最期に微笑むことが出来る人生が
最もしあわせな人生なのかも…!?
そんな最期を夢見ることが出来る日々を心掛ければ、自ずと笑顔になれるのかも…!?
なぁ~んてね
そんな風に考えるもぐ爺です。 そんな風に心掛けているもぐ爺です。
しかし、脳裏に浮かぶ喜怒哀楽の全てを払拭することは、未だ出来て居りません。
あれもこれも、言いたいことは山ほどありますし、恨み辛みを吐き出したい自分も未だ乗り越えられては居りません。
己が生きてきた過去に、称賛されるべき事柄も山ほどあった筈だと、誰かに諮りたい自分もおります。 真に伝えたいことも山ほどありますし…、経験から学んだことも山ほどありますので、何もかもを驕りたい自分も居ります。 過去を自慢したい自分も居ります。
しかし、その一方では恥じるべき過去も…、悔いるべき過去も…、山ほどあったことを忘れてしまっている自分勝手で愚かなもぐ爺が居ります。
人の業と言うのでしょうか、ツイそんなことを考えてしまうもぐ爺は、やはり愚かな動物の一匹なのかも知れません。
若い頃勉強は苦手でしたが、記憶力には多少は自信があったつもりでしたが…、最近では何が記憶に残っていて、何が記憶から消されているのかさえ不明になってしまっている、老い耄れたもぐ爺です。
故に、時折『覚えて無いの!』や『もう忘れたの!』と言う台詞を周囲から投げかけられることが多くなってきたように感じております。 更には、『大丈夫!?』等と問われる機会も増えてきました。 うぅ~ん残念!
年老いた今考えることは、逆に言えば何もかもを無かったことにしてしまえば、いつも笑顔で居られるのかも知れないと言うことです。 何もかもを呑み込んだ笑顔が出来れば、至高の幸いなのかも知れないと…!?
自分が最期を迎えるにあたって、無欲に成ることを心掛けられれば、何もかもを呑み込めれば、今の自分を有りの侭受け止められるのではないかと言う、ある意味では非常に卑怯な考え方に辿り着いてしまいました。
どうせ、あの世とやらには何一つ持ってはいけないんだから、これで良いんだと言う、諦めにも似た思いや想いがあることも事実です。
実は1昨年、若い頃に行き来のあった曹洞宗の大僧正が、最期を迎えると言う知らせがあったのでお見舞いに行った際のことです。 久し振りに会うやつれた大僧正の姿には、思わず時の流れの長さを実感してしまいました。
再会を果たした際、大僧正はもぐ爺の姿を見て何かを感じたのか、僅かに微笑みを浮かべて頂いたので、確かにもぐ爺であることを認識された様に感じました。
しかし、何を話しても…、何を尋ねても…、何もかもに対して『わすっちまった!』と微笑んで居られました。 『わすっちまった!』とは、南東北地方の方言で「忘れてしまった!」を意味する言葉です。
目の動きや表情を窺うと、そこ迄認知症が進んでいるとは感じられませんでしたが、もぐ爺に視線を向けた侭微笑を浮かべたままの『わすっちまった!』でした。
時には、そんなことは『わすっちまった!』と声を上げて笑って居られました。 しかし、目の奥には何かを訴えるような鋭い輝きが…!? 何もかもを忖度するような無念さが…!?
