岡本太郎と中村正義の共通点① by Ken | ART BASE PROJECT / ル セコメロン

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美術展企画1991年〜500回以上開催
画家夫 石上誠展の企画から始め、以後私自身に響く作家の作品展を企画し情報発信
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昨日の午後、久しぶりに川崎市にある岡本太郎美術館に足を運び、企画展である「岡本太郎と中村正義 東京展」を鑑賞しました。私はこの美術館の年間パスポートを所有しているぐらい、岡本太郎を敬愛しており、今回で7~8回目の訪問を数えます。恥ずかしながら、中村正義という画家を誰かもあまり分からずに、いつも通り岡本太郎の情熱的な作品から元気をもらおうと軽い気持ちで訪れました。しかし、今回の訪問は今まで岡本太郎美術館を訪れた中で、一番の衝撃でした。中村正義という唯一無二の天才画家をなぜこれまで知らなかったのかと自身を責める程に彼の生き方、思想、行動そして作品群全てに魅了されました。私が初めて岡本太郎の作品と著作に出会った時と同じぐらいの高揚感を覚え、周りを気にする余裕もなく、静かな館内で「うわー」、「マジか」、「なんだこれは」と声が何度も漏れてしまいました!!

なぜここまで私が中村正義に魅了されたのかを簡単に言語化することは困難なのですが、岡本太郎と比較対照を行いながら、特に共感した3点に絞り話を進めたいと思います。

1点目は、中村正義と岡本太郎の日本の美術界に対する徹底的な反骨心です。
中村正義は1924年に愛知県豊橋市に生まれます。幼少期から病弱で、豊橋市立商業学校を中退し、美術学校で学ぶことも出来ませんでした。しかし、中村岳陵に師事した後、1946年、23歳の若さで日展に初入選します。その後、数々の賞を受賞し、日展の中で揺るぎない地位を確立、36歳で日展の審査員にまで上り詰めます。ところが、日本独特の古い体質の画壇そしてその権威主義的体質に嫌気がさした正義は1961年に日展を脱退し、今までの地位を己の意思で捨て去ります。正義はこのような体質を以下の文章のように徹底的に批判します。

「美術界の現実はまさに勲章、賞の世界であり、芸術院(日展)という賞機関が存在する以上、そこはまぎれもなく支配者が牛耳っている世界である。支配者がその支配に服従する人間を身近に置くことは当然で、支配者を批判しないことはその第一条件である。作家とは、この批判精神そのものとも言えるわけであってみれば、まず作家であっては困るわけで、芸術院集団に入ろうと思えば、すでに芸術院賞の段階から、作家放棄してもらわねばならぬわけである。」(『創造は醜なり 中村正義』より抜粋)

日展脱退直後の1962年に原色を用いて描き、伝統的な日本画と一線を画す挑戦的な作品が下の『舞妓』です。


中村正義 『舞妓』 1962

一方、岡本太郎は正義よりも10年以上も前の1911年に生まれます。18歳のとき、漫画家である父と歌人である母と共にフランスのパリへ渡ります。パリでは「何のために絵を描くのか」という本質的な問いかけに対する答えを得るために、ソルボンヌ大学で美学や民俗学を学びます。さらには、1932年に前衛芸術団体であるアプストラクシオン・クレアシオンのメンバーになり、最新の芸術を学んでいきました。第二次世界大戦後、最新の美術を学びパリから帰国した岡本は二科会に所属し、内部から組織の変革を行おうとします。しかし、そこで岡本が目にしたものは、相変わらず画壇が権威を振りかざす古臭い日本美術界の姿でした。

そこで、1950年に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎からはじまる」と岡本太郎は衝撃的宣言を行い、日本の美術界を『石器時代』と呼び、痛烈に批判しました。そして、岡本太郎はあえて、日本の美術界が拒否反応をおこすであろう赤や青等の原色を用いたエネルギッシュな作品を次々と発表します。その頃発表された作品が下の『森の掟』です。

岡本太郎 『森の掟』 1950


最終的に、奇しくも中村正義が日展を脱退した年である1961年に岡本太郎も二科会を脱退します。以上のように、中村も岡本を共に日本の旧態依然とした美術界の現状に徹底的に反抗していったのです。

共感した3点を全て述べると長文になってしまうので、2点目の中村正義と岡本太郎の芸術観、3点目の中村正義と岡本太郎の行動は後日また投稿しようと思います。では今日はこの辺で失礼しま~す( ´ ▽ ` )ノ>