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色塾BLOG-

日々のビジネス・社会に対する思いや、起業に向けた考え、読書に対する感想など様々な話題を、海外で働くマーケターとしての第3者の視点から展開。

久々に何のネタがあるというわけではないのだが、ブログを更新しようという気になったので書いてみます。

ブログって面白いものだなあと思うのは、

・自分が好調のときはいろいろ書くことがあって、たぶん頭の中の新陳代謝が回っているから、PDCAのサイクルを普段の生活でどんどんポジティブに廻せていて、だから自分の頭を整理したいとか、発信したいと思ったりすることが多く、結果として更新頻度が増える。

・逆に不調なときって、いろいろ考えることが交通渋滞を起こしていて、自分なりにどうしたらいいかわからないから、PlanしてはDoまで落ちなくて、なんかもやもやしているから外に出すだけのパワーがでない。

そんなサイクルをブログは反映してくれると思っています。

だからこそ、詰まっているときには、何か特に書きたいこともないのに、ブログに今思っていることを書きつけることで、いろんな絡まりを整理し、次に進むきっかけになってくれるはずだと妄信して書く。そんなときだってあります。

「なんでそんなブログ書き続けるの?」って言われることもあり、
前のブログも含めると2004年11月16日から、7年と3カ月も書き続けている訳ですが、
それもこれも、「何かを書く」「思いをアウトプットする」という行為が自分を成長させてくれる1つのエンジンになっていると自分で確信しているからだと思います。

それ以外に、特に書き続ける理由なんて探しても見当たりません♪

そもそも、表現をするとか、モノを作るっていうのが自分自身好きなんです。
そして、何か表現を通じて人との関わりを持つっていうことが好きです。

マーケティングっていう職業は、やっぱり自分にとっては非常に合った職業だったなと今でも思います。愛するブランドを育て、それによって喜んでくれる消費者の笑顔がある。

僕にとってはそのサイクルが快感なんです。

だから、「次は驚かせてやろう!」とか、「もっといいものつくってやろう!」とか。
そういうわんぱくな好奇心の中からアイデアを出して、実行していく。

そういうこと考えているだけでヨダレが出てきそうです。笑

ホント、他愛もない話をしてしまい、世間話をしてしまって収集がつかなくなってしまいましたが、今はそんな気分なんだなこの人は!ということで容赦してください。

やっぱり、「仕事は好きなことをする」っていうのも大事だけど、「それによって喜んでくれる人がいることをどれだけ信じられるかどうか」な気もするんですよね。今やっていることが、誰の役にもたっていないと思ってしまっていたら、もしくは、あんま役にたってないと思われてたりしたらもうそれ以上どうこうしようってならないわけですよ。

僕は几帳面な性格じゃありませんから、綺麗なものとか完璧なものとか作ろうっていうモチベーションも恥ずかしいながら働きにくい人種ですし。

ただ、「おっ!」っていう驚きがあったり、「それいいね!」っていう反応があったり、そういう中でイメージを膨らませて実際に作っていくっていうそのプロセスが快感なんですよね。

そういうアドレナリンを出し続けてれば結果って勝手についてくる。逆にそういうアドレナリンがでないと厳しいです。

そういうのって、いたずらっこの心境にも似てるのかもしれません。
こう驚かせてやろうとしたらこういう反応が返ってきた!その連鎖が快感を生み、どんどんいいものになっていく。

僕は、人対人でのコミュニケーションが得意という人間ではありませんから、そういう不器用なコミュニケーションしかできないんです。

「どや!?」といって、「いいね!」って言われたり、「あかん」ていわれてチクショーって思う。
そういう原始的なコミュニケーションしかできない。だから、「どや!?」を磨き続けるしかないんです。笑

世の中に驚きを産み続けたい。
旭化成の「イヒ!」という言葉が好きです。

少なくとも僕の仕事のモチベーションってそんなところにあるんだろうなあと思います。

って勝手に纏めてしまいました。

他愛もないブログで恐縮でした。笑 ガハハ。
ダルビッシュ選手の記者会見がニュースで流れていて、自信のある人だなと尊敬の眼差しで見つめていたら、会見終了の最後の発言に心を打たれた。

それは、いつもならたぶんサラーっとよく聞き流している言葉だ。

『あとは、自分のベストを尽くすだけですから。』

自分のベストを尽くす『だけ』というが、ベストを尽くすことは実際にはなかなかできることじゃない。

今の自分は胸を張って『ベストを尽くしてます』と宣言できるか!?

