ART BASE PROJECT / ル セコメロン -102ページ目

ART BASE PROJECT / ル セコメロン

ART BASE PROJECT 代表
ル セコメロン 主宰
マサコ日記☺︎
美術展企画1991年〜500回以上開催
画家夫 石上誠展の企画から始め、以後私自身に響く作家の作品展を企画し情報発信
時々日常を呟く
旅カフェ居酒屋サウナ好き♡


謹賀新年

旧年中はたいへんお世話になりありがとうございました。

皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

よろしかったら今年もこのブログに遊びに来てくださいね(^_−)−☆

2016年・・・今年の私のテーマは「勇気」 いろいろな扉を開けて一歩踏み出します!(笑)


昨日行われたギャラリートークの様子です。ノグチミエコのこれまでの軌跡や宇宙のオブジェ作品制作のプロセス等、様々な内容をお客様にお伝えする事が出来、大成功となりました。ご来場して下さいました皆さま、誠にありがとうございました。本日12月26日も午後2時~名古屋栄三越8階ジャパネスクギャラリーにてギャラリートークを開催致しますので、よろしければ是非足をお運びくださいませ!!

    

  


★本日12月25日(金)と26日(土)の両日午後2時~ノグチミエコのギャラリートークがあります♪

プロジェクターの画像でノグチミエコ初個展時の「錬金術師の部屋」から現在の「宇宙~吉祥縁起」までを観ながらノグチ本人が解説致します。インタビュー形式によるギャラリートークです。ノグチの魅力はもちろんのこと、知られざる一面にも迫れたらと思っています。

ノグチミエコファン必見の興味深い楽しいイベントです。。。この機会をお見逃しなく!!

▼昨日までの個展会場の写真をup致します。(会期は12月23日~1月5日迄)

 

 

     

   

   

   

 

 



前回の投稿では、岡本太郎美術館で開催されている企画展「岡本太郎と中村正義 東京展」についての感想と二人の天才画家に対して私が感じた3つの共通点の1つ「中村正義と岡本太郎の日本の美術界に対する反骨心」について述べました。今回は前回の続きである、2点目と3点目について話しを進めたいと思います( ´ ▽ ` )ノ

まず、2点目は、岡本太郎と中村正義の芸術観についてです。
岡本太郎と中村正義はまったく同じとは言えないまでも、互いに共通する芸術観を持っていたのではないかと今回の企画展を通じて考えるようになりました。例えば、まず岡本太郎は『今日の芸術』という自身の著作の中で、芸術に対して非常に面白い見解を示しています。以下の文章が太郎の芸術観の心肝ではないでしょうか。

「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。と私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。これは今までに考えられていた、絵はうまく、美しく、快いものであるという価値基準とは、まったく正反対の意見ですから、あるいは逆説のように聞こえるかもしれません。しかし、これこそ、まことに正しいのです。」(『今日の芸術』より抜粋)

このように、太郎はこれまでの一般的な芸術に対する価値観を根底から揺さぶる発言をしました。この本が出版されたのが1954年で、今から約60年も前にこの革新的な宣言をしていたのですから驚き以外の何物でもありません。私は1年ほど前に『今日の芸術』を読み、上記の文章に出会った際、なるほどと納得したのを今でも鮮明に覚えています。今日でも、一般的に大多数の鑑賞者は芸術や絵画はきれいで、うまく描けていて、ここちよいことが必要条件であるかのように考えていると思います。しかし、よく考えてみれば、セザンヌ、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ等これまでの美術史に名を刻んでいる画家たちの作品を初めて見た鑑賞者は果たして、きれいやここちよいと感じていたのでしょうか?ゴッホにしてもモディリアーニにしても当初はまったく認められずに、自暴自棄になり死んでいきました。現在の鑑賞者たち(私自身も含め)はすでに価値が定まっている彼らの作品を安心して「きれい」であるとか「すごい」と言ってはいますが、その当時の価値が定まっていない時に同じ言葉が言えるかどうかは懐疑的にならざるを得ません。この私自身の不安に対して、岡本太郎は明確に指針を示してくれたように思います。さらに、中村正義も芸術に対して同じような主張をしています。

