仙台近郊の町、多賀城市には、中世史上重要な史跡、多賀城がある。
律令時代(奈良・平安)、大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した多賀城は、蝦夷開発の拠点であり、国府などが設置されていた政治的中心地であった。この多賀城を中心とする陸奥国は、武蔵国と並ぶ当時の日本では人口の多い国で、二千人規模の大都市があったと推測されている。
しかし現在では山と農地に囲まれ、ここが東北の中心であったとは思いがたい景色になってしまった。

国府は室町時代に完全に消滅し、現在もどこにあったのかが分かっていない国も多く、かろうじて地名に「国府」「国分寺」「総社」などが残っている程度である。

長い歴史の中で、かつては地域の中心都市として栄えた場所が、どこにあったかも分からなくなる。
なぜか?それは、その町が政治的中心という「役割」を失ったからである。

奥州街道沿いの小さなとある町、かつては立派なメインストリートとレトロな郡役所を中心に広がるビスタ的景観をもつ非常に豊かな都市として賑わっていたが、今ではどこにでもあるような、空き家と駐車場ばかりの寂しい都市になった。

明治までは、奥州街道の「宿場町」という役割を持っていた。
さらにここは羽州街道との分岐点として、交通の要所でもあったことが、町の繁栄に大きな影響を与えたに違いない。

明治ー昭和期には、鉄道の開通や自動車の発達によって宿場町としての役割を失ったが、郡役所が置かれ、さらに大規模な蚕糸工場が作られたことから、町は「政治拠点」と「産業」という二つの役割を果すようになり、さらに栄えた。

しかし、現在、郡役所は廃止となり、蚕糸工場は町の中心に広大な空き地を残して消えてしまった。
この街は役割を失ったのだ。

まちについて考えるとき、我々はこの「役割」について注視しなければならない。
ただ、「環境整備」だの、「観光」だのというのでは、都市再生には繋がらないと思う。
見慣れたものを、細かく分けてみる。
大きな塊を、小さく分解して、分散させてみる。

例えば四隅の太い柱を、細かく、たくさんの柱にして、仕切りのように使ってみる。

大きな公園を、細かく町に散りばめ、ユビキタスな存在にすると、町全体が公園になる。



神奈川工科大学 KAIT工房
$空間デザイン・まちづくりのための1000のキーワード
街を知る最も基本的な方法は、地図をつくること。
自分の目で、土地一つ一つの利用形態などを見て、地図に記していく。
さらに利用形態・建物の種類別などでレイヤーを分ければ、様々な視点からの町が浮かび上がってくる。


建築家の西村浩が鳥羽市中心部の利用形態を調べたところ、半分近くが駐車場だったという。


参考図書:
図説 都市デザインの進め方/佐藤 滋

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