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囲炉裏端のブログ

伊豆・松崎町は、観光資源に恵まれているところです。町への思いを具現化するため、互いに情報交換をよくし、住みよい町づくりを目指します。



昨日、わが家が所有する山林近くに砂防施設ができることから現地立ち会いした。お金にならないものは見向きもされず荒れ放題である。


わずかに造林された桧林は残るが、竹が横倒しとなり足を踏み込む余地もない。それでも県土木事務所の方や測量関係者が事前に下見してあるので、通路はかろうじて確保されている。倒木をくぐり、またぎながら隣地境を確かめていく。


山田、畑に利用されたいた個所もある。1メートルに満たない急坂の山道、ここを耕作、荷を負いながら上り下りする昔人を偲ぶ。生きるとは命がけなんだと。

やがて雨が強くなる。道無き現場なのでたちまちぬかるみ、滑りやすくなる。県


職の方とは道々、気軽な世間話を交わす。多くの方、別地域の方と接しているためだろう、会話がスムーズに弾むのだ。


それに引き替え町職員は、世間知らずといおうか会話がぎこちない。ただ事務的となり、言葉のキャッチボールができないのである。子供ときから教育一辺倒、世間慣れしていないのが原因であろう。これもマニュアル至上主義の現代風潮の一端ではある。


しがってこちらに良いアイデアがあっても授けることができない。たやすく声が掛け合う信頼関係が構築されれば、互いに手助け、仕事は数倍効率化するだろう。心の通じ合いこそ「安心安全・幸福社会」の基礎なのである。


県職の方は、老人の私を労るように測量ポールを貸してくださり、手をさしのべてくれる。それに感謝すると、彼は「安全確保のための砂防工事、その測量中怪我人は出せませんね」という。


「山相」の厳しさを見てがっかりしたのだが、彼らの思いやりに接し、それが救いとなった1時間であった。砂防がされても村人がいなくなっては元も子もないとも思いながら。



ふだん私のように評論家めいた口幅ったい男も、昨日は赤恥かくような出来事
に出合った。町の恩人である依田善六の墓を探し出せなかったのである。


ここにあるという概略は知っていた。しかしどの墓石なのか解らないのであ
る。自称であっても郷土史家の身、その足で隣の浄泉寺の住職に聞く。だがこ
の依田家一族の墓域は帰一寺管轄だという。これさえも知らなかったのであ
る。


実は、この墓所探しも7日「依田勉三没後90年:オープン授業」の講師をさ
れるY氏が「松崎へ着いたら勉三などの晩成社ゆかりの人物の墓参をしたい」
との申し出があったことに始まる。

せっかく十勝から訪れてくれるY氏である。氏の知りたい限りを尽くすのが地
元人間の役目「おもてなし」である。そこで事前に知ろうと探しているのであ
る。


それにしてもかつて隆盛を極めた依田一族である。秋の彼岸をわずか過ぎたばかりなのに、荒れ放題とまでいかなくても哀れな墓相である。


これも何か自分にも責任があるような気がしてくる。歴史を調べる段階で墓参
から始めればこのようにならなかったはずだと。


まだ時間はある。聞き出すことも可能だろう。あるいは子孫の方がどこかへ移
動したとも考えられる。それにしても私の頭脳の曖昧さにはあきれる。職業で
はない、歳のせいばかりには出来まい。氏を接待する側として許されないこと
である。


ぜひ皆さんも、関係ないようなことでも「自分のこと」に置き換えてほしい。
そうしなければ歴史・文化は継承されないのである。





今年の「長八まつり」で、もっとも注目を集めたものは、松崎小低学年が踊った「松崎の長八さん」であろう。シンポジウムに足を運ばなかった人も、子や孫が踊るとあって人集まりがするのである。


私は、この踊りが始まる前、作詞者・作曲者、この歌がどうして生まれたかのコメントがあれば、「長八まつり」に深みを与えられたように思う。


なんと作曲者は、テレビ静岡記者:佐藤紳雄(フェイスブック友達)氏の母:はま先生である。作詞者はプロ:成瀬左千夫氏、その橋渡しが楽曲「伊豆の長八」の作曲者:稲葉義州先生(作詞:成瀬左千夫)、わが恩師なのである。


