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パリ旅行の写真とともに

ジョゼフィーヌとナポレオンの話を綴っています

※以下一部写真をお借りしています。


ジョゼフィーヌと結婚後のナポレオンは、フランス軍を率いて連戦連勝を重ねます。

イタリア戦役においてフランス軍がオーストリア軍に対し決定的勝利を得たリヴォリの戦い。ヴェルサイユ宮殿にて撮影。


イタリア遠征・エジプト遠征と勝利を重ね、多額の戦勝金を得て国を潤したナポレオンは、民衆から絶大な支持を得ました。

ナポレオンの「兵士諸君、ピラミッドの頂から4000年の歴史が諸君を見つめている」との言葉は有名ですね。


また「勝利の女神」として、妻であるジョゼフィーヌの人気も大変高いものでした。

マルメゾン城にて撮影。

 

1799年11月 ブリュメールのクーデターにてバラスの政権を倒すと第一統領に就任し、フランス銀行の設立、レジョン・ドヌール勲章の制定をはじめ、現代の民法典の基礎となるナポレオン法典の編纂など、近代国家としての礎を築きます。

ナポレオンは「才能あるものに開かれたキャリア」として従来の身分制に捉われぬ実力主義社会を開きました。この法典では、没収された貴族や教会の土地を手に入れた農民やブルジョアがその利益を保持できるように取り計らわれてもいます。


さて、浪費家のジョゼフィーヌですが


1799年4月

彼女は夫のエジプト遠征中、その多額の戦勝金を見込んで大きな買い物をします。


それはフランス郊外にあるマルメゾン城でした。

マルメゾン城にて撮影。

 

30万フランを優に越え、多額な改修も必要なその城の購入について「戦勝金が手に入ると思って」と言い訳するジョゼフィーヌにナポレオンは大変激怒しましたが、マルメゾン城は1800年から2年間、フランス政府の中枢が置かれる要所となりました。

ナポレオンの執務室。マルメゾン城にて撮影。

 

1804年 ナポレオンが皇帝として即位し、妻ジョゼフィーヌも皇后に。


その戴冠式の様子は「国民から選ばれた皇帝」として教皇から冠を戴くスタイルではなく、ナポレオン自ら頭に乗せるスタイルを採りました。

ヴェルサイユ宮殿にて撮影。

ノートルダム大聖堂での戴冠式。作家ダヴィッドは皇帝自ら冠を頭に載せる場面よりも、皇妃が皇帝から冠を戴く構図の方が絵になるとしてこのシーンを採用したと言われています。


ナポレオンの皇帝即位。

この出来事はヨーロッパ各方面に衝撃を与えます。


「民衆から選ばれた英雄」は、他国にとっては"独裁者"そのものでしかありませんでした。

こちらはルーヴル美術館で撮影。そのサイズから、まるで自分が戴冠式に居合わせているかのような錯覚に。


フランスから所変わってウィーン。

当時「交響曲第3番」を「ボナパルト」と名付けていたヴェートーヴェンは、これを知り激怒。

表紙を破り捨て「エロイカ」(英雄)としたとも言われています(諸説あり)。

思想としては自由主義推しだったヴェートーベンですが、革命やそれらの思想を警戒しているオーストリアのメッテルニヒ政権からは常に睨まれている存在でした。


翌年1805年のアウステルリッツの戦いではオーストリアとロシアに打ち勝ち、また時期を同じくして自身の兄弟たちをオランダ・スペインなど欧州各国の王に据えて権力の地盤固めをしてゆきました。


