昨日の夜のことです。
テレビをつけて、
ぼんやりと、
ドラマを見ていました。
たとえば、
疲れて帰ってきた夜。
リビングのソファに座って、
なんとなく画面を眺める。
そういう時間って、
誰しもあると思います。
特別な何かを期待しているわけでもなく、
ただ、
流れてくる映像を見ている。
それだけの時間です。
では、
昨日の夜見ていたものは、
なんだったのでしょうか。
それは、
テレビのドラマです。
ドラマといっても、
特別な大作ではなく、
なんとなく始まった連続ドラマの、
ひとつの回でした。
私は、
お茶を飲みながら、
お菓子をつまみながら、
本当に軽い気持ちで画面を見ていました。
「あ、この俳優さんが出てるな」とか、
「この部屋のセット、きれいだな」とか、
そんなことを思っていました。
つまり、
完全に、
油断していたのです。
ここで、
少し、話しは変わりますが、
私たちは普段の生活の中でも、
こういう「油断」をすることがあります。
たとえば、
散歩をしているとき。
いつも通っている道を歩くとき。
「今日は何もないくだらない一日だな」と、
そう思い込んでいるとき。
そういうときに限って、
道端に見たこともないような綺麗な花が咲いていたりする。
あるいは、
ずっと探していたものが、
いつも開けている引き出しの奥から突然出てきたりする。
そういう経験、
ありませんか。
そう考えると、
私たちの日常というのは、
実は、
小さな驚きに満ちていると言えるかもしれません。
では、いったい、
なぜ私たちは油断してしまうのでしょうか。
それは、
心の中に、
「どうせいつもの日常だ」という、
一種の思い込みがあるからなのだと思います。
人間というのは、
不思議なもので、
安心したい生き物です。
毎日同じようなルーティンを繰り返すことで、
心を安定させようとする。
それは、
生きていく上で、
とても大切な知恵です。
いつもハラハラドキドキしていたら、
心が休まりませんよね。
だからこそ、
私たちは無意識のうちに、
「何も起きないでくれ」と願っているのです。
けれど、
昨日のドラマは、
そんな私の平和な油断を、
見事に打ち砕いてくれました。
画面の中では、
主人公の人が、
ごく普通の日常を送っていました。
朝起きて、
ご飯を食べて、
仕事に行って、
帰ってくる。
本当に、
どこにでもあるような光景です。
視聴している私も、
「ああ、主人公も大変だなあ」なんて、
他人事のように思っていました。
ところが、
物語が中盤に差し掛かったそのときです。
主人公が、
ふと、
ポケットから古い手紙を取り出した。
ただそれだけのシーンでした。
大爆発が起きたわけでもなく、
怪獣が現れたわけでもありません。
ただ、
古い手紙を、
ポケットから取り出した。
それだけです。
なのに、
その瞬間、
私の心臓が「ドキッ」と跳ね上がりました。
なぜなら、
その手紙の差出人の名前が、
物語の最初に出てきたきり、
すっかり忘れ去られていた人物だったからです。
「あ、あれは……!!」
私は思わず、
手に持っていたお菓子を落としそうになりました。
ようするに、
完全に油断していたところを、
不意打ちで突かれたわけです。
その瞬間から、
画面から目が離せなくなりました。
今までただのBGMのように流れていたセリフが、
急に重みを帯びて聞こえてくる。
登場人物たちの表情の隅々まで、
何か意味があるのではないかと、
疑ってしまう。
さっきまで、
「まあ、普通のドラマだな」と思っていたのに、
頭の中はもうパニック状態です。
これって、
スゴイことだと思いませんか!!
