2019年10月12日〜2019年10月13日。
ユーラシア大陸をスーパーカブのタンデムツーリングでの横断が終了しました。
ウクライナのキエフ以降はバックパッカー旅となります。
ミホキン、オカキンの二人旅です。
ウクライナのキエフ→リヴィウ→ポーランドのクラクフ→オシフィエンチムへ進みました。
本日は『アウシュビッツ強制収容所』に行ってきましたのでご紹介します。
《海外ツーリングの準備記事はこちら》
✡今回の旅のルート(予定)
①ロシア→ ②モンゴル→ ③ロシア→ ④ジョージア→ ⑤アルメニア→ ⑥ナゴルノ・カラバフ共和国→ ⑦アルメニア→ ⑧ジョージア→ (船)→ ⑨ウクライナ→ (バス)→ ⑩ポーランド(現在)→ (飛行機)→ ⑪モロッコ
※⑨ウクライナのキエフに一時的にバイクを置いています。
来年(時期未定)再スタート予定。
✡出発日と旅の期間(予定)
2019年7月6日より4~5カ月
【レート/1zl=27.42円(2019年10月10日時点)】
《バイク旅のルートマップ》※続きは来年更新します。
⬆ケータイからアクセスすると、Googleマップが非表示になっている事がございます。
Googleマップが見れない方はこちらをクリック。
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ポイントや
ラインの詳細が見れます。
アウシュビッツ強制収容所の場所。
『アウシュビッツ強制収容所(第一/第二)』はオシフィエンチムにあります。
オシフィエンチム駅からアウシュビッツ強制収容所(第一収容所)まで1.9km。徒歩24分です。
第一収容所と第二収容所間は無料バスが運行されています。
アウシュビッツ強制収容所はユダヤ人迫害の負の遺産。
第二次世界大戦の1940年〜1945年、ドイツのヒトラー率いるナチスによって占領されていたポーランド内に『アウシュビッツ強制収容所』が作られました。
『アンネの日記』でも有名な場所ですよね。
《背景》
ヒトラーはユダヤ人を憎んでおり、ドイツが抱える不景気問題をユダヤ人に擦り付けました。
ドイツに広まっていた反ユダヤ人感情を利用したんです。
不景気を活気付けるための強制労働、人体実験、ユダヤ人根絶として多くのユダヤ人がここに収容されました。
ユダヤ人が迫害を受けた理由。
イエス・キリストの12人の弟子の内、ユダヤ人のユダがキリストを裏切って、ローマ帝国に密告し、キリストが十字架刑に掛けられたのは有名な話。(ローマ帝国はキリスト教の布教を恐れていました。)
その裏切り行為によってユダヤ人は嫌われたんですよね。
ヨーロッパはキリスト教の国が多いので。
このイエス・キリストとユダに関しては面白い逸話もあるのですが、話が脱線するのでまた時間がある時に書くかも?
『同じ過ちを2度と起こさないため』として、1979年に『負の遺産』として世界遺産に登録されました。
アウシュビッツ強制収容所は、第一収容所(アウシュビッツ)と第二収容所(ビルケナウ)の2箇所がございます。(3kmほど離れております。)
第一収容所から第二収容所への直通の無料バスも運行されています。
アウシュビッツ強制収容所でチケットを入手。
アウシュビッツ強制収容所(第一収容所)は、7時30分から開館ですが12時に行ってきました。
土曜日のためかチケット売り場には凄い人が。
実は、アウシュビッツ強制収容所は入場の時間帯に3つの枠が設けられています。
私も現地に行って初めて知りました(;^ω^)
《時間帯》
7:30〜10:00 入場無料
10:00〜16:00 ガイドツアーのみ
16:00〜17:00 入場無料
この時、既にガイドツアーは売り切れで、次は16時から入館でした。
ガイドツアーをつけなければ入場無料なので、そこはとてもありがたかった!!
