大学時代の4年間下宿していた吉祥寺は青春の思い出が詰まった街だ。その学生生活の吉祥寺の思い出では、眠い講義よりも厳しかった部活(体育会バドミントン部)の方が遥かに多い。
従って、社会人で東京勤務になってからも、海外から一時帰国の時も、第二の会社(東村山)時代も、また完全リタイヤした後も含めて、最も多く訪れた東京の街の一つかも知れない。
今週末には4年ぶりにバドミントン部の近年次の有志がこの街に集まるのが楽しみだ。
そんな吉祥寺の学生時代の通学路にあって、ブロック塀に囲まれた樹木の林立する大きな敷地の修道院(カトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会)の門から垣間見れた白い建物は、1923年の関東大震災で被災した大正・昭和に活躍した実業家の赤星鉄馬(1882~1951)の鳥居坂の半壊した住宅の移転先として1934年に建設されたもので、その設計は、旧帝国ホテル(ライト館)を設計したフランク・ロイド・ライトの助手として来日し、近代モダニズム建築の先駆者で、戦前、戦後を通じて44年間日本に居住し、前川國男、吉村順三などの日本の建築家を育ててアントニン・レーモンド(1882~1951)だった。
その後、戦中戦後の接収の後、米国の原爆投下への贖罪の募金の資金をもとにカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会が購入したが、修道女の減少から、2021年に武蔵野市に寄贈されたという歴史的な建物だ。
昨年10月国の登録有形文化財に登録されたその建物について、先日のNHK首都圏ニュースで、豊な自然環境と建物保全の目的で武蔵野市に寄贈された修道会の建物が5月10日から16日までの期間限定で一般公開される、ということだったので、早速出かけてみた。
大学卒業以来の半世紀でハーモニカ横丁エリアを除いて大きく変貌した吉祥寺駅前から、懐かしいあの材木屋のあった中道通りを10分ほど歩いて右折すると、あの樹木が見えてきたのは、開場後45分ごろ。10時から開場されていたが、すでに行列だ。
耐震補強がまだ行われていないので、館内見学滞在者数は最大50名、時間は30分以内(庭園は自由)となっているため入館までは30分ほど待った。
今後、耐震工事、建物・公園の整備を行った上で、市民ワークショップ、有識者会議などを経て、2027年には利活用方法が決定するらしい。
特徴的な玄関と階段室。
木の左手にはすぐにでも入られる庭園への入り口があるが、ここまで来たら建物内部も観たい。
「建物配置図」(武蔵野市のHPより)
(礼拝棟に掲示されていた年表)
家具はレーモンド夫人の設計。
暖炉の一年中使える活用方法は素晴らしい。
2階から大小の樹木が美しいに囲まれた庭園を観る。
細長い嵌殺窓のある螺旋状の階段室を下りて玄関へ。
庭に出て林の中を散策すると、j深い木立の合間から「旧赤星邸」が見え隠れする。
丁度いい円形の花壇の縁に座って、一枚。
木立を抜けて増築部分へ。
右部分(奥)が「旧赤星邸」、左部分(手前)が1979年増築した「修習棟」
旧赤星邸の「日本間」(手前)、後方が「食堂」・「居間」
「日本間」の外には沓脱用の大きな石台がある。
庭園園内には武蔵野市が1995年に指定した保存樹木が合計で32本もあるようだが、7本の標札が確認出来た。
これは水飲み場かな?
玄関に戻ると、先ほどの階段室の螺旋状況がよくわかる。
見学が終わって外に出たのは約2時間後。
天気が良いせいか、行列はさらに長くなって続いている。
大学前の「五日市街道」の横断陸橋から振り返る。
手前の住宅部分も、記憶では、50年前当時かは赤星邸の一部だったような気がする。
大学の正門がわへ降りる。
旧赤星邸より10年古い大正13年植栽の学園の欅並木は武蔵野市の天然記念物指定。
この修道女会の創設時(1956年)に入会し、その後、アメリカの同修道女会、大学での教育学研究(博士号)を経て、岡山にあるノートルダム清心女子大学で、教授、学長、理事長になられた渡辺和子シスターは、成蹊小学校3年の時に(1936年)に、旧陸軍大将・教育総監だった父渡辺錠太郎が自宅の居間で青年将校によって襲撃、銃殺された(二・二六事件)という悲惨な現場にいたことが契機で、人間の生き方を説くためにこのこの修道女会の創設時(1956年)に入会されたようだ。
ご参考までに、当日いただいた案内カタログを。