今日は趣向を変えて。
高校を卒業して吉祥寺に引越したのは丁度半世紀前の1969年の3月だった。西荻窪に近い閑静な住宅街の下宿から五日市街道をまっすぐ西に20分ほど歩いて大学まで通っていた。
その吉祥寺の歴史についてのシンポジウムがあるというので、吉祥寺の母校まで出かけてみた。
駅から賑やかな商店街と住宅街を抜けて15分ほど歩くと五日市街道に出る。
正門と構内に続く欅並木は、落葉してても美しくダイナミックで学園と武蔵野市のシンボルになっている。
半世紀前といえば東大紛争から一気に活発になった学園紛争の真っただ中。この正門前にも学生自治会の檄看板が林立していたし、ロックアウトを応援する近隣大学からのヘルメット学生デモ隊とそれを阻止する大学側の攻防もあり、体育会だった自分も堅く閉ざされた重いゲートを内側から必死に押さえたものだ。これも今となっては懐かしい思い出だ。
そんな50年前の喧騒が嘘のように、春休み期間中のキャンパスはひっそりとしている。
左から「情報図書館」、「6号館」、「本館」
「本館」の右手の「トラスコン」は、100年近く経っても躯体は当時のままだ。
構内を南北に縦断するソメイヨシノの桜並木には早咲きの桜が咲いていた。
1924年(大正13年)の池袋からの学園移転時に本館と同時に建設された「トラスコン」だが、米国の鉄骨構造建物メーカーの名前を取って学園では、体育館とは言わずに単に「トラスコン」と呼んでいた。
自分が所属していたバドミントン部の他にバスケットボール部、剣道部、空手部などが使っていた。学生時代の大半の時間を過ごし、青春の汗と涙、そして時々笑いの染みついた「トラスコン」だが、今はその古い傷だらけの床板も外されて「トラスコンガーデン」という小綺麗なカフェテリアになっている。屋根や壁の構造は昔のままも越されているのが嬉しい。
当時あった校舎は、「本館」や数棟を残して殆どが近代的な外装で統一された建物に建て替えられている。
50年前の学園紛争時には学生に占拠されロックアウトされていた古い校舎は、今はこの「情報図書館」に生まれ変わった。
設計は、学園(高校)の卒業生で世界的に著名なプリツカー賞建築家の坂茂氏で、2008年には「グッドデザイン賞」を受賞したユニークな図書館建物だ。
公開シンポジウムは、「地図と写真から見る 吉祥寺の移り変わり」となっており、NHKの「ブラタモリ」でも取り上げられた非常に興味深いテーマだ。
講演の内容は、「タモ手箱」風にキーワード☆で!
☆江戸時代の吉祥寺の産業は農業ではなかった?
杉、クヌギ、ナラなどの林業
☆牟礼(三鷹)と吉祥寺は仲が悪かった?
玉川用水の水利権
☆駅前の三角地帯は何故生まれたか?
並行していない五日市街道と鉄道
☆都市計画の当初案のモデルはロッテルダムだった?
「スーパーブロック方式」は商店主から反対で廃案に
☆吉祥寺駅前は放置自転車天国だった?
長年の活動で解消する前は歩行者が車道を歩くほどだった
☆T字路は何故人が集まるか?
好奇心を誘う
☆ハーモニカ横丁の家主は?
お寺(江戸時代の大家で下町から移転した寺は間口30間で五日市街道から井の頭公園までの短冊状の土地を与えられた。寺院意外には間口20間)
☆古い写真から撮影した場所、年月を割り出すには?
大ケヤキで判明「※松の湯」(※自分が通っていた銭湯)
☆1981年完成の「公園通り」の拡幅工事幅は何故東西非対称?
西側はすでにコンクリート造が多かった
☆吉祥寺駅の原計画は別の場所だった?
五日市街道と中央線の交差する場所(下宿のすぐ近く)
会場にも展示された多くの写真の中で印象に残っている2枚は;
①1917年開園時の井の頭恩賜公園の正門前
現在の「吉祥寺通り」を南方向に見た写真
左右に見える石碑は今でも井の頭自然文化園前に残っている
②自分が入学した頃の「駅前通り(現サンロード)」
まだアーケードも無くまだ路線バスが走っていた。
因みに、手前に位置する(国鉄)中央線吉祥寺駅はまだ高架工事中だった。
3時間程のシンポジウムの後、帰りがけに正門横の「学園史料館」の特別企画展を覗いてみた。
1899年完成時の甲武鉄道吉祥寺駅と現在のJR吉祥寺駅(左)
1924年の学園本館への移転式と現在の本館(右)
また、このキャンパスは、小学校から大学院までが一箇所に集まった学園キャンパス全体としても2011年に「グッドデザイン賞」を貰っている。
「成蹊」の由来は、『史記』の作者司馬遷が「李将軍列記」で李廣を讃えるために引用した「桃李不言 下自成蹊」ということわざから。
「桃や李(すもも)はものを言うわけではないが、美しい花 咲かせ、おいしい果実を実らせるため、自然と人が集まり蹊(こみち)ができる」
とにかく、住みたい街ランキングトップの常連にまでになった吉祥寺と一体で「蹊を共に成した」「宇は大なり」の環境で充実した学生生活を過ごせたことを感謝している。半世紀経っても「蹊は半ば、まだまだ精進せよ」を痛感した母校訪問でもあった。
帰りは、先ほどの古地図を思い浮かべながら、ゆっくりと短冊状の住宅街の道を駅まで歩いてみたが、土曜日の夕方はさすがにす人出が凄く、駅前はモニカ、サンタモニカ状態⁈
迷路の立ち飲みの誘惑に負けることなく6時には帰宅。
再来週末は、上海・北京時代の同窓生と
そして、「桜祭」(ホームカミングデイ)と続く
綾小路きみまろではないが、あれから50年!
青年老い易く額なり難し
あれこれそれで会話済む