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令和×年に「018(レイワ)」を足すと...西暦になる! 覚えやすすぎる換算法が早くも発見

 

2019年5月1日からの新元号「令和」が発表された。

 

和暦と西暦の両方を使う日本では、それぞれの変換がしばしば話題になる。しかし「令和」では、あまり悩まなくてもよさそうだ。

 

「狙ってるんですかね?」「とても便利」

昭和を西暦に換算するときは、和暦に25を足すと簡単だ。これは1926年が昭和元年だったことから、毎年「1925+和暦の年数」が西暦の年数になるためだ。同様に平成は、1989年が元年だったため、「和暦の年数プラス88」もしくは「マイナス12」で西暦の下2ケタになる。たとえば平成31年は、31マイナス12で「(20)19」だ。

 

この法則から行くと、令和と西暦の換算は「和暦の年数に18足す」ことでできる。「018(レイワ)」の語呂合わせで覚えられると話題になっているのだ。たとえば5月から始まる「令和元年(1年)」なら、「018」を足すと「(20)19」といった具合である。ツイッターでは、

 

「あ、今後は018(れいわ)を足せば西暦になるのか」

「令和(018)を足すと西暦になるって狙ってるんですかね???」

「未だに平成何年かパッと出てこないので令和が西暦-18と覚えられたのはとても便利」

といった反応が出ているほか、新元号を決める閣議に参加した柴山正彦文科相も、

 

「なるほど、新しい年数に『れいわ(018)』を足すと西暦か...」

と感心しているようだ。

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慶応

“慶雲応輝,皇階授木。”

《昭明文選》

 

明治

“聖人南面而聴天下,向明而治。”

《易経》

 

大正

“剛中而応,大享以正,天之道也。”

《易経》

 

昭和

“百姓昭明,協和万邦。”

《尚書》

 

平成

“父義,母慈,兄友,弟恭,子孝,内平外成。”

《史記》

 

令和

“初春令月 気淑風和。”

《万葉集》

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参考

 

令和×年に「018(レイワ)」を足すと...西暦になる! 覚えやすすぎる換算法が早くも発見

 

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新元号「令和」、発表前に天皇陛下と皇太子さまに報告 / 元号有識者懇談会のメンバー発表 山中伸弥京都大教授ら9人 

 

京都 <万葉集ブームの光と影:「令和」>考案者浮上に「何も知らない」 新元号、万葉集研究の中西進氏 /「令和」の元ネタは中国の古典なのに 

 

<万葉集ブームの光と影「令和」> ロバート・キャンベル(日本文学研究者 VS 東京大学史料編纂所の本郷和人教授 (歴史学者)「(国書か漢籍か、超えた元号) VS (『令』が抱える3つの問題)」オマージュ?インスパイヤ?パロディ?パクリ? 

 

新元号「令和」をめぐって:世界各地で話題 「ルーツは中国」(「令和」の典拠は、万葉集 VS「帰田賦(きでんのふ)」という詩)「コナン心配」 

 

<京都 VSOP 祝> 令和×年に「018(レイワ)」を足すと...西暦になる! 覚えやすすぎる換算法が早くも発見

 

 

新元号「令和」公布 5月1日施行 出典、初の国書 5月1日午前0時から施行/会見要旨

 

京都 春の賀茂川 上賀茂神社から下鴨神社エリアの春スイーツを楽しもう!/京都・東山は名所と桜が集まる絶景エリア!東山の桜名所めぐり6選など

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令和「ビューティフル・ハーモニー」で訳語統一

 

 新元号「令和」の英語の訳について、外務省は、「美しい調和」を意味する「ビューティフル・ハーモニー」と統一し、外国政府などにこの訳語で説明するよう在外公館に指示しました。

 

 外務省によりますと、新元号「令和」が発表された直後、海外のメディアでは「令」の意味について、「命令」の「令」にあたるオーダー(order)やコマンド(command)と説明する記事が見られました。

 

 このため外務省は、「令」は「美しい」、「和」は「調和」の意味であり、「令和」を英訳する際は「美しい調和=ビューティフル・ハーモニー」という訳語で統一し、外国政府や海外メディアにそのように説明するよう、在外公館に指示したということです。

 

 安倍総理は「令和」について、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」とする談話を発表しています。

 

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令素(れいそ)令幾(れいき)令誠(れいせい)

 

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改元めぐる京都秘史 京の学者、幻の「文思」案 平成誕生前

 

時を司(つかさど)る。その伝統はかつて京都にあった。

 時代を名付け、時代を区切り、世の空気を変えようとする古いしきたり。元号は時代の歯車を動かす象徴とされた。海亀の甲羅を焼き占った江戸期の大嘗祭(だいじょうさい)の仕儀や「改元部類記」を、京都の社家や旧公家は伝えてきた。昭和まで京都は「即位の地」だった。

 中国の影響を受けて、日本では孝徳天皇の「大化元年」(645年)から、元号制度を始めた。珍しい亀が見つかった、天災や不吉なことがあったなどの理由で1人の天皇の治世で何度も改元した例も多い。漢字4字の年号もあった。日本の古典から引用した例は過去ない。

 江戸時代、京都の公家が中国の古典から年号を選ぶことを「難陳」といい、当時から「閑議論なり」などと批判があった。「平成」は元治2年(1865年)にも年号候補の一つになっている。明治政府により、中国の清朝にならった「一世一元」が制度化された。

