古事記上では、出雲での力比べに敗れた大国主命の次男坊、タケミナカタノカミは天照大神から派遣されたタケミカヅチノカミに追いかけられて諏訪まで逃げて来て降参します。
「諏訪を出ない」
と約束したとなっています。
さて…本当のところは?
名前が、やたら似てませんか?タケミナカタノカミ(建御名方神)とタケミカヅチノカミ(建御雷之男神)です。
何なんでしょう、この兄弟家族な感じ。
そして、僕が最も違和感を感じているのが、建御雷之男神が国譲りの最大の功労者であるのに係わらず、春日大社よりも鹿島神宮の方が優先されている気がして、ずいぶん東の彼方に左遷されているなぁ~っていう違和感です。
建御名方神と建御雷之男神の力比べは、諏訪大社の古代~鎌倉時代に行われていた神事に通じる「相撲」の起源とされています。以前紹介した御射山で開催されていた競技会の種目に相撲がありました。相撲以外は弓道だったようです。流鏑馬的な事もしたようですし、実際に鹿狩り(追い)の競技もあったようです。
建御名方神が諏訪の神様である事が前提なので、前回の流れから諏訪の民のリーダー格だったと考えます。出雲の民が諏訪を出たときに諏訪を任せられたのは、建御名方神だった。
では、建御雷之男神は…?
まず、存在としては…諏訪の民であり、建御名方神の兄弟だったと思います。僕は、兄が建御雷之男神で出雲の民と共に諏訪を兄弟の一族を含めてどちらかが同行するという話になり、霧ヶ峰の巫女が神事の相撲で勝負を決めよとなったのでは?と考えます。二人は共に神事の実力者で、出雲の民のSPとして申し分ない為選考に苦心した結果なのかも知れません。
諏訪には弟の建御名方神が残り、出雲の民と共に兄の建御雷之男神は西を目指します。
おそらく、弟の建御名方神も出雲の民と共に西へ行きたかったのかも知れません。兄も十分承知の上で霧ヶ峰の巫女の決めた事に従ったと思います。推測も推測ですが、この兄弟の力比べは常に兄の方が常に強かったのではないかと思います。巫女もその事を知っていたので、こう指示をしたのかも知れませんし、諏訪に残すのは弟の方が良いとも判断したのかも知れません。弟を連れては行けない兄は、行く先々で諏訪と云う足跡(そくせき)を残して行きます。日本海側に古来からの由緒ある諏訪神社はこの足跡ではないのではと考えています。もし、後から弟が追いかけて来たら…この足跡を辿って来いとでもいうかの如く。
建御雷之男神は出雲で何をしていたのでしょうか?
いいえ、兄はまだまだ西へ向かいます。出雲に遷都された時の黒曜石の産地は諏訪エリアに加え隠岐島と九州北部と中部でした。そして海外との貿易に港となる拠点が現在解明されている場所が、出雲周辺と九州北西部です。長崎に諏訪神社がありますので、出雲の民と共に貿易拠点と黒曜石採掘の為に九州長崎まで赴いたと考えられます。
出雲の民のリーダーは元霧ヶ峰の巫女、日の巫女と共にあった諏訪の民でしたが、時が経つにつれてそのバランスの良い関係ももう一つか二つの新たな民の存在に崩れていきます。ひとつは日向の民です。元は中国大陸の方から台湾を経由して移動してきた民です。そしてもう一つの民が中国を抜け朝鮮半島から移り住んでいた民です。この民がおそらく稲を日本へ持ち込んだと考えられます。稲作の民は、4つの民の中で最後に日本へとやって来た為に基盤となる地がありませんでした。ですが、稲作と云う武器を片手に生活力は十分です。次第に農耕と云う狩猟に比べて安定した食料事情を基に権力の基盤を固めていったのではないかと考えます。
稲作の民がこの当時権力者として、支配下にある地域をカリスマで従わせていた日の巫女率いる出雲に対し、力では人民の支持を得られないと考え政治的な中枢に取り入ろうと取り組んだと考えました。
稲作の民が目論んだのは、出雲の民のNo.2になるには、パートナーである諏訪の民を追いやる事。そして日向の民を味方に引き入れる事でした。日向の民をそそのかし、諏訪の民を追いやり闇に暗躍する事で出雲の民に取り入ります。最終的には日向の民を使い、政治的な実権を握ります。
これが、功労者であったはずの建御雷之男神の鹿島への左遷的な理由です。
次回は、日向の民とは?なんぞや。