「創造というのはその人間の思想が大変に独創的である場合に、必然的に新しい絵が生まれてくるわけで、その絵は当然見たことのない絵でもあるわけです。かつてセザンヌがその土地の美術館に自分の絵の寄贈を申し込んだ時に、これが断られ、その上にその醜悪さはまさに罪悪に値するといわれたそうです。新しい思想と考えのもとに生まれた新しい絵は、見たことのない、誰の目にもみにくいものであったはずで、当然快いはずはないわけです。逆説的に言えば、みにくく見えるものの中にこそ芸術がある、ということになります。このことは世界の近代芸術にあって、これがすべてであるといって過言ではない。」
(『創造は醜なり』より抜粋)

上記のように、中村も岡本も芸術は醜くあるべきで、岡本的な言葉で言えば「ナンダコレハ」と直感的に思えるものの中にこそ真の芸術があると考えさせられました。

最後に、3点目の岡本太郎と中村正義の行動について少し言及させて頂きます。
二人の反逆の天才画家は共に、観念の遊戯に終わらず、現状を変革するために猛烈な行動の人であった事に私は感銘を受けました。過去、現在問わず、口だけで何かについて批判したり、主張したりしている人は数多くいると思いますが、実際に行動に移した人がどれだけいるでしょうか。行動する人間こそ最も偉大であると私は今回の企画展で感じました。例えば、中村と岡本は二人とも権威主義的な日本の美術界や既存の展覧会を変革するために、東京展というまったく新しいスタイルの展覧会を開催することに奔走しました。特に東京展の事務局長をしていた中村は1975年当時、重い病に侵されながらも、現状を変えるために行動し続けました。不公平是正という人間の最も根源的な理念の名の下に、例えば、肩書きや権力に左右されて公正に判断されてこなかった既存の展覧会に対して、素人、プロ問わず作品を公募できるアンデパンダン形式の展覧会にしました。また、岡本も「われわれが東京展をやるんだったら、今までの価値基準で芸術を判断しないで、まったくフリーに『なんだ、こんな展覧会』といわれるようなもんでやっていいと思うんです。」(東京展機関紙創刊号より抜粋)と発言し、実際に絵を飾るだけでなく、劇や講演などを組み込ませ祭りのような展覧会になるように行動を起こしました。

さらに、中村も岡本も芸術界だけでなく、日本の社会全体に対しても批判し、実際に行動をしました。中村と岡本の数多くの作品をみれば、そのことがわかります。例えば、1974年にはこれまでの作品とは画風が異なる下の絵の『何処へいく』という作品を発表します。


中村正義 『何処へいく』 画面向かって左

この作品は水俣病の公害問題を主題としており、一般人の健康など度外視し、経済成長をまっしぐらに進める経済至上主義の日本社会に対しての批判を感じることができるのではないでしょうか。

また岡本も下の絵の『重工業』という作品を発表しています。


岡本太郎 『重工業』

歯車のまわりに人間が回っており、画面と真ん中にねぎという、「ナンダコレハ」と思わせるような構図です。重工業や資本主義がいかに人間をきりきり舞いさせているかを表しており、かつては機械が人間の奴隷だったが、今や人間が機械の奴隷になっていると主張しているように感じられます。

このように、中村も岡本を日本の芸術の変革という狭い枠を飛び越えて日本社会全体を変革しようと行動していたことが伺えます。彼らは芸術を通じて、怒りをあらわにし、日本人よ行動しろ、本当の生き方をしろと訴えかけているように感じました。最後に中村と岡本の行動に関しての言葉を引用し、終わりにしたいと思います。最後まで読んで頂きありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ

「現代、これほど大きなひずみの中で,怒りをもたない人間は、無知か,卑屈か,卑怯者か、いずれにしても偽物です。反骨精神とは、無知と卑屈におかされない正常な人間の本能のようなものです。この本能に対して行動をもたない人間も偽物です。金は持っているが、かっこのよいことを言うが、本当に行動的に怒りを投げかける大人を、私はほとんど知りません。」
(『創造は醜なり』より抜粋 中村正義)

「画家にしても、才能があるから絵を描いているんだとか、情熱があるから行動できるんだとか人はいうが、そうじゃない。逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーも噴き出してくる。何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。」
(『芸術は爆発だ』より抜粋 岡本太郎)

 

名古屋栄三越 8階ジャパネスクギャラリーではノグチミエコ展8階ジャパネスクコートでは日本歳時記展-FUSION FACTORY-を2つの会場で同時開催致します。個性豊かなガラス作品が多彩に展開され昨年大好評でした。今年も壮観ですよ~!ぜひぜひ、会場にお出掛けくださいませm(__)m ★


ノグチミエコ硝子展 -宇宙~吉祥縁起

●会期 2015年12月23日(水・祝)~2015年1月5日(火)  

     ※1月1日は休み・12月31日は午後6時閉場

      AM10:00~PM8:00 

          ※最終日は午後5時閉場

●会場 名古屋栄三越 8階ジャパネスクギャラリー

国内外で活躍する人気作家ノグチミエコの吉祥縁起をテーマにした新作をはじめ、宇宙を中心に地水火風空の壮大なイメージをガラスで表現した作品展。定番のジュエリーや宇宙の器なども併せて展観いたします。

★ノグチミエコ在廊日・・・12/23(水・祝)~12/26(土) 午前11時~午後6時まで

ギャラリートーク・・・12/25(金)と12/26(土) 両日午後2時~

 



 

名古屋栄三越 8階ジャパネスクギャラリーではノグチミエコ展8階ジャパネスクコートでは日本歳時記展-FUSION FACTORY-を2つの会場で同時開催致します。個性豊かなガラス作品が多彩に展開され昨年大好評でした。今年も壮観になります!ぜひぜひ、会場にお出掛けくださいませm(__)m ★

ガラスで祝う日本歳時記展 FUSION FACTORY-

●会期 2015年12月23日(水・祝)~2015年1月5日(火)  

     ※1月1日は休み・12月31日は午後6時閉場

     AM10:00~PM8:00 

●会場 名古屋栄三越 8階ジャパネスクコート

毎年恒例となりましたノグチミエコが主宰するガラス工房「フュージョンファクトリー」の作品展です。 ガラスの鏡餅・干支等のお正月飾りを始め、桃の節句、端午の節句と日本の歳時をテーマにした作品を展示致します。定番のジュエリーや工房作家の酒器なども取り揃えてお待ちしております。


▲「夕映えの自由の女神」水彩画

真冬の宴 Winter Exhibition at アー トベイス ルセコメロンは無事終了致しました。

年末の慌ただしい中、足を運んで下さいました皆さまたいへんありがとうございました。

展示会は新しい出会いにときめき、長い間お世話になっている素敵な方々との様々な語らいがとても楽しく、この仕事を続けてきてよかったとつくづく思います。。。

心より感謝申し上げます!!



昨日の午後、久しぶりに川崎市にある岡本太郎美術館に足を運び、企画展である「岡本太郎と中村正義 東京展」を鑑賞しました。私はこの美術館の年間パスポートを所有しているぐらい、岡本太郎を敬愛しており、今回で7~8回目の訪問を数えます。恥ずかしながら、中村正義という画家を誰かもあまり分からずに、いつも通り岡本太郎の情熱的な作品から元気をもらおうと軽い気持ちで訪れました。しかし、今回の訪問は今まで岡本太郎美術館を訪れた中で、一番の衝撃でした。中村正義という唯一無二の天才画家をなぜこれまで知らなかったのかと自身を責める程に彼の生き方、思想、行動そして作品群全てに魅了されました。私が初めて岡本太郎の作品と著作に出会った時と同じぐらいの高揚感を覚え、周りを気にする余裕もなく、静かな館内で「うわー」、「マジか」、「なんだこれは」と声が何度も漏れてしまいました!!

