訃報に触れ、胸の奥に静かな余韻が残っています。
久米宏さんが亡くなられました。81歳。1月1日に旅立たれたと聞きました。

僕らの世代にとって久米宏さんは、
単なる「有名司会者」ではなく、
テレビというメディアそのものの空気を変えた人でした。

真っ先に思い浮かぶのは
『ザ・ベストテン』での黒柳徹子さんとのダブル司会。
軽妙な掛け合い、予測不能な間、
そして出演歌手に向けて放たれる
「そんなこと、今聞く?」という質問。



でも、あれは無神経さではなかった。
相手を“商品”ではなく“人間”として見ていたからこそ出てくる問いだったと思います。
笑いながらも、どこか本質に触れてしまう。
あの感覚は、今のテレビではなかなか見られません。

その後の『TVスクランブル』、
横山やすし師匠との緊張感あるやり取り、
そして『ニュースステーション』。

良くも悪くも、
「ニュースは淡々と読むものではない」
「伝える側が、疑問を持っていい」
という、現在の報道番組の原型を作った存在でした。

賛否を恐れず、
視聴者と同じ目線で首をかしげ、
時には怒り、時には皮肉を交えながら語る。

あのスタイルは、
ニュースを“消費物”にしなかった最後の世代だったのかもしれません。

そして個人的に、強烈に記憶に残っているのが
福山雅治主演ドラマ『ガリレオ』での教授役です。



一言一言に重みがあり、
視線だけで場の空気を変える存在感。
長年「言葉」と向き合ってきた人にしか出せない説得力でした。

司会者、キャスター、俳優。
どの顔にも共通していたのは、
“問い続ける姿勢”だったように思います。

1月1日という節目に、
久米宏さんはこの世界を離れました。
2026年の幕開けを、どんな思いで眺めておられたのでしょうか。

テレビの向こう側で、
視聴者に考えるきっかけを投げ続けた人。

その功績は、これからも消えることはありません。

謹んで、心よりご冥福をお祈りいたします。
Chaka Khanといえば、やはりまず思い浮かぶのは、
プリンスの楽曲をカバーした「アイ・フィール・フォー・ユー」だろう。
ヒップホップの先駆けとも言われるほど先進的で、
当時としてはあまりにも斬新なサウンド。
あの曲がセンセーショナルな大ヒットを記録したことで、
彼女のイメージは一気に
“時代の最前線を走るアーティスト”として強く刻まれた。

その直後に発表されたのが、
デビッド・フォスターが手がけた
洗練されたラブバラード「Through the Fire」だった。



都会的で、静かで、切ない。
派手な仕掛けはなく、感情を煽りすぎることもない。
ただ、人生のある局面でしか理解できない覚悟や孤独を、
Chaka Khanは圧倒的な歌唱力で、
しかし驚くほど抑制的に歌い切っている。

間違いなく80年代を代表する名曲だと思う。
それでも当時、「アイ・フィール・フォー・ユー」ほどの
大ヒットにはならなかった。

おそらく理由は単純で、
あまりにも前作のイメージが強烈すぎたのだろう。
革新的でダンサブルなChaka Khanの姿が、
まだリスナーの記憶に鮮明に残っていた時代に、
この静かなラブバラードは、
少しだけ“早すぎた”のかもしれない。

ただ、不思議なもので、
曲名やアーティスト名は知らなくても、
サビを聴かせると
「あ、それ知ってる」と言われることが多い。

「Through the Fire」は、
ヒット曲として消費されるよりも、
時間をかけて人の人生に染み込んでいくタイプの楽曲だったのだと思う。

そして、同じ感覚を覚える楽曲が、
ユーリズミックスの「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」だ。



ビルボードでは、特大ヒットと呼べるほどではなかった。
あの「スウィート・ドリームス」の光が、
あまりにも強すぎたのだろう。
無機質で冷ややか、時代の空気を一気に塗り替えた
あの楽曲のインパクトは、
後続の楽曲すべてに影を落とすほど圧倒的だった。

その一方で「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」は、
柔らかく、スウィートで、どこか祈りにも似た幸福感を持つ。
派手さではなく、
聴き手の人生の隙間に
そっと入り込むような曲だった。

だからこそ当時は、
チャートよりも少し後ろを歩く存在だったのかもしれない。

けれど今では、
80年代ポップを語る上で欠かせない名曲として、
確実にその場所を獲得している。

こうした楽曲たちは、
ヒットの大きさではなく、
時間によって価値が証明された音楽なのだと思う。

この話は、また別の機会に。



1936年1月4日、アメリカの音楽雑誌「ビルボード」が、世界で初めて体系的な音楽ヒットチャートを発表した。
いま当たり前のように存在する「ランキング文化」の原点だ。

そのトップ10を眺めてみると、正直な感想はこうなる。

「これはロックでもポップスでもない。
どちらかと言えば、ジャズや吹奏楽団で演奏されるナンバーだな」

実際、この時代のヒット曲は、いわゆる“歌手が主役”の音楽ではない。
主役はオーケストラ、もっと言えば合奏そのものだった。

当時の音楽は、ダンスホールやホテルの社交場、ラジオ放送を前提に作られている。
15人、20人規模のビッグバンドが、分厚いハーモニーで同じ旋律を鳴らす。
テンポは安定していて、極端な転調や奇抜な展開はない。
誰が演奏しても成立し、誰が聴いても心地いい。

その構造は、現代の耳で聴くと、どこか「吹奏楽的」に感じられる。

個人の超絶技巧よりも、全体の響き。
即興よりも、よく書かれた譜面。
前に出るソリストよりも、アンサンブルの美しさ。

いまの感覚で言う「ジャズ=自由で尖った音楽」とは、少し違う。
この時代のジャズは、ポップスとしてのジャズであり、
社交のための音楽だった。

だからこそ、旋律は覚えやすく、コード進行は標準化され、
吹奏楽団やビッグバンドが今でも取り上げやすい形で残っている。

面白いのは、ここから先の音楽史だ。

こうした「整った合奏音楽」が主流だったからこそ、
戦後にビバップが生まれ、
さらにロックが「小編成バンド」で革命を起こす。

1936年のヒットチャートは、
ロック以前の世界がどんな音で満たされていたのかを、
とても分かりやすく教えてくれる。



個人よりも集団。
尖りよりも調和。
スターよりもオーケストラ。

いま聴くと少しお行儀が良すぎるかもしれない。
でも、この時代の音楽があったからこそ、
その後の“暴れる音楽”が生まれた。

そう思って聴くと、
1936年のヒット曲たちは、
ただの古い音楽ではなく、
確かに「時代を支えたポップス」だったのだと感じられる。