僕の幼少期(サマータイム) | 吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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昭和23年。

僕が5歳になる。


サマータイムが5月から始まり、

お母ちゃんは時計の針を進めていた。

日本初のサマータイム実施であった。


ロンドンオリンピックの開催があったが、日本は不参加である。

日本は戦後が終わらず、東京裁判中であった。


次のヘルシンキオリンピックは僕たちも鉛筆を買って

日本の参加に協力した。

そのくらい日本政府はお金がなかった。


東南アジアはビルマ、インドネシアなど日本兵が引き揚げた後

欧米と独立戦争をしているところが多かった。


特にインドネシアでは日本兵数千人が残って

インドネシア独立のため戦い、そして死んでいった。

それは特筆すべき日本人の誠である。


8月、大韓民国樹立宣言があった。

9月、朝鮮民主主義共和国成立があった。


韓国は抗日戦争と言っているが、

実際は日本と戦争をしていない。


日本兵が去り米兵が進駐してきたとき、韓国の民衆は

万歳をして喜んだが、それは新たな苦難の始まりであった。


詳しい内乱については今日述べないが、

この年ようやく韓国政府が樹立されて、

北朝鮮とともに、平和がおとずれるかに見えたが、

両政府とも強権による政府であり、南北の衝突は避けられない

方向へ走り始めていた。


10月再び吉田内閣が誕生した。

米国の統治の下であったが、吉田は次々

米国とわたり合い、再びの日本独立への布石を

打っていった。


日本政府は米国よりであったが、

大陸、満州、北朝鮮から引き揚げてきた多くの人が

左より、いわゆる共産党の思想に染まってきた。


確かにすべての富を平等に分配するシステムは

労働者にとってあこがれるものであったが、

実態はそれまで至るために、スターリンは

大量の粛清という名の虐殺を繰り返してきた。


それはヒトラーの虐殺を上回るものであると

後にフルヒチョフが暴いて公表した。


左翼が増えたが、なんとしても日本を赤からの防波堤にしようと

考えた米国は沖縄を米国化して日本に帰さなかった。


左翼主義者は北朝鮮を共産党による地上の楽園であると

新聞とともに宣伝して、

この世の楽園目指して、よど号事件まで起こすのは

もう少し後。


確かに北朝鮮は日本統治時代に南は農業、北と満州は

工業の著しい発展を見たのである。

毛沢東も満州を取るものが中国を制すると言って

はばからなかった。


であるから、日本が去った後の北朝鮮は

素晴らしい工業国であった。


楽園を信じて北朝鮮に渡った多くの朝鮮人と結婚した日本人妻が

今でも帰れず悲劇のもとになった。


日本は米国の統治下、毎日の暮らしは

腹いっぱい食べることが一番の毎日の目標であり

食べることに追われて、自殺など本当に少なかった。


僕の毎日もキャラメルやアンパンなどなくてイモを

食うのが楽しみであり、2年後6歳の春

生まれて初めてアンパンを食ったときに

衝撃を受けるほどうまかった。