なぜここまで私が中村正義に魅了されたのかを簡単に言語化することは困難なのですが、岡本太郎と比較対照を行いながら、特に共感した3点に絞り話を進めたいと思います。

1点目は、中村正義と岡本太郎の日本の美術界に対する徹底的な反骨心です。
中村正義は1924年に愛知県豊橋市に生まれます。幼少期から病弱で、豊橋市立商業学校を中退し、美術学校で学ぶことも出来ませんでした。しかし、中村岳陵に師事した後、1946年、23歳の若さで日展に初入選します。その後、数々の賞を受賞し、日展の中で揺るぎない地位を確立、36歳で日展の審査員にまで上り詰めます。ところが、日本独特の古い体質の画壇そしてその権威主義的体質に嫌気がさした正義は1961年に日展を脱退し、今までの地位を己の意思で捨て去ります。正義はこのような体質を以下の文章のように徹底的に批判します。

「美術界の現実はまさに勲章、賞の世界であり、芸術院(日展)という賞機関が存在する以上、そこはまぎれもなく支配者が牛耳っている世界である。支配者がその支配に服従する人間を身近に置くことは当然で、支配者を批判しないことはその第一条件である。作家とは、この批判精神そのものとも言えるわけであってみれば、まず作家であっては困るわけで、芸術院集団に入ろうと思えば、すでに芸術院賞の段階から、作家放棄してもらわねばならぬわけである。」(『創造は醜なり 中村正義』より抜粋)

日展脱退直後の1962年に原色を用いて描き、伝統的な日本画と一線を画す挑戦的な作品が下の『舞妓』です。


中村正義 『舞妓』 1962

一方、岡本太郎は正義よりも10年以上も前の1911年に生まれます。18歳のとき、漫画家である父と歌人である母と共にフランスのパリへ渡ります。パリでは「何のために絵を描くのか」という本質的な問いかけに対する答えを得るために、ソルボンヌ大学で美学や民俗学を学びます。さらには、1932年に前衛芸術団体であるアプストラクシオン・クレアシオンのメンバーになり、最新の芸術を学んでいきました。第二次世界大戦後、最新の美術を学びパリから帰国した岡本は二科会に所属し、内部から組織の変革を行おうとします。しかし、そこで岡本が目にしたものは、相変わらず画壇が権威を振りかざす古臭い日本美術界の姿でした。

そこで、1950年に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎からはじまる」と岡本太郎は衝撃的宣言を行い、日本の美術界を『石器時代』と呼び、痛烈に批判しました。そして、岡本太郎はあえて、日本の美術界が拒否反応をおこすであろう赤や青等の原色を用いたエネルギッシュな作品を次々と発表します。その頃発表された作品が下の『森の掟』です。

岡本太郎 『森の掟』 1950


最終的に、奇しくも中村正義が日展を脱退した年である1961年に岡本太郎も二科会を脱退します。以上のように、中村も岡本を共に日本の旧態依然とした美術界の現状に徹底的に反抗していったのです。

共感した3点を全て述べると長文になってしまうので、2点目の中村正義と岡本太郎の芸術観、3点目の中村正義と岡本太郎の行動は後日また投稿しようと思います。では今日はこの辺で失礼しま~す( ´ ▽ ` )ノ>

States of Mind Ⅱ: Those Who Go

久しぶりの投稿になってしまい、すみません´д` ;
今回の投稿では、イタリア未来派の旗手であるボッチョーニと彼の連作である「States of mind」についての私なりの感想と未来派の説明を少し書きたいなと思います。日本ではボッチョーニや彼の作品を知っている人は少数派なのではないかと思いますが、未来派の思想や彼の作品の独特な世界観に興味を持ったので、拙い文章ですがしばしお付き合いして頂けると幸いです( ´ ▽ ` )ノ