この姿勢のほんの少しの毎日の積み重ねが、ダルビッシュのような人間と自分の差なのだと感じた。

自分はベストを尽くせたのか?
この質問に毎日『yes』と言えるかどうかの違いはとてつもなく大きい。。

ベスト尽くして、今を生きていこう!
と自分に話しかけてみた週末でした。



2012年という新たな年を迎えた。

今の今まで、様々なことが頭を巡り、なんとも整理がつかず、この複雑に絡みすぎた心境の全てを言葉にしてしまうことに対して大きな躊躇を感じていた。今この瞬間もそうだ。

でも、時間だけは待ってくれない。思い悩んでいる間にも時は過ぎ、無言のプレッシャーを与える。どうしても居たたまれなくなった僕は、次の行動を起こすためにこうやって「言葉」にすることに対峙せざるを得なくなっているというのが本心だ。

2010年4月にシンガポールから帰国し、2011年4月にエモーチオ設立、そして、もう2012年1月を迎えた。約1年半という月日が過ぎた。

この1年半前、自分がシンガポール・大企業から飛び出したきっかけは、「何だか分からないけど、衝動的に自分を変えなければならない」という思いからだった。サラリーマンをしながら、「良い給料を得て」、「昇進をどんどんして」、「立場を得て部下を持ち」、「グローバルでも通用する」などというレッテルをどんどん拾い集め、自分の心を守るようにレッテルで固めて防御し、いつの間にか自分が気付かないところで「偉そう」になっていき、その割には自分が「使命」だと感じることに着手をせず、最終的にどこか心を燃やせないでいることに残りの人生をかけていくことにどうにもこうにも自分自身が納得できないという不満を感じたからだった。

そして、この「1年半という時間」は自分にとってなんだったのかというと、今振り返れば「自分という人間を顧みる時間」だった気がする。

大雑把に言ってしまえば、僕のこれまでの人生は、「自分中心に生きまくり、「俺は俺だ」と叫びながら、世の中の様々なことに「怒り」をぶつけ、理想を自分の中で創り上げ、語り、その実現に邁進し、多くのエネルギーをその実現(=自己正当化すること)に消費し、自分という人間を大きく魅せたり見栄を張ってみたり、逆に言えば、自分の弱い部分をできるだけ自分でも見ないように、相手にも見せ(え)ないように生きてきた。」と言える。そして、「実現するたびに鎧を与えられ、強くなった気でいた。」のだろう。

じゃあこの1年半はなんだったかというと、そんな鎧を全部取り払った自分の魂に出会うために、自分が28年間かけて一生懸命作り上げてきた「鎧」を剥ごうとしつつ、自分を直視しようとしながら、自分自身のあるべき方向性を探る時間だった。

そして、いざ直視をしてみると、実は「もう中身が全然イケてなくてショックを受けている」というのが今の状態かもしれない。なんとも自分中心な生き方・考え方が、あらゆるところにこびりついており、無理やり剥がそうとすると本質的な中身がどうもイケてないものだから、鎧なしでは世の中で勝負できない状態になっている。というのが私自身に想う感想だ。

あれほど好きだった自分が大嫌いになってしまいそうな嗚咽感をどうにかごまかしながら、「今となっては直ぐ様にでも変わって本質的に強い魂に生まれ変わりたいという欲求」と「でも、実はものすごく脆く弱くて目も当てたくない自分に対する現実への苦しさ」との矛盾の狭間でもがいている。

そして、今ここにして思う、この現状を打破する方向性として一旦出した結論は、
・ 『今までの「鎧」を恐れず全て捨て、初心に返ること』
・ 『自分の周りにいてくれる縁のある方を心から理解し、愛し、ただただ喜んで貰えるように尽くし貢献
することに命を注ぐこと』
なのだと感じている。

一言でいえば、「自捨新生」と「他喜」かもしれない。

この2つをテーマに、2012年は、明るく狂ったようにバカになりながら、一生懸命魂を磨き続けるのだと意思をもって誓いたい。

つらいことが多いのは、感謝を知らないから。
苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるから。
悲しい事が多いのは、自分のことしかわからないから。
心配することが多いのは、いまを懸命にいきていないから。

※「四無量心」(慈・悲・喜・捨)
慈…相手の幸福を望む心
悲…相手の苦しみを覗いてあげたいと思う心
喜…相手の幸福を喜ぶ心
捨…相手に対する平静で落ち着いた心。
「不可能」とは、自らの力で世界を切り拓くことを放棄した、臆病者の言葉だ。