稲葉先生は、旧姓少林(こばやし)南伊豆町生まれ、山口に婿入りされ、松崎中学校など音楽教師をされた。私との関係は、今日(30日)の伊豆新聞に載るので読んでほしい。


残念だったのは、「伊豆の長八」のテープを流してもらえなかったことである。私はこれを機に稲葉先生の長八に対する思い、愛郷の念を伝えるべく、関係者にお配りしていたのである。


ちなみに「松崎の長八さん」の歌詞を添付する。


「松崎の長八さん」 作詞:成瀬左千夫 作曲:佐藤はま


鏝が走れば 漆喰までも/壁の芸術 絵と変わる/ああ「長八さん」「長八さん」/呼べば応えて くれそうな/伊豆のお里に 長八さん

腕は神技 碧(あお)空たかく/飛んではばたく 千羽鶴/ああ「長八さん」「長八さん」/その名末代 松崎に/花と香らす 長八さん

虹の七色 見渡すように/並ぶ天女が 笙(しょう)を吹く/ああ「長八さん」「長八さん」/今は昔を ふりかえる/鏝の名人 長八さん。


なお、このテープは歌謡曲「伊豆の長八」の付録として配られたもので、別に作詞成瀬左千夫・作曲稲葉久仁「九月十五日の歌」(敬老の日の歌)と、作詞入江早代子・作曲稲葉久仁「輪になろう」がある。この久仁(くに)は、稲葉先生のペンネームである。思えば熱い先生であった。この熱意が高額の出費をされ、楽曲を世に送り出したのである。












私などの発信は、何につけ「駄法螺」と解釈され、浸透することは少ない。肩書きのない一匹狼的発言だからであろう。


私の取材は「孤独的」である。大勢の中だと主導権を他のひとにゆだね、それに添った行動をしてしまう。いうなら雰囲気に飲まれる「小心者」なのである。

26日の「長八シンポジウム」にしても、小雨の中を自転車で会場へ向かう。息子の車も空いているのだし、友人に頼むことも可能であったのに。


そして誰もいない(カメラと照明はいたが)2階席をとる。階下をみると多くの知人たちがいる。ひとりだから隣席の心に惑わされることなく講師の言葉が耳に入る。

私は、かねてから「春城院を長八のメッカに」を提唱していた。だが、先にも書いたが誰も聞き耳を立てようとはしなかった。でも講師の日比野先生は、「立派な作品」との太鼓判を押してくださった。有り難く思う。


これにより伊那下神社~浄感寺(記念館)~美術館~春城院~重文岩科学校の「長八:動線」が描かれるからである。より多くのふくよかな情報が漂う「もてなしの町」としたいのである。











9月26日午後1時半より「伊豆の長八生誕200年記念:長八シンポジウム」が、文化ホールで開催された。


私は、これ前ご近所の法要会食に出席、どう時間を操ろうかと苦慮していた。小雨が降ったり止んだり、自転車で出かけられるか、誰かにお願いするかと…。でも「6の日」の買い物もあり、自分の趣味に他人の手を煩わせることが出来ない質なので雨合羽を積み込んで出かけた。


開演時間には間に合わなかったが、運良く日比野秀男先生が基調講演に入ったばかり、二階席に腰をおろす。平凡社刊「伊豆の長八」、「伊豆の長八と駿府の鶴堂」の著者である。私としては先生あってこその「生誕200年」だと思うからである。


生涯をかける研究家の言葉は重い。長八の山岡鉄舟などとの人間関係、年代による作風、結城素明、高村光雲による長八研究の発端、長八の作品と向き合う姿勢等など。これらを総括して先生は「幕末・明治の空前絶後の鏝絵師:伊豆の長八」と、標題していたのである。


私にとっての「目から鱗」は、浄感寺の「雲龍」なる天井画がそのように制作されたかということである。墨を含ませた筆を天井に向かって使うことが出来るのか、これを床で書いたとしてもそれをどのように天井に貼るのかと、常に私の頭は空転していた。先生は先年、この修復に関わっており、天井裏を覗かれていたのである。その構造写真が示され、下で描いたものを天井板に貼ってつり上げたことを解明してくれた。


