吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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4年後にリベンジしたい。

良く聞くオリンピック選手の言葉である。

 

連日メダルラッシュが続いている。

3位決定戦で勝って銅メダルを取った選手の涙を流しての喜びは感動する。

ましてや、卓球の早田選手の涙は感動した。

初めて明かされた準々決勝での負傷。

棄権しようか迷った準決勝中国戦。

そして注射を打っての3位決定戦。

それらを乗り越えての3位決定戦の勝利の瞬間である。

生で見られて良かった。

 

しかし、銀メダルなのに決勝での負けは悔し涙である。

銀メダルの方が銅メダルよりも上なのに。

 

さて、4年後にリベンジの話であるが、

卓球の張本選手が発した言葉である。

オリンピック選手はなんと大変なんだと思う。

リベンジの機会が4年に一回しかない。

どれほどの重圧がかかっているのかはかりしれない。

 

戦前に前畑選手が水泳で金メダルをつかんだことがあった。

アナウンサーが前畑頑張れという放送をして現代でも有名である。

前畑選手はその4年前のオリンピックで銀メダルを取った。

それから4年。

国民が今度は金メダルを取るだろうと大きな期待か前畑選手にかかってきた。

 

行きは飛行機、帰りは船の予定であった。

前畑選手はもし金メダルを取れなかったら、帰りの船から太平洋に身を投じようと決心して居たという話を聞いた。

それほどの重圧が選手にはかかるのである。

 

今回でもメダルを取れなかった選手の中に日本に帰れるのだろうかという選手がいた。

オリンピックは選手にこれだけ多くの重圧がかかっている。

 

オリンピックは数々のドラマを生んでいるが、一握りのメダルの影で数々の人生が送られている事を思うときに、選手達の人生に幸多かれと祈るばかりである。

 

 

 

オリンピックが始まった。

 

さて、何を見ていいやら各局がいろいろ放送して居て昨日の晩などは混乱した。

結局、巨人戦を見た。

オリンピックは一日の総集編があるといいなあ。

 

オリンピックでの最初の金メダルは柔道女子だ。

彼女は第1号だから、今回一躍有名人になる。

美人だし今後が注目される。

 

フランスと日本では昼と夜が逆転で生で見るのは苦労する。

妻が一生懸命に見て居たのが男子バレーだ。

結局熱戦の結果、最後は負けてしまった。

妻はがっかりして居た。

 

生放送はスリルがあるが、最後に負けるとがっかりする。

大谷の放送もそうだ。

 

大谷が生放送でホームランを打つ時は本当にうれしくなる。

しかし、3時間も見てヒットもなく三振ばかりで、ドジャースも負けるとなんともがっかりするものだ。

 

そこで、本日は大谷は録画である。

しかし、今入ってきたニュースは大谷の32号ホームランが飛び出したという。

これを録画で見るのもいいが、生で見ていたら感激しただろうなあ。

 

ホームランというのはいつ飛び出すか分からない。

待っているといつまで待ってもなかなか出ないものだ。

したがって、期待せずにぼーっと見て居たときに突然カーンという音とともにアナウンサーが絶叫すると目が覚める。

 

オリンピックは毎回だが種目が多すぎて消化不良になる。

期待に応えられずに泣く選手も出るだろう。

しかし、大谷選手はどうか。

期待に応えられなかった日はどうか。

ネガティブになっては居ないか心配する。

 

三振ばかりでノーヒットの日などはどうか。

同僚が応えてくれた。

至って明るくていつもの明るい大谷選手のままだという。

なかなか出来ることではない。

 

道徳の教科書のような大谷選手はどうしてこういう人物になれたのか。

改めて敬服するものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の近所にベトナム人の夫妻が引っ越してきたのは3年ほど前だった。

2軒あるアパートの西側であった。

 

夫は地方の一流企業に勤めていて妻は妊娠していた。

車も持っていたから単なる技能実習生の制度の移民ではない。

詳しい事は聞かなかった。

 

奥さんは妊娠していた。

やがて出産して最初は赤ん坊を抱いて散歩をしていた。

それを見つけたのが僕の妻だった。

一目見た妻は「まあ、かわいい」といって褒めちぎるのだった。

 

他人からこれほど褒められると悪い気はしない。

やがて僕の妻はベトナム人の奥さんと大の仲良しになった。

ある日、僕が帰宅するとベトナム人の奥さんと幼い子供を自宅に招いていた。

 

妻は子供を褒めちぎり、ねえかわいいでしょうというから僕もかわいいねえと言うしかなかった。

ベトナム人の奥さんは多少日本語が出来た。

しかし難しい日本語は通じなかった。

文字も書けた。

名前も聞いたがベトナム語は難しくて忘れてしまった。

 

妻にとっても一つの生きがいとなって、ベトナム人の赤ちゃんに会いに行ったりしていた。

自宅に招いた帰りにはお菓子などを帰りに持たせたりしていた。

やがて、夫妻もお土産を買って持ってきてくれたりするようになった。

 

最近、そんな夫妻と赤ちゃんが転勤で東京の向こう側の方へ引っ越す事になった。

 

引っ越しの当日、妻は言った。

こちらの方へ遊びに来たときには実家だと思って必ず寄ってね。

ベトナム人の奥さんは涙をとめどなく流して別れていった。

 

日本にもスポーツやテレビ画面でも外人と思われる人が日本語を流ちょうに話すようになった。

あれは外人の2世かハーフか、とにかく日本代表としてオリンピックにも出場する。

 

あの赤ちゃんもやがて2世として日本語をぺらぺら話すようになる。

僕の店でも外人が買い物に来ると、なんと通訳は子供である。

荒川区においては6年後には小学生入学のの40%が外人の子供になるという。

 

そんな未来の日本がうまくいくように祈るばかりである。