「不可能」とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない。

「不可能」とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。

「不可能」とは、誰かに決めつけられることではない。

「不可能」とは、通過点だ。

「不可能」とは、可能性だ。

「不可能」なんて、ありえない。

IMPOSSIBLE IS NOTHING.




iPhoneからの投稿
私の体験から言えることは、経営者もまたひとつの職能である。
経営者は相手によって言うことを変えなければならない。場所によっても言うことを変えなければならない。本来、取締役会に話をしてから新聞発表するところを、新聞発表してから事後的に、取締役会がそれを追認するということもある。人に対する好き嫌いがあっても、それを表にだしてはいけない。社員に対しても取引先に対しても非情な面と温かい面の両面を持たなければならない。ときに攻め、ときに「攻撃と防御」の両面に強くなければならない。このような多面的な要素を求められるのか経営者の職能である。

(リクルートのDNA-起業家精神とは何か?-江副浩正-)
なんとなく感じる。
野田首相ってすごい人だなって僕は思います。

あまり政治のことはわからないが、
TPPにせよ、彼は初めから交渉をする方向性にもっていこうと信じていたに違いない。
その信念をTV画面を通じて感じる。

そして、その理解を求める為に、どれだけ周囲の感情を理解しながら、
いかにみんなが納得する形にもっていくまでの苦心があったかを。

TPP交渉決断の延長のときなど、「ほんと頑張れ」って思った。
マスコミにごちゃごちゃ言われたり、評論家にごちゃごちゃいわれるのも受け止めた上で、
それでも反対派の人に出来る限り納得してもらえるように期間を延ばし、最善を尽くす彼の姿は素晴らしいと思った。

どじょう。

自分に軸を置くのではなく、周囲に軸を置いて、しぶとく納得を得て実行する。
このようなリーダーシップの形に僕は憧れるようになった。

大阪府知事選の橋本さんとは全く違う。
「俺にしか大阪都構想は実現できない!」と言い切る彼には、いろいろ事情があるのもわかりつつ、
悲しいなあと感じる。

この差が大事。

そして、この差異を大事にしたい。

そう思った。
自分が尊敬する方に誘われ、六本木俳優座劇場で観劇をした。

戦国時代。保元の乱の後、罪人として扱われ島流しにあっていた崇徳天皇が兄弟である後白河法皇に裏切られた事から「鬼」に変わるという怨霊伝説を元に、源義経と木曽(源)義基との兄弟争いに関して「鬼に変わった、陰陽師黒木光雲」が操るという話が展開される。

非常にエキサイティングな演劇であり、非常に強烈に印象に残っている部分がある。
それは、義基の愛弟子である喜八郎が「鬼」に唆され、その兄貴分を殺すことを条件に、付き従う義基を救ってやるという誘いの中で、「自分の兄貴分を殺害する」シーンである。

喜八郎にとって正しいことは、「兄貴分を殺してでも、自分の将軍である義基を救うべきかという陰陽師の誘いに乗るべきか」それとも、「兄貴分を殺さず、自分の将軍である義基が救われない状態を作るべきか。」という苦悩である。

正しいことは何かという苦悩の中に、人々はどうにか結論をつけて正しいことをしようと生きているわけだが、正しいこととは「自分のある考えに基づいた正義」を結論づけて貫くことなのではなく、「自分を愛してくれた人を裏切らない」などという根本的な感情に従うことなのだということを描いていると自分自身は感じた。

自分の意思を通そうとするのではなく、博愛(?)的な視点で世を視て、あるべき姿を視るということが如何に難しくて、厳しいことか。

そのような複雑な感情を人間の光と闇という対比で表していてすごく複雑な感情を思い起こす演劇だった。

人はすぐに「自分」という軸があたかも「正しい」と考えがちであるが、実はそうではない。「自分」ではなく、「みんな」という軸を置けてこそ「正しさ」は存在する。

その後、渡辺裕之さんと写真を撮って解散。

非常に考えさせられた観劇体験でした。
最近、事業の目的や目標を考えることが多く、またその重要性をどうやって周囲に伝え、理解してもらうかについて考える機会を多く頂いていた。

そんなことばっかり考えていると、ストレスで食べる量が増えてお腹がぽっこりしてきた・・・
なんてこともあったりするわけだ。

そうすると、いつものように「走って痩せよう!」と思うのが僕の常ではないか。
目標や目的をはっきりさせることもないままに、手段に走るのだ!