次に「事例発表『鏝絵を活かしたまちづくり』パネルディスカッション」となる。近藤二郎氏が地元・松崎町、渡部孝幸氏が島根県太田市、田村京子氏が富山県射水市、平山育男氏が新潟県長岡市の事例をパネルで示される。古い伝統・町並みを活かし、新しいまち作りをされていることを感じる。この幾つかをわが町に使わせてもらいたいと思う。


それにしてもコーディネーター藤田洋三氏(大分県出身・写真家)の見識の高さにも驚かされる。なまこ壁の防火・健康性をアピールしてまち作りである。そしてこの「柔らか風情」による人の交流である。


また、最後の締めくくりとして副町長・町長の言葉にも「覚悟」が示されていた。大沢依田住宅(大沢温泉ホテル)問題もNPOなど後援して「再生」に協力すると。


だがだがである。会場は空席が目立つほど閑散としていた。長八に対する好奇心、まち作りをどのようにすればよいのか、真剣に考える人が乏しいということだ。なお、日左連後援をとりながら、その影響が感じられない会場の雰囲気であった。



大川・大堰の水が切られ、そろそろ稲刈りを始めようと田圃の見回りにいく。稲穂は稔っているが、半分が泥田状態である。これでは機械が入れないと、ぬかるむ個所の稲を手で刈る。そして畦のまわりに溝を掘って排水につとめる。


しかし周囲が休耕田となると、草の根が張り込んで土嵩が増し、思うほどに排水できない。


ふと水路内、田圃の中程をみるとイノシシの痕跡が見える。ただ稔ったから倒伏したのだと思っていたのだが、猪がここまで侵入したかと思うと愕然となる。

今年の田植えも死亡、高齢、病気で3軒が休耕した。休耕したといえば聞こえはよいが「放棄」したようなものだ。来年も「休耕予告」が1軒、既に休耕している家も4軒有り、残り5軒という状況にある。


田舎社会は、集落の「協働」によって成り立つといってよい。これでは水路管理ができなくなり、耕地は荒れ放題となろう。そして住む人はいなくなり、荒野と化すだろう。


「子供が幸せになるのなら、我が身を犠牲に」の親心の終末である。一家・一族、地域、国家の繁栄を願って営々として築き上げた先祖たち、折しも彼岸、どう思われているのだろうか。若者は、給料がもらえれば「米は買えばよい」と安易に考える。


私もこの状態から完全に意欲を失う。体力が続く限り耕作をするつもりであったが、自分ひとり意欲を燃やしたところでどうなるというものでない。「家族・村社会の崩壊」が足音高く近づいていることを感じるのである。







わが町が、TBS系ドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケ地として脚光を浴びたのは10年前のことである。

それにしてもこの町の「鄙び」がフィットしたのだろうか、綾瀬はるか人気もすさまじく、訪れるひとは後を絶たなかった。


私などこのとき「ふるさとガイド」をしていたので、現地案内、それによるネット友情がいまでも続いている。公開禁止だったのでロケ現場は発信できなかったが、最終ロケ:赤灯台・防潮堤の夕日は素晴らしかった。


最近、知り合った埼玉県在住・松崎にセカンドハウスを持つ内藤氏から「松崎:亜紀の夕日:情報を教えて」というポスターがネットで送られきた。


「松崎港から真西に沈む太陽が春・秋のお彼岸前後だけ洞穴から差し込むのです。詳細な日時を見つけて下さい」


「亜紀の死んだことを信じたくなくて松崎の港を走る朔太郎:亜紀が大好きだった世界で一番青い空からのメッセージでしょうか」と、内藤氏のコピーが素晴らしい。

私は、自動車のころは田子であろうと夕日撮影に頻繁に通った。しかし今は自転車、ようやくに内藤氏との約束を果たそうと、昨日(彼岸の中日)に松崎港へ行った。


私のフェースブックには既にポスターは貼ってあり、少なくても数人はカメラを構えているだろうと思った。しかし、私だけでそれは寂しいものだった。


少し雲はあったものの洞穴に入る夕日、朔太郎の再会への悲願、亜紀の夕日がジーンとわが心にしみ込む。ちなみに時刻は、17:50であった。




以前、結婚の条件として「高学歴、高所得・高身長」があげられた。高身長は別として、前2条件は「社会的地位」を得て「肉体労働」を嫌うということである。


だが私に言わせれば、それは「不幸」の始まりで、人生がなんであるかを知らずして終わることに等しく、また人類滅亡のシナリオとなる。


頭脳も身体の一部である以上、血流なくして存在しない。だから五感を通じて第六感が生じ、自分なりの「幸福感」が得られるものなのだ。

それを体を動かさず、他人情報によって「損得」だけで割り切り、その未来における「結末」まで想像できなくなるのである。


私など「歴史」を勉強しているが、ただ「記述」のみを信じるのでなく、置かれた立場とか、その五感による「判断」をも加味、「動く人間」として想像するのである。すると「体験・感動」が基礎となって「熱情」となり、歴史的事象を成し遂げていることが解る。