上の一枚の絵画と下の2枚の絵画「States of mind」はニューヨーク近代美術館(MOMA)に先月訪れた際に、出会いました。この作品を見た瞬間に、これまで目にしてきたどの絵画とも一線を画す存在感に私の心が揺れ動きました。画面を構成する縦や斜めに法則的に引かれた線や決して明るいとは言えない色調にただならぬ緊迫感や不安を感じます。これらの作品を前にするとなぜだか心がかき乱されるのでしばらく見ているだけでも疲れてしまいました。みなさんはボッチョーニの作品をどのように感じるでしょうか。


States of mind Ⅰ: The Farewells


States of Mind Ⅲ: Those Who Stay

私が感じた緊迫感はどこから来るのかと考えていると、ボッチョーニの思想がそうさせているに違いないと感じ、彼が傾倒していった未来派の思想とは一体どういったものであったのか、またボッチョーニは作品を通じ、何を伝えたかったのかを少し説明したいと思います!!

ボッチョーニは1882年イタリアのレッジョ・ディ・カラブリアに生まれます。1907年にミラノに移住後、「未来主義創立宣言」を発表し、未来派の創始者として有名な詩人マリネッティに出会います。この出会いが彼の創作活動に多大な影響を与えたことは想像に難くないのではないでしょうか。マリネッティはこの宣言で、『機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。』(未来主義創立宣言より引用)と主張しました。

イギリスで起こった産業革命以降、科学技術の発展に伴い、イタリアないし列強国を中心に全世界的にこれまでの封建制度から資本主義への転換が徐々に始まっていました。この科学技術の進歩から、大量殺戮兵器が生まれ、社会全体が近代戦争へと突入していきます。科学的な合理的思想や戦争と相まって、社会不安が市民の心の中に強く存在していたのではないでしょうか。このような時代背景の中で、科学技術を否定するのではなく、マリネッティやボッチョーニ等の未来派の芸術家たちは科学技術の進歩を肯定し、自動車、電車、飛行機など、近代文明の産物のもつダイナミックな力やスピードを、新たな時代の美として賞賛していきました。

1910年には、ジーノ・セヴェリーニ、カイロ・カッラ等の未来派の画家たちと共に「未来主義絵画技術宣言」にボッチョーニが署名しました。この宣言の中で、マリネッティの思想を礎に未来派を技術的にどう表現するかを記述しました。例えば、『運動する物体は増殖し、変形し、連続して生起し、振動のように、空間の中を通過する。したがって疾走する馬の脚は4本ではなく20本であり、それらの動きは三角形をなす。』(未来派絵画技術宣言より引用)と宣言します。このように、ボッチョーニはスピードとダイナミックな力を賞賛し、描写対象の動きを一枚の絵に納めようと試みました。

上の三枚の絵、特に一番上の「Those who go」は、無数の画面全体を切り裂くような斜線と画面上部の建物の四角や三角がコマ送りに変化しているかのような表現、そしてキュビズムを思わせる人体表現から、スピード感や躍動感を感じます。この一枚の絵を見るだけで、マリネッティやボッチョーニの未来派の思想を感じることが出来るのではないでしょうか。正直、好きか嫌いで言えば、未来派の思想や絵画は好きではありません。しかし、20世紀の急激な社会変化に対しての不安を見事に描き切っているように思われます。未来派の作品をみるといつも近代版の「諸行無常」(この世の存在はすべて、常であるものはない)だなと感じます。一瞬一瞬、社会や街、人間、感情、自然等々あらゆるものは変化し続けていて、静止しているものはないという真理を自動車や近代的な街並みに託し、一枚の絵に表そうとしたからこそ、スピード感や緊迫感が画面から伝わって来るのではないでしょうか。しかしながら、私はこのスピード感や緊迫感に対して、抵抗感を感じるため、ボッチョーニの作品ずっと見ていると心が疲れてしまいます。