東日本大震災のこと2018 | 『拝啓、夫が捕まりました。』でんどうし奮闘記

『拝啓、夫が捕まりました。』でんどうし奮闘記

鬱で元被害者の妻とつかまった夫の奮闘記。

こんにちわ。

今日はちょっと趣向を変えます。

 

 

 

本当は時間があったらやりたいことも

あったのですが、今回は私の話をします。

 

 

 

震災から7年ー。

今日まで私は何をしていたかなと思い返すと、

仕事してたなってカンジです。

そこには一変の歪みも無くて。

ただひたすらに、仕事してたなってカンジです。

20代はコスプレすることに躍起になってて、

仕事をおろそかにした時期も

ありましたが、今はコスプレを減らしても

仕事かなって。もう一人じゃなくなったので。

家族も出来たので養わなければならないし、

自分の好きなことだけする時期は

終わったのかなって。個人的に思っています。

 

 

 

震災の日のことを書きます。

(※それぞれに事情があると思うので

ここからダメな人はブラウザバックです。)

 

 

 

私は当時、この会社にいて、

その日もデスクで仕事をしていました。

その日の何日か前から大きくない揺れは

ちょこちょこあって、地震大国なんだなと

思うだけで、その日、自分が震災に

巻き込まれるなんて夢にも思っていませんでした。

 

 

 

揺れ始めたな、と思ってから

すぐにその揺れは大きくなりました。

すぐ机の下にもぐり、当時居た会社には

中国人が2名居て、地震に耐性の無い彼らの

悲鳴が耳に入りながらの1度目の揺れ。

デスクの書類は床に落ちて、棚のファイルも

少し落ちました。

 

 

 

その日をまたいで会社の社長は

中国に出張へ行っていて不在で、

経理の同僚が、現場判断で会社の建物から

一度出ることを決めました。貴重品だけ持ち、

会社から数メートルの国道に出た時、

 

 

 

2回目の大地震。

 

 

 

私の勤めていたその会社は東京の中央区にあって

国道から、中央区のビル群が一望できるところで

高層ビルが左右に大きく振れているのを

目のあたりにして、

 

 

 

ああ、私は死ぬかもしれない

 

 

 

そう、初めて思いました。

 

 

 

 

2回目の大きな揺れで、他のビルから

出てきたサラリーマンやOL達も

まだ車の走っている大きい国道の

真ん中に避難して、驚いたドライバー達が

皆車に急ブレーキをかけました。

車には震度7の揺れは気づきにくいんだと

この時初めて知りました。

ドライバー達もやっとただ事ではないのだと

その時気付いたと思います。

パニックになっている中国人の

同僚女性を抱きしめながら

なんとかその揺れが収まり、

広い公園へ同僚たちと向かうことにしました。

中央区のその公園には、すでに避難してきた

多くの中央区のサラリーマンやOLが集まっていました。

時折余震でまた揺れて、公園内にある神社の

立てつけの悪い古い窓ガラスが

ガタガタうるさかった。余計怖かった。

空を見上げると、経験したことのない大地震で

カラス達が円を描くように飛んでいました。

 

 

 

鳥が道に迷うって、ああいうことを言うんだなと思いました。

 

 

 

外はまだ寒くて。

 

 

 

とにかくこれ以上は無いだろうと、

会社へ一度戻ることに。

社内は会社を出た時よりもぐちゃぐちゃで

PCは倒れていました。

所内は大丈夫でしたが、会社の建物の

踊り場の窓ガラスが縦にヒビが入っていました。

後から気が付いたことですが、中央区の

ほとんどのビルが根元からヒビなどが入り

コンクリートが剥がれていたりしました。

当時の会社社長がアレだったので

すぐ会社から帰ることも出来ず、

中国への連絡もつかない。

結局定時まで会社にいて

駅に行くと電車は全線不通。

会社に戻りました。

 

 

 

暗くなってから経理の同僚に

「女性は外に出ないほうがいい」そう言われました。

私は当時20代後半。

それを聞いてからぞっとして、会社に泊まることを決めました。

(※震災などが起きた時、犯罪率が高くなることが

統計で解っています。強盗etc。)

もちろん震災を想定した装備などは何もなく、

経理の男の子が買ってきてくれたコンビニ飯を食べて

社長のゴルフマットを敷いてその夜は眠りにつきました。

 

 

 

次の日の朝、なんとか地下鉄は動いていましたが

千葉の実家に帰るのは本当に大変で。

家路を急ぐ人で都内の電車は超満員。

時々電車は止まり、千葉まで行くハズの電車は

東京の端で折り返し運転。

結局埼玉を一部経由しての帰宅でした。

帰宅時間はおよそ7時間強。

通常電車で1時間程度の距離でした。

 

 

 

3人家族の実家は、私が一番最初に

家に辿り着きました。

家の中は思ったよりも普通でしたが

私の部屋の固定していないテレビが

倒れ、兄弟の部屋の家具が

ズレたことにより兄弟の部屋の

ドアが開かなくなっていました。

後に、家の中のいたるところに

クロスの割れ目を見つけました。

家が歪んだんですね。

それと屋根が少しズレたようですね。

隣の家のおばさんが教えてくれました。

近くの瓦屋根のおうちも屋根が吹っ飛んでました。

我が家は築年数が浅かったので

この程度で済んだようでした。

(ですが隣の家の、家の土台のコンクリートに

ヒビが入ったようでした。)

 

 

 

休む間もなく買い物に出ました。

もし、この家が地震で倒れても、家の廃材を薪にして

1ヶ月野宿出来る程度の備えを買いに。

そしてスーパーが混乱することを、

私は人生経験上知っていたからです。

お昼過ぎに辿り着いたスーパーには

まだかろうじて食料が残っており、想定出来うる

最低限の買い物をしてスーパーを後にしました。

後にスーパーは在庫切れの連続で

牛乳などを手に入れることが

困難になりました。

 

 

 

その後も大変だった。

とにかく眠れなくて。

また眠れても疲れが取れない。

参っていたんだと思います。

震災の日から一週間ほど経って、親友に電話もしました。

弱音を吐いてしまった。

宮城に嫁いだ友達ともその後1ヶ月間

連絡が取れませんでした。

後に高台に逃げて、実家のある新潟に

身を寄せたと聞きました。

私は強運の持ち主で、

私の知り合いは誰一人、震災で亡くなっていません。

自分の強運に、これほど感謝したことはありませんでした。

 

 

 

以上が、私が話せることの全てです。

多くの人が、この震災で少なからず影響を受け、傷ついた。

傷つかない人間なんていない。

私はそう思います。

 

 

 

避けてしまいがちだけど、

これだけは書き記しておかなければと思いました。

大切なのは風化させないこと。

そして物書きの端くれである以上、

書き続けること。

今後も続けていきたいと思います。

 

 

 

もし、私が今ステージ4のガンだったとしたら

もう今出来ることをやるしかないんです。

賛否両論があるでしょう。

おおいに罵って下さい。

でも、口に出して、無かったことにしないことが大事なんです。

 

 

 

ここまでお疲れ様でした。

今日だけでも、震災の日のことを

思い出したってバチは当たらないと思います。

忘れたい、思いもあるかもしれません。

でも忘れてしまったら、本当に無かったことになってしまう。

私は嫌なんです。

それだけは。

 

 

 

明日は通常に戻します。

お付き合いありがとうございました。

でんどうしでした。