いきなり「地位」が与えられたら、人がどんなものかを知らずして終わることになるだろう。また「富」を得たところで、絶えず「不安感」がつきまとうだろう。

「1パーセントの人間が、48パーセントの富を占めている」という。これが「平等・平和」を念じてきた人類の現状である。


自らの体を動かしての「感覚」、すると「相互扶助」の心が生じる。「協働・共生」の社会を創りたいものである。

私たちの集落は、70歳以上、近くの公民館によばれての「敬老の日」の行事が行われる。16人が該当、その半数8人の出席となる。以前は該当者26人、出席者も多く、また、子供会の演芸披露などあり、心が癒やされたものである。だが、小中学生皆無となり、時代が変わったことをまず認識させられる。


ず天神前で記念撮影をする。親たちの時には招待する側で、お年寄りに敬愛の念で眺めた。だが、自分は80歳近い老人になってみて、ほんとうに「敬老」に価するかと思うのである


確かに一生懸命生きたことは認める。しかし先ほども述べたが少子化、限界集落となった責任である。営々と先祖が積み上げた財産・精神がここで終末を迎えることの悲哀である。時代の趨勢「やむなし」でなく、継続型としえなかったことは「残念」に価する。


私はここへ出る前、大根の種まきのため小型耕耘機を1時間弱動かしている。田圃にしても私が動けなくなれば荒廃するしかない。草に覆われた集落、獣が我が物顔に闊歩するのを想像すると、まさに我が身は「罪人」となる。


これはさておき、同年代の人と顔を合わせることは有り難いことである。来し方を懐かしみ、悩みの少しを分かち慰め、日頃の疑問を素直に聞ける。今年の私の収穫は、野菜の防虫についてであった。このようなノウハウを教わることは明日へとつながる。


なお、今年の良かったのは、町長のメッセージである。もちろん代読だが、外に出歩くことの奨励、沼津方面への通院の便宜、長八祭りへの関心喚起など、心に訴えるものがあった。


隣席の方の酒のすすめで酔いが回り、帰宅しても書斎の片付け、郵便局へも行けず、夕刻まで寝そべっていた。



自己形成に最高のウエイトを占めるのが「金銭感覚」だと言いたい。この経済哲学を失ったことが「家族・地方力」を失わせた原因だと考える。


われわれ庶民は、政治家・学者・メディアの発言を鵜呑みにする傾向にある。電波・視覚情報によって迷路に突入、右往左往させられる。世論調査・ビックデータにしても作為的であることを知らずして。


個々・地域によって受け止め方は違って当然なのだ。さもこれに乗り遅れると「非人間」だと言わんばかりに扱われるのが怖いのである。


私は、貧乏の家庭に生まれたことに今にして「幸せ」を思う。「積み上げ」という感覚により「自身」構築されたのである。これがなければ、私など卑屈な「世捨て人」となっていたことだろう。


まず自分の置かれた立場を認識、そこから「己の道」を探し出すことである。就職時は職人見習いとして小遣い程度しか与えられなかった。それでも親に「仕送り(送金)」ができないと詫びる。


まず「金利」に目覚める。年利1割の社債など証券会社で購入する。また、先輩の「社会勉強には株式投資」との言葉に、生活費には絶対手をつけないことを誓い、与えられた小遣いで「株式投資」を始める。電話勧誘にはのらず、「難平(なんぴん)方式」である。


贅沢をしない代わりに金銭的には苦労のない人生を過ごせたと思う。小沢一仙・依田勉三をライフワークとする「人間研究」もできた。有り難いのは一応の「健康」を保てたということだ。これも「ケチ」といわれるほどの性格が、暴飲暴食をしない「金銭感覚」の効能なのだと思う。