恵まれない幸せ
恵まれる不幸せ
ダイソウ産業 矢野博丈
これは今では有名なダイソウ産業の創業者、矢野博丈氏の苦難の人生から生まれた言葉である。
氏は大学生時代に結婚して、広島の妻の実家の後を継ぐが多額の借金を抱えて夜逃げをする。
東京までの妻と子供達との逃避行は後年になり同じ道の風景を目にする度に涙が止めどなくあふれてきたと言うことです。
東京に出てきてからも苦難は続き五年間で9回の転職を重ねた。
ああ、運命の神様は俺のことを毛嫌いしているんだ。
と、強い挫折感にうちひしがれたという事です。
29歳の時に見よう見まねで当時賑わっていた雑貨販売の仕事を始め、公民館や空き地での販売に出かけて居た。
ある日、雨が降っていて本日は休もうと思って居たら、10時頃には晴れたので慌てて現地に着くと、大勢のお客さんがチラシを抱えて待っていた。
いつもはお客さんが来る前に品出しや値付けをして居たが、お客さんが箱を開けて、これは幾らとあちこちで聞いてくるので、ええいめんどくさい、ぜんぶ100円でいい、というと飛ぶように売れたという事です。
これが100円ダイソウの原点だと言うことです。
その後も火事に遭ったり苦難は続いたという事ですが、あるお坊さんの言葉に人生の考え方を知り、人一倍の艱難辛苦は女神に見限られているにではなく、運がいいのかもしれないと思うようになったと言う。
それから少しずついいことが続くようになっていったという。
氏は苦難が大きかったので入社式でいずれこの会社はつぶれると言って来たという。
だから危機感が強く常に変化と新製品を出し続けてお客様を飽きさせない。
恵まれない幸せ、恵まれる不幸せは、氏の艱難辛苦の中から生まれ来た。
現在、女子卓球の世界がこのことばの通りに動いている。
伊藤美誠選手がパリ五輪個人を落ちた。
変わりに女子個人代表は早田選手と平野選手というどちらもリオと東京で補欠になり代表選手の練習相手になり恵まれない時を過ごした。
そして今幸せを手にした。
今度は伊藤選手が恵まれない幸せを手にする番である。