 「平成」に年号が決まったプロセスは極秘裏に進められた。昭和天皇が亡くなったその日の午後、新元号が発表された。誰が、どう関わったのか。なぜ深く秘する必要があったのか。

 1984(昭和59)年。京都市左京区北白川を、内閣内政審議室長が密かに訪れた。訪問先は貝塚茂樹・京都大名誉教授宅。東洋史の碩学(せきがく)で、弟はノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹。

 貝塚氏は、新元号案の考案者になるよう依頼された。貝塚氏は仏文学の桑原武夫・京都大名誉教授らと元号法制化への反対声明に署名したこともある。しかし、元号考案を引き受けた。

 「文思」

 「天章」

 「光昭」

 提出した3案。第1候補は、書経から選んだ「文思」だった。

 過去に使用例がなく、国民の理想にふさわしい漢字2字。出典も問われる。元号案は難題だ。孫は「平成になってから、祖父が元号考案に関わったと祖母から聞いた。『文思』だけ教えられ、祖母と2人でいい字だと話した記憶がある」と振り返る。

 だが貝塚案は幻に終わった。

 「平成」の元号制定に関わった当時の竹下登首相、小渕恵三官房長官(のち首相)ら限られた数人のうち1人が、内閣内政審議室長となった的場順三氏。大津市出身で膳所高から京都大卒。前任者から引き継がれ、元号を提出した後の貝塚氏宅を密かに何度も見舞った。「候補案は目にしましたよ。しかし、経緯を自分の口からは言えない」と的場氏は語る。

 「お願いした学者の方々にも迷惑がかかるので。しかし20年が過ぎたら、誤った話が流布しないよう、一定明らかにしようと竹下さんと約束した。『平成』の考案者は山本達郎さん=東京大名誉教授、東洋史=です」。元号に込めた思いとは何か。重い口を開いた。

 「元号は新しい時代へ向かう縁起が良いものなので、物故者の案はふさわしくないとの声があった。一方で、この人なら、と学者の間で納得する方でなければならない。秘匿しようということになった。別の京都の学者にも依頼したが、断られた。『名誉なことだけど』と少し考えておられたが、重かったようだ」。昭和天皇の病状が重くなる中、「当時、私は常に漬物石が頭にぶら下がった状態だった。前任者からは『自分でなくてよかった』と言われましたよ」。

 最終的に官邸にあったのは3案。「正化」「修文」「平成」だった。昭和天皇が崩御した日に有識者懇談会を経て竹下登首相らが決定、官房長官が新元号を発表した。即日改元ではなく翌日に改元したことや「皇室行事」といった言葉使いに対し、的場氏は「関西の右翼団体から、何度も脅しを受けましたよ。不敬だと。命の危険もあった」と話す。

 四書五経を声に出して読む素読。かつて東洋の文人共通の教養だった。元紀州藩士だった祖父に、小学校へ通う前から素読をたたき込まれた貝塚茂樹氏は、京都大卒業後、京大人文科学研究所で甲骨文字に代表される出土資料に着目した研究に没頭した。「史記」「論語」の訳注を始め、日中の比較文化や中国近代史にも造詣が深い大家だ。

 元号案は昭和の終わりごろ、首相が選んだ数人の有識者が各2~5案を提出した。元号法に基づき、国民の理想としてふさわしい良い意味▽漢字2字▽過去に元号として用いられていない-などと1979年に閣議決定されている。貝塚氏もこれを踏まえ、「文思」「天章」「光昭」の3案を提出したとされる。

 3案のうち、文思は、中国の代表的な古典である五経の一つ「書経」の中の「放勲欽明 文思安安」から取った。

 天章は、中国最古の詩集「詩経」の一節にある「倬彼雲漢 為章于天 周王寿考 何不作人」を引いた。「大きく浮かぶ天の川は、天上界にあやをなす。周王よ、いつまでも人の命をながらえたまえ」と訳され、次の時代への希望を込めたと考えられる。

 光昭は、「春秋」の解説書である「左氏伝」のうち、「光昭先君之令徳 可不務乎」が出典。

 貝塚氏は、62年に出版した著書「山荘旬日」の中で、元号について触れている。

 ≪昭和の年号をつけるか、西暦によるかなどというような問題は、われわれの年代の人間にとってはかなり重大な問題である。年号は日本、中国では天皇制、皇帝制に直結した重要な制度であったのであるから≫

 「われわれの年代」。中国文化に親しみ、漢学者を尊敬していた貝塚氏の目に、日中戦争へと突き進む日本はどのように映ったのか。戦争で仲を切り裂かれた、学問を通して交流した中国人の友人たち。第2次世界大戦では、末弟の小川滋樹氏を戦病死で失った。

 「貝塚先生も軍人が威張っている世の中や、軍事的主張を嫌っていた。当時の学者はみんなそうだったでしょう」と教え子はつぶやいた。「文という字を元号に使ったところに、貝塚先生の強い気持ちが表れている。平和への願いを込めた案だったのでしょう」

 改元は「天皇の崩御」が前提となるため、昭和に政府から考案者として委嘱された学者たちは口を閉ざした。貝塚氏は87年に他界した。

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