僕の幼少期(昭和20年11月) | 吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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僕は2歳になった。

収穫の秋を経験した。


疎開先のおじいちゃんの家は農家だったので

いもほり、ジャガイモほり、大豆や落花生。

お米の脱穀。


お母ちゃんも昔の実家だったので一生懸命手伝い

僕も畑に連れて行かれた。


土の中からいろいろな収穫の野菜が出てくるのが

不思議であった。


そんな敗戦後は食料不足だったので

リュックを背負った人々がよく訪れた。


今では考えられないが、

通学路や道路のはしに高学年の子供が

大豆などの種をまき収穫していた。


食料不足の時代だったので、あいている土地には

誰かが何かを植えていた。


列車は押すな押すなの 大混乱で

デッキにしがみついたり、屋根に上って

移動したり、終戦で人々が故郷に帰ってくるので

人口が多すぎる問題が出ていた。


マッカーサーが厚木に降りて、

天皇陛下が会見し、自分の身を犠牲にしてまでの

陛下の訴えでマッカーサーの心が動かされ、

日本人は飢えをしのいだ。


何の趣味も娯楽もない時代に、

高崎のとある喫茶店にいろいろな職業のおやじたちが

集まったのが11月である。


総勢35人。


彼らは今こそ人々に元気を与えるのは音楽しかない

と集まったのである。


市民オーケストラの誕生である。


指揮者は山本直忠である。

山本直純の父であった。


それが今日の群馬フィルハーモニーとして

受け継がれている。


職業をもったままでの

県内各地の訪問であり、

音楽専門で食べていくには厳しく、

その維持には幾多の困難が今日まで続いている。


その困難のドラマは映画化されて

僕もやがて小学校の時見ることとなる。

「ここに泉あり」だったと思う。


高崎の街はいつも大混雑で、

街中にはチンチン電車が走っていた時代である。


人々は食っていくために必死で働き、

食っていければ幸せな時であった。


群馬フィルハーモニーの誕生は

そんな人々に食べる以外にも幸せがあることを

知らせてくれた。