ですが、入場制限があるのか?紙に氏名を書かされ、それと引き換えに入場券を貰えました。
入館まで4時間あるので、とりあえず宿まで歩いて帰りました。
アウシュビッツ強制収容所の見所。
こちらの地図はアウシュビッツ強制収容所(第一収容所)です。
かなり広い敷地で1つ1つの建物を見て回るのに時間を要します。
奥のゾーン(1〜11号棟 )
人々が鉄道に乗って連行される写真や奪い取った所持品、実際に使用されていた寝所などがあり一番見応えがありました。
真ん中のゾーン(12 〜21号棟)
写真の展示がメインでした。
御手洗いは18号棟です。
手前のゾーン(22〜28号棟)
開いていませんでした。
ご紹介の流れ
《第一収容所》
①アウシュビッツ強制収容所に入館。②ARBEIT MACHT FREI(収容所の入り口)。
③220ボルトの鉄線。
④アウシュビッツ強制収容所の概要と展示。
⑤人々から搾取したもの。
⑥被収容者の扱い方と人体実験。
⑦バラックの生活様式。
⑧死のブロック。
⑨長時間の起立と絞首刑。
⑩ガス室。
ー⑪ バス移動ー
アウシュビッツ〜ビルケナウ
《第二収容所》
⑫ 死の門(鉄道引込線)。
⑬ 人々が押し込まれた客車。
⑭ 殺人複合施設。
⑮ 子供とその母親の収容所。
①アウシュビッツ強制収容所に入館。
16時からと言われましたが、混雑を避け15分前の15時45分に到着。
ダメ元で入館できるか聞いたら、すんなり通してくれました。
このあと、凄い人が来たのでやっぱり早い目に到着しといて良かったです。
入館には『チケット』と『身分証明書(パスポート)』が必要になります。
チケットを係の人が読み取って館内へ。
最初の館内では簡単な『手荷物検査』と『身体検査』がありました。
②ARBEIT MACHT FREI(収容所の入り口)。
『ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)』。
これは19世紀後半のドイツ人作家による小説のタイトル。
ナチスが好んで使ったスローガンです。
しかし実際には10人に1人も生還できた者はいません。
Вの文字が上下反転しており、このスローガンが嘘だと分かっている人のせめてもの抵抗と言う説もあれば、当時の巷の流行文字とも言われ真実は定かではありません。
③220vの鉄線。
周囲には鉄線が張り巡らされ、220vの電流が流れたそうです。
ドイツ語『HALT』、ポーランド語『STOJ』で『止まれ』の意味。
④アウシュビッツ強制収容所の概要と展示。
先ずは4号棟より入館します。
ここでは、アウシュビッツ強制収容所に連行された人々の写真の展示やガス室で殺害された様子をご覧になれます。
アウシュビッツ強制収容所には、ヨーロッパ各地よりユダヤ人やソ連軍捕虜などが連れてこられました。
1942年アウシュビッツはユダヤ人を根絶する巨大な施設でした。
1940年〜1945年までにアウシュビッツ強制収容所に連行された人は少なくとも130万人で、その内110万人がユダヤ人です。
その他、ポーランド人が14万人、ジプシーと呼ばれるロマ・シンティが2万3千人、ソ連軍捕虜が1万5千人、その他民族の囚人が2万5千人。
110万人がアウシュビッツ強制収容所で無くなり、その内90%がユダヤ人でした。
殺害は主にガス室で行われました。
1944年に述べられたナチス・ドイツのポーランド総監督ハンス・フランクによる言葉。
『ユダヤ人は完全に根絶しなければならない人種だ』。
《補足》
戦後、彼はニュンベルク裁判でポーランド人からの搾取とユダヤ人の殺害に関与したとして死刑となりました。
連行された人々の写真。
第二収容所に到着した時の写真。
鉄道駅のプラットフォームで、働けそうな人、人体実験にする人、ガス室へ送る人を選別しました。
妊婦や老人、子供、病人など働けそうにない人は、『シャワーを浴びるよ。』と言われ、天井からカモフラージュの蛇口が付いたガス室に送られました。
約210平方メートルのガス室に2,000人が収容され、チクロンBが投入されました。
体からは金歯、宝石、髪の毛が剥ぎ取られ、体は火葬場で焼かれました。
被害者個人の書類は廃棄されました。
ガス室へ送られる人々。
ガス室の模型。
実際に使用されたチクロンB。
⑤人々から搾取した物。
こちら5号棟では、人々から奪い取った所持品や生活用品をご覧になれます。
奪い取った眼鏡。
ユダヤ教の人が羽織っていたショール。
身体障害者も排除の対象となりました。
人々を安心させるために『後で分かるように』と鞄に住所や名前を書かされました。
Kiliのクリームチーズ缶。
この頃からKiliはあったんですね!!
