたベートーヴェンの「月光」ぐらいという情けなさです。
それなのに今回、この公演へ行ったのは、クラシック音楽のなかで私が唯一大好きなストラヴィンスキーの「春の祭典」を一度生で聴いてみたかったから。(厳密にいうと「春の祭典」は古典ではなくて近代~現代音楽に分類されるのでしょうね)
私が「春の祭典」を大好きな理由は、一言でいうと刺激的だからです。強烈なリズム、変拍子、不協和音、大胆かつ精緻なスコアによって、不安、神秘、恐怖、官能の美を余すところなく表現している。そういった非日常を音楽で体験できて、これほどまでに面白くかつ芸術的でしかも分かりやすい音楽がこのジャンルにおいて他にあるでしょうか。
「春の祭典」を初めて聴いたのは私が高1の頃だったと思います。ピエール・ブーレーズの指揮とクリーブランド管弦楽団の演奏によるもので、たまたまつけていたNHKのFMで全曲を通して聴くことが出来ました。のちに同じNHK・FMの別の番組で「春の祭典」の一部分をいろんな指揮者と演奏者で聴き比べをするという企画を耳にする機会もありましたが、私にはブーレーズ指揮のクリーブランド管弦楽団が最高に思えました。当時、ツェペリン、ザッパ、イエス、クリムゾンなどなどを聴いていた私の心を奪った「春の祭典」の印象は強烈で、ロックが生まれるずっと以前に、実はこんなに凄い音楽があったんだなぁと感動したのを覚えています(ずいぶんあとになって、ザッパが少年の頃、ストラヴィンスキーなどの現代音楽に心酔していたことを知って納得)。指揮者ピエール・ブーレーズとクリーブランド管弦楽団の名前はしっかりと私の脳内にインプットされたものの、実際にそのアルバムを買ったのはずいぶんあとになってからのことです。
「春の祭典」を初めて聴いたのは私が高1の頃だったと思います。ピエール・ブーレーズの指揮とクリーブランド管弦楽団の演奏によるもので、たまたまつけていたNHKのFMで全曲を通して聴くことが出来ました。のちに同じNHK・FMの別の番組で「春の祭典」の一部分をいろんな指揮者と演奏者で聴き比べをするという企画を耳にする機会もありましたが、私にはブーレーズ指揮のクリーブランド管弦楽団が最高に思えました。当時、ツェペリン、ザッパ、イエス、クリムゾンなどなどを聴いていた私の心を奪った「春の祭典」の印象は強烈で、ロックが生まれるずっと以前に、実はこんなに凄い音楽があったんだなぁと感動したのを覚えています(ずいぶんあとになって、ザッパが少年の頃、ストラヴィンスキーなどの現代音楽に心酔していたことを知って納得)。指揮者ピエール・ブーレーズとクリーブランド管弦楽団の名前はしっかりと私の脳内にインプットされたものの、実際にそのアルバムを買ったのはずいぶんあとになってからのことです。
さて第一部の《ロメオとジュリエット》の演奏が始まってまず思ったのは、弦がもの凄く粘っこく響いているということ。これは、私が普段ジャズばかり聴いているせいにちがいありません。つぎに感じたのが、楽器(特にバイオリン属)の音が目に見えるということです。
普段は家のオーディオ装置でジャズなどを聴き、たまにはライヴにも出かけたりしますが、ジャズですと特別な場合以外はほとんどがPAを通した音を聴く訳ですから、場合によってはPA最悪で、「これやったら家のオーディオでCD聴いてるほうがマシやん。」というようなこともたまにあります。一方、クラシックの公演では当然PAがありませんので、今回は演奏が始まったとたんに、楽器から発せられてダイレクトに耳に届く生音を強く意識することとなりました。
たとえば、ヴィオラがハーモニーを奏で始めると、ちゃんとヴィオラ奏者達のいるその場所に倍音をたっぷり含んだ曇ような音のかたまりが出来る。チェロが演奏し始めるとチェロ奏者達のいる場所に音の曇が出来、それらはデクレッシェンドとともに消えていく。あちこちのパートで、音が生まれてはだんだん大きく雲のようなかたまりとなり、それがしだいに小さくなって消えていく様子がまるで映像のようにこの目で見える気がして、考えてみれば当たり前のことなのかもしれませんが「あ~、これが生音というものなのだな~!」と音楽の内容とは関係のない妙なところで感心してしまいました。このように“音”が目に見えるという感覚はおそらく今回が初めての経験だったので、ちょっとびっくりでした。
