僕の幼少期(日本人のアメリカ好き、その2) | 吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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昭和21年(1946年)

僕は3歳になった。


弟が生まれて、この吹き出物だらけの赤ちゃんが

僕が独占していたおばあちゃんの愛を

少し奪っていってしまったが、

その分、おじいちゃんや叔父さん(17歳)が

可愛がってくれた。


その時、

マッカーサーの監視のもと4月10日第22回衆議院総選挙が

戦後初めて行われた。


実は1945年11月になって、

日本政府は満州方面の関東軍の軍人がシベリアに

連行されて、強制労働させられているという情報を得ていた。


昭和21年(1946)4月の総選挙でようやく日本政府に

活発な活動が期待される内閣が誕生した。

吉田茂首相の誕生である。


後の中曽根首相も第一回目を出て当選。

映画スターのような美青年で、高崎の選挙区であり、

ご婦人がたに熱狂的歓迎を受けた。

スターに飢えていた時代だったのである。


5月、日本政府はようやくアメリカを通じてソ連との

交渉を開始した。

12月、ようやくシベリア日本人抑留者の帰国に関する

米ソ協定が成立するのである。


12月8日、

ナホトカ出港の引き上げ船第一陣、合計五千人が

舞鶴港に入港し、それから暫時引き上げが行われて

最後の入港は1956年(昭和31年)12月、であった。


実に10年にわたる帰還事業であった。


舞鶴港には10年間迎えにたたずむも

帰らぬ人を待つ岸壁の母がいた。


過酷なシベリア抑留は着るものも食べるものも

粗末で建物も粗末であり、栄養失調と厳寒に

多くの日本人がバタバタと死んでいったのである。


抑留はシベリアだけでなく樺太、コーカサス、ヴォルガ河、

北朝鮮、モンゴルなど広範囲であり、満州や中国に居た

日本人も、どんな奥地にいてもアメリカは徹底して調べ上げて

物資の支援をしながらアメリカの船で送り返してくれたのある。


アメリカの方針で大陸に日本人を残したくないという

考えであった。


しかし、アメリカの人道的なその姿勢が、

原爆を落とされたのにもかかわらず、大多数の日本人が

アメリカ好きになって行った。


その代表はマッカーサーであり、

彼が朝鮮戦争でミスをしてアメリカに帰るとき、

多くの日本人たちが沿道を埋めつくし、熱狂的に別れを惜しんだのである。


ソ連の日本人抑留は

日ソ中立条約成立中、ポツダム宣言、停戦協定の三つに

違反している国際法違反である。


であるからソ連は日本人の大多数が嫌いであり、

気味が悪い国になって行った。

実際はスターリン個人の独断であった。


もはや親しかったルーズベルトは死去していて

彼に堂々と文句を言う人間はいなかった。

チャーチルも失脚していた。


その反動で日本人はアメリカが好きになり

アメリカ文化がその後、怒涛のごとく入ってくるのである。