それはきっと、何もかもを呑み込んだ『忘れてしまった!』だったのかも知れません。 ご自身の病状を鑑みれば、今は何を言っても現世への捨て台詞になってしまうことを正しく理解できていたからこそ、『忘れてしまった』の一言でご自身の思いや想いを封印されようとしていたのかも知れません。
強引にでもご自身を納得させようとされて居られたのかも知れません。 もぐ爺に真に伝えたい思いや想いは『忘れてしまった』の一言に託されたのかも知れません。
言い換えれば、ご自身の捨て台詞の所為で残された方々に責任を問われることを恐れたのかも知れません。
何があっても、ご自身の人生を笑顔で『忘れてしまった!』の一言でケリを付けてしまいたかったのかも知れません。
その潔い覚悟の現れが、『忘れてしまった!』だったのではないかともぐ爺は感じました。 もぐ爺に対して、何も言わなくても『お前なら解るだろう!?』と、その先の全てを忖度したのかも知れません。
逆の立場で考えれば、そこまでの覚悟があれば何もかも笑顔で『忘れてしまった!』と言えるのかも知れません。 無欲に成れれば…、その覚悟や勇気が在れば…、その先は何もかも真に信じられる方に忖度できるのかも知れません。
そこにある悔いや未練も…、欲や不満等々も…、何もかもを笑顔で呑み込めるのかも知れません。 そこにあった夢や希望等々も、全て自身の中に封印できるのかも知れません。
だって…、でも…、等々何を言っても、人の命には寿命と言う絶対が立ちはだかっているんです。 自分の力では変えられない現実があるんです。
誰にでも必ず訪れる最期と言う時まで、その覚悟と勇気を抱くことが求められるのかも知れません。
その時の全てを潔く受け止める勇気と、何もかもを受け入れる覚悟があれば、最期まで笑顔で日々を送れるのではないかともぐ爺は感じたんです。 大僧正から最期の教えを頂いた様に感じたんです。
そこにあった大僧正の教えとは、『お前も自分の思いや想いを本当に忖度できる人に出遭えよ!』だったのかも知れません。 『お前がそんな人に出遭えることを祈ってるぞ!』だったのかも知れません。
『あとの言葉は、お前に忖度したぞ!』だったのかも知れません。 2024年3月のカレンダーではありませんが、たった一人であっても自分の思いや想いを忖度できる人に出遭えることは、最高の…、いや至高のしあわせなのかもしれません。
一言も交わさずとも、お互いに微笑み掛けただけで、何もかもを理解してくれるような人と関わりを持つことは…、何もかもを理解できる関係を築くことは…、人が生きていく為には必要なのかも知れません。
笑顔で最期を迎える為に…、人生の喜怒哀楽の全てを呑み込む為に必要な事柄は、数々の思いや想いを封印できる勇気と覚悟なのかも知れません。
そんな我が侭な自身を、許すことなのかも知れません。 自分自身の全てを、世間様に赦して頂くことなのかも知れません。
そして、無欲に成ることなのかも知れません。 最期の時が必ず訪れることを忘れずに、その思いや想いの全てを封印できる覚悟と潔さなのかも知れません。 そして、本当に信じられる人と出逢うことなのかも知れません。
偉そうに、そんなことを書き込んでいるもぐ爺ですが、何もかもを忖度できる相手を…、信じたい気持ちと…、信じて良いのかと言う不安が常に交錯し続けているもぐ爺です。
大僧正の様に現世に対する捨て台詞になってしまうのではないかと言う不安もあります。 逆に、もぐ爺に何かを忖度された方にご迷惑では無いかと言う不安が過ります。 どこかで、求め過ぎてしまうのではないかと言う臆病で我が侭なもぐ爺が居ります。
ですので、欲深いもぐ爺には恐らく未だに至難の業なのかも知れませんが、大僧正の思いや想いは…、尊い教えは…、間違いなく受け止められたと感じているもぐ爺です。
何もかもを、微笑で返した時の大僧正の表情から、窺い知ることが出来たと言う自負はあります。
それでも、笑顔で生きられる様日々努力は惜しまずに心掛けたいと思っておりますが…、恐らく大僧正のような真似は出来ないと考えるもぐ爺です。
まぁ~、終の棲家を持たないもぐ爺が最期を迎える際には、誰にも知られずに逝きたいと考えて居りますし…、恐らく行旅死亡人になると思いますので…、何もかももぐ爺の夢であり、理想論であると言うことも自覚はしております。
もぐ爺が最期を迎えた際には、必ずどこかの何方かにご迷惑をおかけすることになりますことを、予めお詫び申し上げておきたいと思います。 相済みません。 なぁ~んてね
今回も、長々と自分勝手な戯言を書き込んでしまいましたが、皆様方が今日も一日を笑顔で送らますことを祈念いたしております。 その勇気と覚悟を抱けることを祈念しております。
ではまた、来月のカレンダーでお会いしましょう! その頃には、もぐ爺のPCが復帰してくれれば嬉しいのですが…!?
なぁ~んてね
追記
そう言えば、もぐ爺の言葉を作品にして頂いている『いわみしをり』さんのインスタをご覧になられた方からメールを頂きました。 もしよし宜しければ、『iwamisiwori』でご検索頂ければ幸いに存じます。