そんなことを考えながら、環七を走っていると高校生の頃を思い出したわけだ。
それも、年に1度の10キロマラソン大会で走っている頃の僕を。

そのころの僕は足がすごく速かった。
中距離・長距離ではサッカー部では1番!
マラソン大会でも都大会にでるようなマラソン選手を除けば、陸上部と張るくらいには。

10キロを36分くらいで走っていたと思う。

それで、僕が思いだした映像というのは、スタートしてすぐに、その都大会にでるようなランナーがサッと僕の前を走っていき、「これは絶対に追いつけない」と諦めるシーンだった。

これは根本的に勝てないと思ったそのマラソン大会の一瞬のシーンが頭をよぎったのだ。

そのときの僕は心のなかでこんなことを喋った。
「いや、まあ僕の足は短いからな!僕はちょこまか走るのに、彼は1歩3mくらいで飛ぶように走るのだから無理だ・・・諦めた!」そう思ったのだ。

さて、僕はここで目標を持つことの大事さを話そうとしている。

その頃の彼の早さは確か10kmを32分。
僕よりも112%の早さだったということだ。

僕も、そこに目標を設定して、何故僕が彼より早く走れないのかを考えれば、彼より早く走れるようになったかもしれないなと、さっき走りながら気付いたのだ。

目標がなければ、ひとは「やみくもに頑張ろう!」と思うか、「僕には無理だ!」と思ってしまう。
でも、目標を立てて、それを達成している人と比べれば、自分に何がたりないのかが分かるのだ。

今回の例を取れば、
僕は、歩幅が明らかに彼に比べて短かったのだ。
そして、歩幅を112%伸ばし、歩数をそのままにできる練習をすれば同じ速さで走れたのだ。


そらそうなのだ。

僕はサッカーで必要な走り方をし、彼は長距離で早く走る走り方をする。

サッカーで1歩3mもの速さで走る走り方をしていたら、すぐに球に反応できないし、
逆に、1歩2mの走り方をしていたら、長距離では疲れて速く走れないのだ。

だから、もし、僕が高校生の頃に、彼に勝ちたいという目標を明確に立てていたならば、そして走り方の分析をしたならば、僕は歩幅をどうにかして広くしなければ絶対に彼より速く走れないことを悟り、その練習をしたし、そのための筋肉づくりをしたに違いない。

こんなことを考えて走っていた。

そんなことは考えられても、僕のぽっこりお腹が凹むなんてことはそう簡単には起こらない。
なにせ明確な目標を立てて、ストイックにやってないのだから効果がでないのも仕方ない。笑

手段に走ると、結果はなかなかでないのが常というのはこういうことだ。

僕のお腹は一向に凹まないが・・・さあ、明日もまた頑張ろう!!!


Stay Hungy, Stay Foolish.

僕の大好きな言葉だ。

前の会社で、自分を一言で表現するというミッションがあって、
僕は、Stay Hungry, Stay Foolishです。

と言ったことがあるのを記憶している。

そう、バカなんだから、バカでいい!
この開き直りが自分にどれだけのエネルギーをくれたか。

ありのままでいればいい。バカは頑張っても、頑張らなくてもバカなのだ。

俺は愚か者なのだ。
それはよく自分が知っている。

だから、それでいいじゃないか!

そんな自分の愚かさを認めた上で、好きなことを好きなだけやりなさい。

僕が、彼の言葉から教えてもらった1つの大きなことである。

もう1つ、大きく教えてもらったことは、
「シンプル」であることが「重要であり」なによりも「美しい」こと。




ここに、彼が残してくれた大切な言葉を記したい。

「自分が間もなく死ぬであろうということを常に意識していることが、わたしにとっては人生の大きな選択をする上で最も重要なツールとなっている。なぜなら、死の前では外部からの期待、プライド、恐れ、困惑、失敗といったことはほとんどすべて消え失せ、本当に大切なものだけが残るからだ。いつかは自分も死ぬということを忘れずにいることが、何かを失うことにとらわれずに済む最善の方法だ。人はすでに裸の身だ。自分の心に従わない理由はない」」

世界一の起業を創り、世界を便利にしたスティーブジョブスがこれからも大好きです。


死ぬ気で生きてない人生はつまらん!

大きな事を成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに謙虚を学ぶようにと弱さを授かった  

より偉大なことができるようにと健康を求めたのにより良きことができるようにと病弱をあたえられた  

幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった  

世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに得意にならないようにと失敗を授かった

求めた物は一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ物であるにかかわらず 心の中で言い表せないものは全て叶えられた  

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されていたのだ



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