昭和50年3月にたかしのさんが倒産。
当社のアメリカ館は工事に入っていた。
したがって何の設計管理も受けられない状態であった。
倒産して一週間くらいして、高篠さんから電話、
お見舞いに来てくれという、相変わらず厚かましい。
しかもできたら金欠病なので、お見舞い金も頼む。
でも僕は夜出かけた。
まず自宅、奥さんがこわごわ出てきた。
どうやらやくざの取り立てが厳しいらしい。
お店に行くと何人かの社員と高篠さんがいた。以外に元気である。
心臓に毛の生えている人なのであった。
その後ひそかにやってきては、チラシづくりの仕事を
してもらった。一泊磯部温泉とか、前橋のマーキュリーホテル
に泊って仕事をした。
一回五万円であった。
世に隠れるように行動していた。
9月、アメリカ館が完成してオープン。
巨大設備の割にその年の売り上げは10パーセント増えただけであった。
翌年にはもとの売り上げに戻ってしまった。
その後、箱根のセミナー、田辺のセミナーなど勉強する僕も
30代半ばとなり、懲りずに次の一手を探す日々であった。
五億の売り上げを十億にすることを計画したいと思っていた。
箱根では渥美俊一先生の講義も受けた。
夜、個室に相談に行った人によると、そんな商売やめてしまえ、
などと言われた人もいて怖かった。
ダイエーの中内社長のなまの声で講義を受けたり成功者が
続々講演してくれた。
中内社長も相当苦労してきたらしいが、
なぜか感動しない話し方であった。
意味不明のことを言って中身が伝わらなかった。
それがその後のダイエーのゆく末を暗示する
ものであった。
安売り哲学だけでは続かないものであった。