『日本のこれから』という番組を観て。 | 色塾BLOG-

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日々のビジネス・社会に対する思いや、起業に向けた考え、読書に対する感想など様々な話題を、海外で働くマーケターとしての第3者の視点から展開。

NHKの『日本のこれから』という番組を観て、いろんな感想をもったので書いてみる。


お題は、「増税について」。


議論は様々あったので、ほとんど割愛するが、


「中小企業で周りの人間がどんどん死んでいるんだ」

と泣きそうになりながら訴えている人。


「官僚や公務員の無駄遣いをとにかくどうにかしなければ、議論の前提も満たされないという」人。


「所得の低いものは、食べ物もろくに食べれないのに、それと同様に考えて、高所得者からも税金を一杯取っているという反論はおかしい。国はなんのためにあるのか?」

という話。


「それは企業努力の問題だ」というIT社長。


「医者はそんな絶対的収入は少なくない。そんなことはどうでもいいから、患者を護るために看護士を増やせ」という開業医。


様々な人がいた。


熱を込めて喋る人も、相手の話をさえぎって喋る人も、冷静に喋る人も、冷静になろうとしている人も。

沢山いた。


どれも一理ある。


司会者は、まとめてこういった。

「みなさんが、大きな政府か小さな政府かどちらを選ぶか、そのためにどれだけの負担をするかの選択を迫られているのだ」と。


もちろんそういう論点もあるが、そういうことでもないのかも知れないと

僕は思った。


これは、国のビジョンの問題だと思う。

そして、国民のビジョンの問題だと思う。


中小企業の人が企業努力が足りないからそうなるのだ。 そう思う。

NEATの人は、そういう道を選んだのだから、そうなるのだ。 そう思う。

それらは大きく家庭や教育の問題にある。 そう思う。


しかし、教育や家庭というもの。またはコミュニティというもの。

思想や理念というものは、もともとあるものではないし、

創造の意志の結果として形成されるものでしかない。


そうするならば、大きな政府・小さな政府というのは、

まだまだ全然本質的な議論ではなく、枝葉の議論である。


即ち、

あなたは発展したいですか?

あなたはもう十分ですか?


あなたは人が苦しんでいても、それはお前のせいだといって、自分だけ良い生活を求めますか?

良い生活とは何ですか?幸せとはなんですか?


あなたは、人が苦しんでいたら、こころから、その苦しさに共感し助けたいですか?

助けるために、どういう方法を取りますか?モノをあげますか?叱りますか?


そもそも、あなたは人の痛みが分かる人ですか?

わかった上でどういう風な解決方法をとりますか?


再度、幸せとはなんですか?


という事かもしれない。


どの程度それは自信をもっていえますか?

あなたはそのために努力できますか?行動できますか?

逆の立場になったらどうですか?とか・・・・・・・



結局、そういう事なのだと思う。


人が、自分の信条というか習慣として、何を優先させ、どういう風にするか。


ということ。



そういう本質的なビジョンを掲げずして、何事も決まらない。



ただ、競争心と優しさが混同する中で、何をする「べき」かというベクトルは決まらない。


ベクトルが決まらなければ、動けない。文句を言う。人のせいにする。

そんなことは簡単なことだ。



あなたは、どういう人間でいたいですか?


ということを本当に問わなければいけない時代だと思う。



政治・経済・戦争とかいう軸で右・左などと切るのはなんと

単純化し過ぎたなものの見方だろうかと思う。


官僚・学者・・・・・国民を完全にバカにしていると思う。

そういう考え方自体がバカであることにはやく気づいて欲しい。


そして、そういう国民をバカにしている多くの官僚を

うまく操れない政治家を選んではいけない。



また、国民はそういう風に、単純化されたアジェンダに

ただやだのるだけではいけない。


また、のるだけで、結果がでないと文句をいうというのもいけない。


国民が成すべきことは、文句をいうことでなく、

他の視点で物事を観察し、他のアジェンダを見せてあげることだ。


そのためには、


「自分がどういう人間でありたいか?」


ということを必死に考えなければならない。


明確なビジョンを掲げ、その方法として良いものを

民主主義の中で選び取り、実行する。


リーダーシップというのは例えば内閣総理大臣の中にあれば良いのではなく、

国民1人1人の中になければならないものであるといいたい。


そういう風な議論が、日本に、世界にとって、

とても重要な議論だと思う。



NHKはこういう風な番組をもっともっとやっていけばいい。

むしろ、他のことは民放に任せればいい。


様々な論点を多様性のある人と議論させ、

そのメリットデメリットを出していくと同時に、


ただそれらを決定するのみでなく、

視聴者・国民に「考える」機会を与え、

成熟させていく。


その中で、

国民がどのような生き方をしたいか。

そのような生き方をベストプラクティスとし、そのためにはどのような方法を取るべきか

ということを決定していくのが良いと思う。


そうやってこそ、ビジョンが決まり、ベクトルが決まり、

選択肢があり、その優先順位が付けられ、

最適な選択が可能になると考える。


こんな考えは甘いだろうか?

と疑問を投げかけてみる。



昔、こういうことを言われたことがある。


「最近の若者は、すぐ視野が狭くなる」とね。



それが意味することは、本質的でないということと思う。



そりゃあこれだけ情報が錯綜して、メディアがどんどん

その絡まった情報を1つの視点で切って流していればそうなるわけだ。


「本質的である」ということは、「視野が広いということ」と同義であると思う。



無限大にある出来事のなかで、

それが情報と化される過程で、

ある意図をもったものにある視点で切られ、

アジェンダが設定されてしまったその対象に対して、


自分なりの本質的な視点で物事を観察し、

物事を深く考え、深く追求していく。


このことがすごく大事なことであると感じる。


流されてはいけない。



自分なりのビジョンを世界中の人間が須らく持つべきである。


そこから、議論は始まる。


それまでは、何かを決定することさえ、何も決定していないことになる。



と僕は思うのだが、違うだろうか?