たった一通の手紙。
たった一人の名前。
それだけで、
世界の見え方が、
一瞬にしてガラリと変わってしまう。
ここで、
問題は、
「なぜその演出にここまで心が揺さぶられたのか」
ということです。
それは、
作り手が、
私たちの心理を計算し尽くしていたからなのかもしれません。
人間は、
「予測できること」には退屈します。
逆に、
「完全に予測を裏切られること」には、
強烈な快感を覚える生き物なのだと思います。
ジェットコースターに乗ったときのような、
あの感覚です。
落ちると分かっているから怖いのではなく、
「どこで落ちるか分からない」からこそスリリングで面白い。
それと同じように、
テレビのドラマも、
私たちの日常も、
「何が起きるか分からない」というスリルと隣り合わせなのだと思います。
そう考えると、
昨日のドラマが面白かったというのは、
単にストーリーの出来が良かったというだけではない気がします。
もっと大きな、
「人間の感情のメカニズム」に関わっているのではないでしょうか。
ここで、
さらに話を広げてみたいと思います。
私たちは、
自分の人生についても、
「だいたいこんなものだろう」と、
どこかで決めつけていないでしょうか。
「私の毎日はこうだ」
「私の人生はこういうストーリーだ」と、
自分で脚本を書いて、
その通りに生きようとしている。
仕事があって、
家があって、
人間関係もそれなりで、
大きな変化なんて起きっこない。
そうやって、
自分で自分を安心させている。
けれど、
本当は、
どうなのでしょうか。
もしかしたら、
私たちの人生のポケットの中にも、
まだ開けていない手紙が入っているのかもしれません。
まだ気づいていないだけで、
次の曲がり角を曲がったところに、
人生を一変させるような「何か」が、
待ち構えているかもしれない。
そう思うと、
少し怖くもあり、
同時に、
ものすごくワクワクしてきませんか。
「まさか、自分がそんな目に遭うはずがない」
私たちは、
そう思い込んでいます。
ドラマの中の主人公を見て、
「呑気だなあ」と笑っている私たち自身が、
実は一番呑気なトカゲのしっぽ切りみたいな状態なのかもしれません。
人生という巨大なドラマの中で、
私たちはみんな、
「完全な油断」をしたまま生きている。
そう考えると、
昨日の夜、
ソファに寝転がってドラマを見ていたあの時間は、
ただの暇つぶしではありませんでした。
それは、
宇宙の神秘(しんぴ)に触れるような、
大げさではなく、
私たちの生き方そのものを問い直すような、
そんな貴重な体験だったのです。
本当に、
テレビの力ってスゴイです!!
あ、もちろん、
ドラマを作ったスタッフさんたちの努力もスゴイですし、
それを演出した監督さんもスゴイ。
でも、一番スゴイのは、
そんな映像を見て、
ひとりで勝手にいろいろなことを考えてしまう、
この人間の頭脳なのだと思います。
小さな画面の向こう側の出来事が、
自分の心の奥底を揺さぶり、
やがて宇宙の真理(しんり)にまで到達してしまう。
人間の想像力(そうぞうりょく)というのは、
本当に無限の広がりを持っているのですね。
昨日の夜、
ただなんとなくテレビをつけて、
ただなんとなくドラマを見た。
ただそれだけのことが、
これほどまでに深い思索(しさく)につながるとは、
見ているときは夢にも思いませんでした。
だからこそ、
毎日の何気ない出来事を、
私たちは侮(あど)ってはいけないのです。
いつ、どこで、
どんな「まさか」が起きるか分からない。
あなたの日常にも、
私の日常にも、
いつ、ポケットから手紙が滑り落ちてくるか分からない。
そう思いながら生きると、
明日からの毎日が、
ほんの少しだけ、
違った景色に見えてくるような気がします。
次は、
どんな「まさか」が待っているのでしょうか。
少し怖いような気もしますが、
でも、
やっぱり楽しみでもあります。
人生という名のドラマは、
今日も、
私たちが油断しているその隙に、
ひっそりと、
次のシーンの準備を進めているのです・・
では、いったい、
そのドラマの脚本(きゃくほん)は、
誰が書いているのでしょうか。
私たちが生きる、
この現実のストーリーは、
誰の手によって進められているのでしょうか。
ふと、
そんなことを考えてしまうことがあります。
たとえば、
お気に入りの小説を読んでいるとき。
あるいは、
映画館の暗闇の中で、
スクリーンをじっと見つめているとき。
私たちは、
物語の登場人物に自分を重ね合わせます。
主人公が泣けば、
自分の胸も締め付けられる。
主人公が笑えば、
自分の心もパッと明るくなる。
それは、
映画館を出たあとも、
ずっと続いていきます。
帰り道の夜風が、
いつもより少し冷たく感じられたりする。
駅までの道のりが、
なぜかいつもよりドラマチックに見えたりする。
これは、
単なる気のせいではありません。
物語というエネルギーが、
私たちの現実の境界線を、
ふわりと越えてきたということです。
現実とフィクションの境界線は、
私たちが思っているよりも、
ずっと曖昧(あいまい)なのかもしれません。
では、
私たちの現実そのものは、
どうなのでしょうか。
私たちが主人公として生きている、
この毎日の生活も、
実は大きな物語の一部なのではないでしょうか。
そう考えると、
少し、話しは変わりますが、
昔の人たちが残した言葉が、
