明治維新後の松陰の願い | 吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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吉田松陰の願いを受け継いだ

門下生達はとうとう明治維新を達成した。


といえども、まだまだひよ子の国家経営であった。


何が現在と比べておかしいか。


政治家たちが芸者や2号さんを連れて平気で

街中を闊歩するという時代であった。

この道徳については松陰も教えなかった。


何しろ、桂小五郎などは芸者幾松に助けられて

生き延びた人物として有名である。

のちに正室にしたという。

敬天愛人をモットーとする西郷隆盛などは

苦々しく思っていた。


しかし、この風潮は昭和のつい最近まで

続いていて、現在ははげしくモラルが問われる時代になった。


私も最近まで総理が芸者上りの2号さんから

週間紙ですっぱ抜かれているのをお医者さんの

待合室で見たりしていたものである。


それまでは、政治家が2号さんを持とうが3号さんを

持とうが記者達も黙認していた。


良い政治をしてくれれば、英雄色を好む。

でしょうがない、という良き時代であった。


であるから、明治初年の政府には国際的に

引けをとらない英雄的人物たちが多数揃っていた。


多くの志士たちが維新の前夜に死んでいったが、

まだまだ残っていた。


明治初年の日本は松陰の願いを深く理解していて、

アジアでただひとつの植民地化されていない国として

絶対にこの国を守ろうとする政策をとっていく。


欧米の列強はすでに中国に手をつけていた。

ロシアは満州に手を伸ばし、朝鮮をうかがっていた。



日本は富国強兵制度で国力を上げて国際社会に

肩を並べようとする目標である。


そのために、国際法をどの政治家も

よく学んでいたのである。

これは明治維新前から国際条約についても

よく研究されていたということであり、

明治以降の対清国との条約、

朝鮮との条約交渉に生かされていく。


吉田松陰の願いは実行されていく。