丹波路 明智と織田の城下町へ その2、柏原へ | みののかみのブログ アメブロ版

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美濃国出身・在住のみののかみが日々気付いたこと・感じたことを書き出すもの也

史跡および日帰り天然温泉の訪問記が殆どと成り候

JR福知山線の篠山口行き普通電車を

柏原駅で下車する。

柏原駅の駅舎は、

平成2年(1990年)に大阪で開催された

「国際花と緑の博覧会」(通称;「花博」)での

会場内アクセス鉄道路線の

「ドリームエキスプレス」の「山の駅」駅舎を

博覧会閉幕後に移築したもの。

「ドリームエキスプレス」のもう一方の駅の
「風車の駅」駅舎は、

路線を走っていたSL「義経号」と一緒に、🚂

福井県大飯郡おおい町の

JR小浜線・若狭本郷駅に移されている。

 

朝4時台に朝食を摂ったため、

お昼前でもお腹が空いて、

城下町へ歩き出す前に昼食を摂りたかった。🥢🍚

ちょうど、駅舎内の「レストラン山の駅」で

駅弁の豚丼弁当を販売しているとポスターがあり、

「レストラン山の駅」へ行ってみると、

豚丼弁当は店内でも限定10食提供していて、

迷わず店内で豚丼弁当を注文した。

豚丼弁当(定食)は無事に提供されて、

何も情報の無い城下町へ歩いて行く前に 

数量限定の地産の昼食にありつけた❗🤩

美味しい丹波豚を存分に堪能出来た。🐷

城下町を歩いたら、蕎麦店などもあったが、🍜

小ぢんまりとした市街で、

駅舎で美味しい地産品を食べられたのは

大正解だったと分かった。

 

駅前の国道を越えて市街地を歩き出す手前に、🚶

太鼓櫓の再現があり、

内部では武士の人形が太鼓を叩いていた。🥁
この公園を過ぎると道幅の狭い城下町市街で、
すぐに両側に塀のある道筋に出て、
突き当たったら陣屋前の通りだった。
陣屋前の通りのT字路のすぐ北側に、
旧氷上高等小学校の校舎という
古い洋風の建物があり、気になって入ってみた。
「たんば黎明館」という名称が付いた、
結婚式場としても運営している、👰
普段はレストランをメインにやっている施設で、
内部では柏原の歴史の展示も掲げられていた。
そしてこの建物の隣に
柏原陣屋の御殿の建物が見えたが、
陣屋の向かいの柏原歴史民俗資料館で
歴史展示を観てから陣屋をじっくり見学しようと
歴史民俗資料館に入館した。
歴史民俗資料館の展示室は、
柏原の歴史について、とりわけ
織田信長の弟の信包(のぶかね)に始まる
江戸時代の柏原藩についての
資料展示と説明が多かった。
柏原藩は、織田信長の実弟の信包が
慶長3年(1598年)に与えられた
織田氏の領知で、
信包の後、3男の信則・その長男の信勝と続き、
信勝に男子がいなかったことから
慶安3年(1650年)に
3代のみで無嗣断絶となった。
なお、信包系の織田家は、
信則の弟の信当(のぶまさ)とその子孫が
柏原の近くの3千石の旗本として続いた。
その後柏原は幕府領の時期を経て、
元禄8年(1695年)から、
大和宇陀松山藩主だった織田信休が
父親の信武が自殺した御家騒動の
「宇陀崩れ」の結果として
8千石の減封のうえで2万石で移された。
織田信休は信長次男の信雄の玄孫で、
柏原藩はその後は信休の子孫が代々藩主を務めて、
明治の廃藩置県に至った。
信長実弟の信包に始まり、
信長次男の信雄の子孫で終わった柏原藩。
信長の子孫や兄弟の系統の大名領は、
他には本家である出羽天童藩(信雄系)や
信長末弟の長益(有楽斎)の子孫の
大和柳本藩や大和芝村藩もあるが、
豊臣・徳川と政権が移ると
全国にバラバラに、そして小さくなった、
織田信長の活躍の証だと思う。
信長の子孫の勢力(領知)は、
本能寺の変以後の権力者に潰されたのではなく、
権力者に上手に庇護されて
小さく小さく細分化されてしまったのだ。
それだけ、織田信長という人物が
一人だけ超絶にカリスマ過ぎて、
子孫は遠く及ばなかったということだが。
 
柏原歴史民俗資料館の展示で気付かされたが、
この「柏原」という表記が、
江戸時代には「」と書かれていた。
明治初めにつくりの「百」から1本取られて
「柏(かしわ)」の字に改められたが、
もともとの「」の字は、
カヤの木を指す「榧(かや)」の旧字で、
勿論、カヤの木とカシワの木は
全く種類が異なる植物。🌲🌳
もっとも、「柏」の字は、日本では
マツの木以外の針葉樹全般を指したようで、
「栢」から1本無くなっても、
同じ針葉樹を指していたことは間違いない。
しかし、「」となったことで、
近畿地方の同じ漢字を使用する地域と
混同しやすくなってしまった。
JRの鉄道駅でも、
この兵庫県の福知山線の柏原の他に、
大阪府の大和川が大阪平野に出るところの
関西本線(大和路線)の柏原(かしはら)、 
そして滋賀県東端の伊吹山麓の
東海道本線の柏原(かしわばら)とあり、
乗り換え案内アプリなどでは
カッコ書きで府県名を後付けに付けなければ
駅名入力がまったく出来ない。💻📱😟
結局、「かいばら」の読みだけが
この地には古今共通して認識されている。
 
