保守とはなんだろう、色々な言い方があるが私は簡潔に、次のようにいいたい。
社会をガラスでできた有機体と考え、それを慈しむ優しい眼差しであると。
マイケル・オークショット『保守的であるということ』に以下の言葉がある。
<保守主義者の理解によれば、規則の修正は、それに服する者達の諸々の活動や信条における変化を常に反映したものでなければならず、決してそうした変化を押し付けることがあってはならない。
またそれは、決していかなる場合でも、全体の調和を破壊してしまうほどに大がかりなものであってはならないのである。
従って保守主義者は、単なる仮定の上での事態に対処する目的で行われる変革には、関係がないであろう。>
・変更は社会の合意を得て行う。押し付けない。
・全体の調和を破壊してしまう大きな変更は行わない。
・仮定の上での事態に対処する変革は行わない。
私は、変更をしないほうがよいといっているのではない。良い変更は、こまめに、調整をしながら、具体的に、ゆっくりとしたほうがよい。
が、流行りの中身のない激しい<変革>、破滅願望ではないかと思えるお題目だけをとなえて、強引に社会に迫ると、社会は簡単に壊れてしまうのである。
例えば、この20年間、世界はグローバル化しているので、その経済競争に勝たなければならないから、みんなスキルを身につけよう、個人個人の生産性を高めよう、<構造改革>をしようと、日本人は努めてきたとおもう。
そのために、どのようなことがうまれたのか。
地域でも家族でも会社でも、日本人が人間不信、自信とモラルの喪失に陥っている。経済でも将来不安のため個人消費をしなくなり、企業も日本人以外の外需をとりにいく、という悪循環に陥っている。(社会保障の世代間格差の問題以上に20年以上の景気悪化が精神を逼迫している)
マクロ経済学で言うところの、合理の誤り 個人が合理的であっても社会全体では不合理な結果になっているのである。
考えるに社会の構成員である我々個人も、ガラスでできた生命であろう。<変革>が足りないのが怠慢であるという風潮で、多くが自分で自分を痛めつけている。
自分自身と社会を、大切に扱うということに全員がコミットできたとき、社会のトランスフォーメーションが起きるのだろう。