人間の運・不運を考える | iPhone De Blog

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2009年12月7日からスタート
iPhone3GSからiPhoneユーザのLEONがiPhoneやAndroidなどを中心にしたデジタル系ガジェット、IT関連ネタ、趣味のコントラバスやチェロを中心としたクラシックネタ、2022年から始めた自家焙煎に関する話や日常の話まで幅広く書いてます。

人間の運・不運は大小の差はあれ、日々やってくる。


大きな不幸と言えば、やはり今回の地震の様な天災に遭遇して、命を亡くしたり、財産を亡くすことだろう。


それに引き換え、小さな不幸と言えば、今朝、寝ぼけてiPhoneを脱衣籠の上にポンと置いて、顔を洗って、iPhoneを置いたことを忘れて、そのままその下に置いてあるベルトをパッと引っ張った拍子に足の上にiPhoneが落ちて痛かったことが思い当たった。


しかし、小さな幸運と言えば、これが床の上にでは無く、足の上に落ちたので痛かったが、iPhoneは無事だったことだ。


大きな天災で被害に遭った事は無いが、そのくらいの大きな不幸と言えば、僕の場合、幼少時に母親が投げた箸が右目に当たって失明した事だろう。


冬の寒い日に僕が火鉢の上に座っていたのを叱った時に、勢いに任せて投げたようだが、丁度タイミング良く僕が振り返ってそれも先が当たってしまったという訳だ。


ホント世の中、何でそのタイミングでということは多い。

しかし、僕は自分の経験から、どうも、この手の運と言うのは結局、±0の様だと思っている。

これは「塞翁が馬」と言う故事がある様に、昔から言い伝えられているが、右目を失って、直接良いことは無かったが、反面、ちょっとした事で「運がいいな」と思うことは多い。

特に人との出逢いに関しては相当運がいいと思っている。

勿論、これは気のせいなのかもしれないし、元々、人との出逢いに関して運が良かったかもしれない。

只、先に引き合いに出したiPhoneの件でも、足に当たって、「くっそー」と思うか、「床に落ちないで良かった」と思うかで、その日の気分は全然違うだろう。

例えば、先日、僕は高速道路で事故渋滞に巻き込まれた、それも太宰府インターの手前、上り線の夕方の時間だったので、結局、1キロ抜けるのに2時間掛かった。

実は、その日は下り線でも同じように事故渋滞に巻き込まれていたので、1日に二度巻き込まれた事になる。

滅多に高速に乗らないのに、何で今日に限って2度もと思ったが、実は、夕方の方の事故は、予定より帰りが若干遅くなって巻き込まれていて、もしかすると、予定通り帰っていたら、その事故そのものに巻き込まれていたかもしれない。


何で、今日、こんな事を書いているかと言うと、ブログ友達さんが、どうも不運な事故に巻き込まれて凹んでいるからだ。

その事故も、何で、こんな日に限ってと言う様な状況の積み重ねの事故で、不運としか言い様が無い様だ。

幸い、事故と言っても、駐車中の車が被害にあっただけで、本人は乗車していなかったので無事だったが、もし事故の状態や乗車中、もしくは車から降りた時だったら車の被害だけで済まなかったかもしれない。

そもそも、その場所に停めなければよかったのかもしれないが、運命の神様は中々皮肉だ。

まるで、試している様に、そういう時に限って、とんでもない事故が起こる。

しかし、先に書いたように、もっと悪い状況はいくらでも発生する可能性はあった筈で、そうならなかったのも運命だ。

今回の地震でも、その様な紙一重の状況は沢山あった様だが、不運な人はそこで命を亡くしているし、幸運な人は助かっている。

恐らく、どちらもそれ程差は無かっただろう。

まあ、そう言う意味では、人間の命と言うのもあっけないもので、日々生きていることを感謝しながら生きるのが人生なのかもしれない。

だからこそ、僕は日々、自分のやりたい事もやっている。

もしかすると明日は来ないかもしれないからだ。

形のあるものは壊れるが、真理は永遠であり、その真理を求めるのが人生だ。と言う話を昨日ラジオで耳にしたが、「あ~確かにそうだよね」と同感した。

良い事があっても感謝し、悪いことがあってもそれ以上悪くならなかった事に感謝すれば人生もう少し楽しく生きていける気がする。

小さいが、僕は今朝のiPhoneが足の上に落ちた時に、ふとそんな事を思ってみたが、修行が足りない僕の場合、もっと大きな事故でもそう思えるのかどうかはまだ分からない。

只、少なくとも小さい事から積み重ねていくことが大切だろう。


ブログ友達さんも早く元気になることを願ってる。