歴史民俗資料館で「栢原」と描かれた文書を見て
私は、岐阜県内の私の先祖ゆかりの土地と
同じ漢字がここでも使われていたのだなと
感慨深くなった。😢
我が家にゆかりの土地は、
美濃国山縣郡大桑村(現;岐阜県山県市大桑)の
栢野(かやの)で、
現在でも小字の集落名称として
「栢」の字を使用している。
おそらくは、兵庫県の栢原と同様に、
山の麓で針葉樹が多かった土地のためだろう。
栢野出身の亡くなった祖父も
「栢」の字は滅多に見ないと言っていたが、
私も、岐阜県山県市の栢野以外では
初めて同様の「栢」の字の使用を見た。
 
柏原歴史民俗資料館の展示をひととおり見たら、
道路向かいの柏原藩陣屋へ。
江戸時代以来の長屋門が道路際に建ち、
その奥に陣屋の御殿の建物が遺されている。
長屋門の前の石碑は、
「栢」の字を使用せず原」となっている。
陣屋御殿は、歴史民俗資料館の入場券があれば
内部を見学可能で、
とは言っても扉が開けられたまま無人の 
陣屋御殿の玄関に入る。
玄関の上の唐破風屋根の上に
織田氏の木瓜紋が掲示されていて、
よく見ると、信長などによく見る
木瓜紋とは少し意匠が異なると分かった。 

紋の木瓜の花の中の星形の部分が
この柏原藩陣屋では小さくなっている。
柏原に入封した織田家は、
上野小幡⇒出羽天童の本家とは一線を画す意味で
家紋の意匠を変えたのだろうか。
 
陣屋御殿の内部は、撮影禁止だったが、
畳敷きの各用途の部屋がいくつもあった。
柏原藩陣屋は、この現存の建物だけでなく、
周囲にもっとたくさん広がっていたが、
学校(丹波市立崇広小学校)などに変わり、
現在は歴史遺産として一部のみ遺されている。
丹波市立崇広小学校は、
校舎や体育館の屋根を陣屋風にしている様子だが。
そして歴史民俗資料館に、
陣屋すべての復元ジオラマが置かれていた。
 
柏原の市街地で、陣屋は東端にあり、
かつては陣屋の前に武家屋敷町、
そしてその西に町人町があった。
このため陣屋から西へ歩いていく。🚶
歴史民俗資料館のすぐ隣に、
柏原藩の藩祖と言える織田信包の石像があった。
そして西へ進んでいくと、
織田信長を祀る「建勲神社」があった。⛩️
京都市、山形県天童市、そして兵庫県柏原と
織田氏ゆかりの地にある建勲神社。
明治になってから出来た神社だが、
織田信長の直系子孫が治めた誇りを感じられる、
織田氏の城下町の象徴の神社だと思えた。
 
建勲神社からさらに歩き、町人町に入ると、🚶
商店街の通りが南北方向に通っていて、
「観光案内所」の行き先表示板を見て北へ歩く。
商店街の通りへ出て程なく、
「丹波市役所柏原支所」と書かれた
歴史ある建物があり、気になって立ち寄る。
内部は立ち入り自由で、
明智光秀と赤井(荻野)直正のパネルがあった。
青い明智光秀と、文字通り赤い赤井直正
明智光秀のパネルは、
桔梗紋などにちなんで青色なのだろうが、
明智光秀に本能寺で討たれた
織田信長の直系子孫の領知の柏原では、
『麒麟がくる』放送中でも、
これでも控えめな展示なのだろう。
また赤井(荻野)直正は、
柏原の近くの黒井城の城主で、
その剛勇から「丹波の赤鬼」と呼ばれた人物。
近い一族(弟の幸家の子孫)と言う人物に、
元ボクサーでタレントの赤井英和さんがいて、
この赤井直正の台詞は、赤井英和さんにちなみ、
「どついたるねん❗」 となるのかなと思った。
 
この「丹波市役所柏原支所」の隣に
観光案内所の建物があり、出入り口に、
織田信包と、信長や信包の姪の
江姫(浅井長政とお市の方の3女)の
顔ハメパネルがあった。
NHK大河ドラマで江姫のドラマを放送したとき、
織田信包も近い親族として登場したので、
その放送中に出来た顔ハメパネルなのだろう。