しかし皇帝という至高に昇りつめたナポレオンとしては、一つだけ足りないのは自身と血の繋がった世継ぎでした。


ジョゼフィーヌとの間にはどうにも子供を授からなかったのです。

シングルマザーの出産及び親のいない子供を保護する施設を表敬訪問したジョゼフィーヌの絵画。マルメゾン城にて撮影。


ナポレオンは長い間、彼女と離婚するかどうかを悩んでいたのでした。

子供たちのモチーフは、後継者を期待されていた皇后にかかるプレッシャーを反映していました。マルメゾン城にて撮影。


とはいえ皇后との仲は良好で、また彼女も得意の社交術を活かしてナポレオンをサポートしました。


金縁と花輪をあしらった豪奢なセーヴル焼きの皿。

マルメゾン城にて撮影。


しかし離婚の意思を固める出来事が起こります。


妹が紹介した愛人に続きポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカが続けて妊娠したのです。


このことで、ナポレオンは不妊の原因が自身ではないことを確信したのでした。

愛国心が強く美しいマリア。当初愛人になる事を拒否したが、ナポレオン没落後も最後まで彼を思いその生涯を終えます。


1809年11月末 パリのチュイルリー宮殿にて、ナポレオンは彼女に離婚を告げると、ジョゼフィーヌはそのまま崩れ落ちるようにして倒れ込みました。

離婚を告げられて倒れ込んだジョゼフィーヌ。


その失意の日々を献身的に支えてくれたのは、息子のウジェーヌと娘のオルタンスでした。


ウジェーヌ・ド・ボアルネ(マルメゾン城にて撮影)

イタリア副王。ナポレオンは養子ウジェーヌにバイエルン王女を娶らせた。政略結婚ではあったが温厚であったとされる彼は温かい家庭を築く。娘はスウェーデン王室に嫁いだ。


兄妹はともに家庭を持ち独立していましたが、傷心の母を気遣い助けました。

オルタンス・ド・ボアルネ(マルメゾン城にて撮影)

不妊に苦しむ母とナポレオンの願いから、彼の弟ルイと結婚。3人の男児を儲けたが(長男を養子にとろうとしたが夭逝)皇帝と皇后の離婚と同時期に離婚。三男は後のナポレオン3世。


深く落ち込んだジョゼフィーヌですが、すんなりと離婚に応じ身を引くことに決めます。


しかしそこが彼女の上手いところ。ナポレオンの厚意により離婚後も多額の年金(生活費)が受給でき、さらには皇后の称号を保持できるという手厚い待遇を得られることが決まりました。

マルメゾン城にて撮影


それでも12月14日 離婚式では、ジョゼフィーヌは嗚咽し手を震わせながら署名に応じます。もはや娘のオルタンスに支えられていないと崩れ落ちてしまいそうな弱々しい姿でした。


"政治的な欲求とフランスの利益の両方を満たすことのできる子供への望みは、もはやないことを宣言しなければなりません"

"私はこの世に与えられた最大の愛と献身の証を彼に捧げます"

ウェディングを彷彿させるガウンを纏うジョゼフィーヌ。離婚式はチュイルリー宮殿の玉座の間で執り行われました。


その後ジョゼフィーヌは侍女や官吏、ペットのオウムと犬、大量の荷物と共にマルメゾンのシャトーへと向かったのです。


翌1810年 ナポレオンはオーストリア皇女のマリー・ルイーズと再婚します。

「私は子宮と結婚するのだ」と公言していたナポレオンですが、約20歳歳下の名家出身の妻を敬愛し夫婦仲も良好でした。

ルーヴル美術館にて撮影。

 

そして一年後に待望の長男(ナポレオン2世)を授かりますが、この頃には周辺国は当然フランスの国民からしても、もはや彼は"英雄"ではありませんでした。


戦争が続くヨーロッパでは、10数年のナポレオン戦争によって300万とも500万ともいわれる死者数を出し、農地は荒れ果て貧困が蔓延していました。

ナポレオンの死後 イギリスの風刺画


"勝利の女神"ジョゼフィーヌとの離婚を知ってフランス兵たちは嘆きましたが、それはその通り、この離婚と再婚と時を同じくして、ナポレオン帝国にも終わりが始まっていたのでした。


to be continued


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