私は、もともとが劣等感からくる恐怖心があり、心に小さな小窓を開けて世間を見る「文学少年」であった。その他人に対する畏敬の念が郷土・偉人研究へと進む。
この「畏敬の念」があってこそ作品に深度と広角性が増すのだと思う。特に私の「中卒」は、社会の裏側まで見透かす才能へと発展する。
これを言うと、世間は「自惚れ」との評価をくだすが、この「見透かす」能力は、体験からくるものでオンリーワンの世界である。
このようにして己、周囲、町、国家と見ていくと人が気づかないことが見えてくるのである。
我々は肩書きのある人間に弱い。それがメディアによって広域に流れると、さも自分が常識外、組織外に置かれているようで深層でパニック状態におちいるのである。すると落ちこぼれまいと必至に駆け出すのである。
だが私に言わせれば、世界・日本・各地域、個々の人間に通用する言葉などないのが当然である。親が子に対してするように思いやりのない言葉は不用なものなのである。
そこでなぜ地方が疲弊するのかを思う。狭い世間なので互いが解りすぎ、遠慮という心理が生じるからだろう。すぐに「彼奴は子供の頃は」となり、親にさかのぼってまで批判されるのだ。
これでは自由に自分を表現する人間が出ようもない。他人の眼を気にしてウジウジするばかり。これでは「地域起こし」など出来ようもない。
ひとそれぞれ「小宇宙」を持つ。個々に素晴らしい才能を持ち合わせているのである。
生まれてすぐ優秀な保育機関へ預けるのではなく、地域の人、生活のとけ込み「人も土地の一つ」ぐらいに思うことだと思う。そこに自信がうまれ、逞しさが育つだろう。
すればそこにそなわった産物の発見、人の心が分かり合えるであろう。地方創生は余所に負けまいとする前に、足下・自分を作ることから始めたい。「畏敬」の念を忘れずに。