肝心の演奏ですが、デュトワの指揮によるチェコ・フィルの演奏は非常に洗練されていて、そのうえ表現力も素晴らしいと感じました。途中、感動で涙出そうになりましたもん。うまく言葉で表現できないのが残念ですが、とても満足しました。
さて、今回のお目当てである第二部の《春の祭典》は素晴らしかったです。デュトワの指揮は、ここでもやはり非常に洗練された演奏を生み出しているという印象で、その点ではブーレーズの指揮と共通するところがあるのではと思いました。
おそらく難曲の部類に入ると思われるこの曲を、100人もの奏者が心をひとつにして演奏し、表現し、聴衆に伝えるということは考えてみれば大変なことです。この曲で、あっさりと、しかも洗練された演奏をするというのは、実は凄いことなのではないか。お手本のような演奏というと語弊があるかもしれませんが、「何も足さない。何も引かない。」という昔あったウィスキーのTVコマーシャルの惹句を良い意味に解釈するならば、デュトワとチェコ・フィルによるそういった演奏は、《春の祭典》を初めてコンサート会場で聴く私にとっては良かったのではないかと思います。
一方で、ワレリー・ギルギエフ指揮、キーロフ歌劇場管弦楽団演奏による濃~い原始性や荒々しいまでの野性味をも表現した《春の祭典》というのも私はけっこう気に入っているのですけれどね。機会があれば、是非ワレリー・ギルギエフ指揮の演奏もコンサート会場で聴いてみたいものです。
*余談ですが、今回の公演で気になったことをひとつ。それは客席の雑音です。ジャズなどのライヴではそうそう気にならない客席のたてる様々な音も、ピアニッシッシモからフォルティッシッシモまでのダイナミクスを行き来するクラシックとなると話は別です。斜め後方に座っていた人の膝に乗せられていたと思われる本だかなんだかが入ったプラスティックバッグのバリバリ、ガサガサいう音は非常に耳障りでした。そういうのはあらかじめ座席の下に置いておくか、いっそのことクロークに預けておいてから着席して欲しいと思ってしまいました。
第一部で「タイボルトの死」が終わったとたん、2、3人の拍手のフライングがあったのはちょっと残念。演奏が終わって残響が消えないうちの拍手もどうにかならんものかと思うのですが、まぁ、あんまりうるさいことをいうといけませんね。ハイ(;^_^A
指揮:シャルル・デュトワ
演奏:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
第一部 プロコフィエフ バレエ《ロメオとジュリエット》より「モンターギュ家とキャピュレット家」「少女ジュリエット」「マドリガル」「メヌエット」「仮面」「ロメオとジュリエット」「タイボルトの死」「ジュリエットの墓の前のロメオ」
第二部 ストラヴィンスキー バレエ《春の祭典》
第一部で「タイボルトの死」が終わったとたん、2、3人の拍手のフライングがあったのはちょっと残念。演奏が終わって残響が消えないうちの拍手もどうにかならんものかと思うのですが、まぁ、あんまりうるさいことをいうといけませんね。ハイ(;^_^A
指揮:シャルル・デュトワ
演奏:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
第一部 プロコフィエフ バレエ《ロメオとジュリエット》より「モンターギュ家とキャピュレット家」「少女ジュリエット」「マドリガル」「メヌエット」「仮面」「ロメオとジュリエット」「タイボルトの死」「ジュリエットの墓の前のロメオ」
第二部 ストラヴィンスキー バレエ《春の祭典》
アンコール チャイコフスキー バレエ《白鳥の湖》
日時:2005年11月12日(土) 午後5時開演
会場:大阪 フェスティバルホール
日時:2005年11月12日(土) 午後5時開演
会場:大阪 フェスティバルホール