
前回の投稿では、岡本太郎美術館で開催されている企画展「岡本太郎と中村正義 東京展」についての感想と二人の天才画家に対して私が感じた3つの共通点の1つ「中村正義と岡本太郎の日本の美術界に対する反骨心」について述べました。今回は前回の続きである、2点目と3点目について話しを進めたいと思います( ´ ▽ ` )ノ
まず、2点目は、岡本太郎と中村正義の芸術観についてです。
岡本太郎と中村正義はまったく同じとは言えないまでも、互いに共通する芸術観を持っていたのではないかと今回の企画展を通じて考えるようになりました。例えば、まず岡本太郎は『今日の芸術』という自身の著作の中で、芸術に対して非常に面白い見解を示しています。以下の文章が太郎の芸術観の心肝ではないでしょうか。
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。と私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。これは今までに考えられていた、絵はうまく、美しく、快いものであるという価値基準とは、まったく正反対の意見ですから、あるいは逆説のように聞こえるかもしれません。しかし、これこそ、まことに正しいのです。」(『今日の芸術』より抜粋)
このように、太郎はこれまでの一般的な芸術に対する価値観を根底から揺さぶる発言をしました。この本が出版されたのが1954年で、今から約60年も前にこの革新的な宣言をしていたのですから驚き以外の何物でもありません。私は1年ほど前に『今日の芸術』を読み、上記の文章に出会った際、なるほどと納得したのを今でも鮮明に覚えています。今日でも、一般的に大多数の鑑賞者は芸術や絵画はきれいで、うまく描けていて、ここちよいことが必要条件であるかのように考えていると思います。しかし、よく考えてみれば、セザンヌ、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ等これまでの美術史に名を刻んでいる画家たちの作品を初めて見た鑑賞者は果たして、きれいやここちよいと感じていたのでしょうか?ゴッホにしてもモディリアーニにしても当初はまったく認められずに、自暴自棄になり死んでいきました。現在の鑑賞者たち(私自身も含め)はすでに価値が定まっている彼らの作品を安心して「きれい」であるとか「すごい」と言ってはいますが、その当時の価値が定まっていない時に同じ言葉が言えるかどうかは懐疑的にならざるを得ません。この私自身の不安に対して、岡本太郎は明確に指針を示してくれたように思います。さらに、中村正義も芸術に対して同じような主張をしています。
「創造というのはその人間の思想が大変に独創的である場合に、必然的に新しい絵が生まれてくるわけで、その絵は当然見たことのない絵でもあるわけです。かつてセザンヌがその土地の美術館に自分の絵の寄贈を申し込んだ時に、これが断られ、その上にその醜悪さはまさに罪悪に値するといわれたそうです。新しい思想と考えのもとに生まれた新しい絵は、見たことのない、誰の目にもみにくいものであったはずで、当然快いはずはないわけです。逆説的に言えば、みにくく見えるものの中にこそ芸術がある、ということになります。このことは世界の近代芸術にあって、これがすべてであるといって過言ではない。」
(『創造は醜なり』より抜粋)
上記のように、中村も岡本も芸術は醜くあるべきで、岡本的な言葉で言えば「ナンダコレハ」と直感的に思えるものの中にこそ真の芸術があると考えさせられました。
最後に、3点目の岡本太郎と中村正義の行動について少し言及させて頂きます。
二人の反逆の天才画家は共に、観念の遊戯に終わらず、現状を変革するために猛烈な行動の人であった事に私は感銘を受けました。過去、現在問わず、口だけで何かについて批判したり、主張したりしている人は数多くいると思いますが、実際に行動に移した人がどれだけいるでしょうか。行動する人間こそ最も偉大であると私は今回の企画展で感じました。例えば、中村と岡本は二人とも権威主義的な日本の美術界や既存の展覧会を変革するために、東京展というまったく新しいスタイルの展覧会を開催することに奔走しました。特に東京展の事務局長をしていた中村は1975年当時、重い病に侵されながらも、現状を変えるために行動し続けました。不公平是正という人間の最も根源的な理念の名の下に、例えば、肩書きや権力に左右されて公正に判断されてこなかった既存の展覧会に対して、素人、プロ問わず作品を公募できるアンデパンダン形式の展覧会にしました。また、岡本も「われわれが東京展をやるんだったら、今までの価値基準で芸術を判断しないで、まったくフリーに『なんだ、こんな展覧会』といわれるようなもんでやっていいと思うんです。」(東京展機関紙創刊号より抜粋)と発言し、実際に絵を飾るだけでなく、劇や講演などを組み込ませ祭りのような展覧会になるように行動を起こしました。
さらに、中村も岡本も芸術界だけでなく、日本の社会全体に対しても批判し、実際に行動をしました。中村と岡本の数多くの作品をみれば、そのことがわかります。例えば、1974年にはこれまでの作品とは画風が異なる下の絵の『何処へいく』という作品を発表します。

中村正義 『何処へいく』 画面向かって左
この作品は水俣病の公害問題を主題としており、一般人の健康など度外視し、経済成長をまっしぐらに進める経済至上主義の日本社会に対しての批判を感じることができるのではないでしょうか。
また岡本も下の絵の『重工業』という作品を発表しています。

岡本太郎 『重工業』
歯車のまわりに人間が回っており、画面と真ん中にねぎという、「ナンダコレハ」と思わせるような構図です。重工業や資本主義がいかに人間をきりきり舞いさせているかを表しており、かつては機械が人間の奴隷だったが、今や人間が機械の奴隷になっていると主張しているように感じられます。
このように、中村も岡本を日本の芸術の変革という狭い枠を飛び越えて日本社会全体を変革しようと行動していたことが伺えます。彼らは芸術を通じて、怒りをあらわにし、日本人よ行動しろ、本当の生き方をしろと訴えかけているように感じました。最後に中村と岡本の行動に関しての言葉を引用し、終わりにしたいと思います。最後まで読んで頂きありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
「現代、これほど大きなひずみの中で,怒りをもたない人間は、無知か,卑屈か,卑怯者か、いずれにしても偽物です。反骨精神とは、無知と卑屈におかされない正常な人間の本能のようなものです。この本能に対して行動をもたない人間も偽物です。金は持っているが、かっこのよいことを言うが、本当に行動的に怒りを投げかける大人を、私はほとんど知りません。」
(『創造は醜なり』より抜粋 中村正義)
「画家にしても、才能があるから絵を描いているんだとか、情熱があるから行動できるんだとか人はいうが、そうじゃない。逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーも噴き出してくる。何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。」
(『芸術は爆発だ』より抜粋 岡本太郎)