⑥被収容者の扱い方と人体実験。
6号棟では、収容所についてからの被収容者の扱い方や人体実験についての展示があります。
(説明では囚人となっていますが、何の罪のない人達なので、被収容者と表現しております。)
ここでは、高い死亡率と死体の特定が困難なため、被収容者の体に囚人番号
のタトゥーが入れられました。
この三角形は、逮捕の内容によって色分けされており、どの分類に属するか決定づけていました。また、外国人の場合、ドイツ語で三角形の中に囚人の国籍の頭文字が書かれていました。
(Fはフランス人、Pはポーランド人、Nはノルウェー人、NLはオランダ人。)
《補足:Wikipedia調べ》
精神障害者は政治犯に分類されていたので、赤の逆三角形のバッジをつけましたが、同時に『バカ』と大きな文字で書かれた腕章もつけることになっていました。
これが着せられていた囚人服。
胸バッジと囚人番号。
人体実験の材料にされたジプシーの少女。
⑦バラックの生活様式。
ここではバラックに収容された被収容者の生活様式が展示されています。
各収容所には700人〜1,000人の被収容者が割り振られたそうです。
この藁に敷かれた所で最初の2週間を過ごしました。
トイレ。
⑧死のブロック。
11号棟では、チクロンBの殺害効能を確かめる実験を兼ねた殺害が行われました。
日々、送られてくる被収容者を効率的に殺害するためです。
同時に、抵抗組織の被収容者が銃殺された『死の壁』もあることから、この11号棟は『死のブロック』と恐れられていました。
1941年9月、チクロンBを用いて大勢の人を殺す最初の実験がこの地下室で実行されました。600人のソ連軍捕虜と病院から集められた250人のポーランド人が死去しました。
実験が行われたガス室。
⑨長時間の起立と絞首刑。
収容所の中心地(棟番号失念)では、ナチスの武装親衛隊(SS)が被収容者の点呼を取っていました。
もし、誰かがいないようであれば、被収容者はSSが満足するまで起立しなければいけませんでした。
ー天候に関係なく、時には2時間以上の時も。ー
見せしめのために、大衆の面前で絞首刑にすることもありました。
最初の大きな処刑は1943年7月19日。
12人のポーランド人が他の3人の被収容者が逃れられるよう手助けした疑いと外部と接触し続けた事で、共に絞首刑に掛けられました。
絞首刑の様子。
ARBEIT MACHT FREIの門を潜ってすぐの建物前にあった掲示。
ここでも、逃亡を図ろうとして銃殺された者の死体が見せしめにされました。
⑩ガス室。
天井に穴が開いており、そこからガスが入った缶が投げられたそうです。
遺体は被収容者の手で焼却炉で焼かれました。
ドイツ人は手を下さないようになっていました。
⑪ バス移動(アウシュビッツ〜ビルケナウ)。
私がビルケナウへ行ったのはアウシュビッツの翌日ですが、アウシュビッツ〜ビルケナウ間の直通バスが運行されています。
始発は10時30分、最終は18時10分です。
平日も週末もほぼ同じ運行スケジュールで10分毎の運行になりますが、平日は10時、11時の本数が少なくなります。
約5分ほどでビルケナウに到着します。
⑫ 死の門(鉄道引込線)。
ここは、ヨーロッパ各地より拘束された人々を送るのに利用した鉄道引込線です。
⑬ 人々が押し込まれた客車。
窓のない客車に押し込められ、その殆どは選別の上で処刑されました。
ここで、働ける者、人体実験の検体、ガス室へ送られる者の選別が行われました。
選別が行われた場所です。
⑭ 殺人複合施設跡。
ここは脱衣室、ガス室、焼却炉(クレマトリウム)があった場所です。
ナチスは状況が悪くなるとクレマトリウムを爆破させ、証拠隠滅を図りました。
⑮ 子供とその母親の収容所。
ここは、ポーランド国内から子供とその母親、ワルシャワ蜂起以降にワルシャワから何百人もの若者が連れて来られたバラックです。
中は昼間でも薄暗く、想像を絶する生活環境であったことが伺い知れます。
まとめ
悲しく重苦しい歴史であり、色々考えさせられる場所でありました。
決して楽しい場所ではありませんが、この目で見て知れて良かったと思います。
その他、出発するまでの準備記事をまとめてご覧になられたい方はこちら。
【インデックス】ユーラシア大陸バイク旅の準備(まとめ記事)
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