観光案内所で観光地図をもらって
柏原市街地の見どころの情報を得ると、 
その観光案内所のすぐ向かいに、
「織田神社」が鎮座していた。⛩️
織田信包の孫で、前期織田氏第3代藩主の
織田信勝を祀っていると説明板に書かれてある。
そして後期織田氏の藩政になってから
現在地に移されたとのこと。
また「織田神社」の石碑は、
最後の柏原藩主の織田信親の筆とのこと。
柏原藩主織田家は、
幕末の1850年代になって
信長―信雄の最後の血統の鶴姫の婿の
信敬(のぶひろ)が亡くなって
夫婦に子供が無かったことから、 
信長直系の血統が絶えてしまった。
その後2代他家からの養子が続いて
明治の廃藩置県に至っていて、 
最後の藩主の信親は
備中成羽領主の山崎家から入った。
 
さて、この織田神社の土塀の瓦に
織田氏の木瓜紋が付けられているが、
信長や織田本家の紋とほとんど同じ、
中央部が大きな5葉になっている。
柏原藩の後期織田家は、
中央部が小さな星形の
意匠の違う木瓜紋ではなかったかなと思った。
 
この町人町の商店街をまっすぐ南へ進めば
JR柏原駅にたどり着くが、
藩政時代に建てられた太鼓櫓が近くにあると知り、
見に寄って行った。🚶
そういえば、同じ兵庫県内の
出石(豊岡市出石町)にも
城下に太鼓櫓(辰鼓楼) があるが、
出石の辰鼓楼は明治初めに出来たもので、
こちら柏原のものは
江戸時代の藩政で建てられ使用されていた
幕藩体制仕様の太鼓櫓ということになる。
 
太鼓櫓の内部には入れず、
商店街をJR柏原駅へ歩く。🚶
来たときにも気になったが、
商店街の店舗や家々の
シャッターや窓に、市民の俳句が
中央の「麒麟がくる」を挟んで
2句1セットでいくつも貼り出されている。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の
放送を意識した企画なのだろう。
しかし柏原は、織田氏の町。
織田信長を襲った明智光秀の
ドラマに合わせて『麒麟がくる』と
俳句の掲示に出すのは何故だろう❗❓と
不思議に思った。
「麒麟がくる」をドラマの主旨通りに 
平和がもたらされると解釈すれば良いのだが、
柏原が織田信長の直系子孫の城下町だけに、
「明智光秀がくる」と解釈するのは
ここではタブーだなと思ってしまった。
 
JR柏原駅の駅舎に戻ったのは
篠山口行きの普通電車の発車時刻の
30分ほど前だったが、
待合室のテレビで
台風10号の進路の中継と被害予測を
断続的に放送していて、📺🍃🌀☔
しばらく見入ってしまった。
乗車する電車は14:38の発車で、
篠山口駅で大阪行きの快速に乗り継ぎ、
福知山線がJR神戸線に合流する
尼崎駅で敦賀行きの新快速に乗り換える予定。
米原駅には17:58に戻れる予定で、
20時からのNHK大河ドラマの放送を
自宅に帰って視聴出来る帰路だった。📺❇️
しかしNHKは台風10号関係の報道を
終日続けることになって、
大河ドラマの放送が中止となった。
SNSで放送中止を知り、
NHKの公式サイトで確認したら
放送中止になったことが出ていた。📱
九州の西海岸を今年最大級の台風が
直撃する進路予想のため、
台風10号関係の報道が優先されるのは
やむを得ないと分かったが、
そのおかげで、
20時までに帰宅しなくても良くなった。
ただし天気が非常に不安定のため、☔⚡
米原駅までまっすぐ戻ってクルマに乗り、
食事や買い物に訪れる場所を考えながら
帰宅のルートを走ることにした。🚘
 
14:38定刻に 
篠山口行きの普通電車に乗車する。
電車は奥丹波の長閑な渓谷を進み、
篠山口駅のホームで
大阪行きの快速電車に乗り継いでも、
しばらくは長閑な山間部を進む。🏞️
三田の盆地に入ると
周囲の丘の上に住宅団地や学校が見えて、
停車駅での乗客もどんどん増える。
福知山以来のまとまった市街地にある
三田駅に到着すると、乗降ともに多くなったが、
天候が急変して本降りの雨になった。☔
福知山線は三田駅の先は
武庫川の峡谷をトンネルの連続で抜けて🚇
宝塚駅に到着し、その先は、
平坦な大阪平野の市街地の中を尼崎駅まで走る。
尼崎駅でJR神戸線➡️JR琵琶湖線の
敦賀行きの新快速に乗り換えて、
米原駅まで最後の電車乗車となった。
雨は米原駅に到着しても降り続いていて、☔
持ってきた折り畳み傘を差して駐車場へ歩き、☂️
クルマに乗って岐阜県へ戻った。🚘

夕方に関西地方から帰るときは、
大垣市内に入ると、国道21号線沿いにある
「ふくちぁんラーメン」に寄って、
帯広豚丼を食べていくことが多いのだが、🥢🐷
今日はお昼に美味しい丹波豚の豚丼を食べたので
別の食事どころを探して走り、
瑞穂市内で鶏白湯ラーメンの店を見つけて
夕食に寄って行った。
時刻は20時過ぎ。🕗
NHK大河ドラマを観られなくなったことで
ゆっくりとラーメン店を探して
ゆったりと夕食を摂って帰宅した。🚘🏘️