急にリアルに響いてきたりします。
たとえば、
古代の哲学者が言った、
「人生は劇場のようなものだ」という言葉。
最初は、
単なる比喩(ひゆ)だと思っていました。
人生を劇にたとえた、
小粋なジョークなのだと、
どこかで軽く受け流していたのです。
でも、
本当にそうなのでしょうか。
もしかしたら、
それは比喩ではなく、
この世界の真実をそのまま言い当てた言葉だったのではないでしょうか。
私たちは、
誰もが自分の物語の主人公です。
同時に、
誰かの物語の脇役(わきやく)でもあります。
すれ違う見知らぬ人も、
駅のホームで電車を待つおじいさんも、
コンビニのレジで笑顔を向けてくれる店員さんも。
みんな、
それぞれの物語を生きている。
それぞれに、
喜びがあり、
悲しみがあり、
誰にも言えない秘密のストーリーがある。
そう思うと、
街を歩く景色が、
まったく違って見えてきます。
ただのコンクリートの建物が、
巨大な舞台装置のように見えてくる。
そこで繰り広げられる、
無数の人生の交差(こうさ)。
それは、
どんな名作映画よりも、
スリリングで、
美しく、
そして切ないドラマなのです。
問題は、
私たちがそれに気づいているかどうか、ということです。
忙しい毎日に追われていると、
私たちはすぐに忘れてしまいます。
自分が大きな物語のなかにいるということを。
自分が、
奇跡のような瞬間の連続の中に生きているということを。
ただ目の前の仕事をこなし、
ただスマホの画面をスクロールし、
ただ時間をやり過ごしてしまう。
そんなふうに、
物語の主人公であることを、
すっかり忘れてしまうのです。
もったいないことだと思いませんか。
せっかくの、
自分のドラマなのに。
せっかくの、
一度きりのステージなのに。
通行人Aのままで、
物語を終わらせてしまうのは、
あまりにも、
もったいないことなのだと思います。
だからこそ、
時には立ち止まってみる必要があるのです。
あえて、
足を止めてみる。
周りを見渡してみる。
空の青さにハッとしたり、
通りすがりの猫の仕草にクスッとしたりする。
そんな小さな心の揺らぎを、
見逃さないようにする。
それが、
自分の物語を取り戻すための、
最初のステップなのだと思います。
では、
いったい、
その先には何があるのでしょうか。
自分の物語に目覚めたあと、
私たちはどこへ向かうのでしょうか。
ここで、
少し視点を変えてみます。
私たちの心の中には、
実は、
宇宙全体が広がっていると言ったら、
信じられるでしょうか。
なんだか、
オカルト的な話に聞こえるかもしれません。
でも、
ちょっと待ってください。
難しく考えすぎないでください。
科学的な話ではなく、
もっと感覚的なお話です。
夜空を見上げると、
満天の星が広がっています。
遠くの銀河から届く光は、
何百万年も前に発せられたものだと言います。
私たちは、
そのちっぽけな存在を、
この目で直接見ている。
網膜(もうまく)という小さな細胞の裏側で、
何百万光年も離れた光を受け止めている。
ということは、
その巨大な宇宙が、
今、
あなたの頭の中で再現されているということです。
宇宙の方が、
あなたの心の中に入り込んでいる。
いや、
あなたの心と宇宙は、
最初からつながっているのかもしれません。
外の世界と、
内の世界。
本当は、
そんな境界線など、
どこにも存在しないのではないでしょうか。
そう考えると、
先ほどのテレビドラマの話とも、
きれいに繋がってきます。
小さな画面の向こう側の物語が、
私たちの心を震わせる。
それは、
外側と内側の境界が溶け合う瞬間です。
私たちは、
物語を通して、
自分以外の誰かになり、
自分以外の世界を生きる。
そして、
宇宙の広がりを、
自分の胸の内で感じる。
人間という存在は、
なんと奥深く、
なんと神秘的なのでしょうか。
本当に、
スゴイことだと思います!!
ただの日常を生きているつもりが、
実は、
宇宙的なドラマのまっただ中にいる。
昨日見た何気ないドラマも、
明日飲むコーヒーの苦さも、
すべてがその壮大なパズルのピースなのだとしたら。
そう思うと、
胸の奥が、
じんわりと温かくなっていくのを感じます。
生きるということは、
これほどまでにドラマチックで、
これほどまでに美しいことなのです。
だから、
明日も私たちは、
それぞれの扉を開けるのでしょう。
どんなストーリーが待っているのか、
まだ誰も知りません。
ポケットから、
また新しい手紙が落ちてくるかもしれない。
あるいは、
予想もしない誰かと、
運命的な出会いを果たすかもしれない。
あるいは、
ただ静かに、
温かいお茶を飲むだけの、
平穏な一日かもしれない。
どれであっても、
それは間違いなく、
あなただけの素晴らしい物語です。
今日も、
明日も、
その次の日も。
私たちは、
自分だけの物語を紡ぎ続けていく。
誰もが作家であり、
誰もが主人公である、
この不思議で愛おしい世界で。
さて、
そろそろ、
私も現実の世界に戻らなければいけません。
画面の向こうの主人公たちは、
今日もそれぞれの道を歩んでいます。
そして、
画面のこちら側にいる私も、
私の今日の続きを歩き始めます。
どんなシーンが待っているのか。
少しの期待と、
ほんの少しのドキドキを胸に抱いて。
あなたも、
あなたの物語の続きを、
ゆっくりと、
丁寧に、
歩いていってくださいね・・