久しぶりにこのアルバムに針を落としました。
リリースからすでに40年以上——それでも、まるで昨日録音されたように瑞々しく響く名盤です。
全10曲、いわゆる“捨て曲なし”とはまさにこのこと。どの曲からもビリーの音楽への愛と遊び心が伝わってきます。
前作『The Nylon Curtain』が社会問題や人間の内面を鋭く描いたシリアスな傑作だったのに対して、
この『An Innocent Man』ではガラッとトーンが変わり、青春の甘酸っぱさや恋のときめきがあふれています。
ドゥーワップ、R&B、ソウル、モータウンなど、彼が少年時代に夢中で聴いた音楽たちへのオマージュ。
そのどれもが、当時の空気を現代的なポップセンスで再構築した“懐かしくも新しい”サウンドに仕上がっています。
アルバムの1stシングル「Tell Her About It(あの娘にアタック)」は、
まさにエルヴィス・プレスリーやモータウン的なブラス・アレンジを思わせる、軽快で華やかなR&Bナンバー。
そして2ndシングル「Uptown Girl」は、フォー・シーズンズのような明るいドゥーワップの香り漂う名曲。
さらに3rdシングルとしてリリースされたタイトル曲「An Innocent Man」は、
50年代バラードのオマージュで、甘く切ない旋律が心を包み込みます。
この3曲だけでも、ビリーの音楽的ルーツが見事に凝縮されているのがわかります。
「The Longest Time」や「Leave a Tender Moment Alone」など、
温かく包み込むようなメロディが心に残ります。
この頃のビリーは、まるで音楽少年に戻ったように自由で、楽しそうに歌っている。
それがそのまま、80年代という時代の明るさとリンクしているようにも感じます。
アルバムをさらに掘り下げていくと、その音楽的背景の豊かさに驚かされます。
オープニングの「Easy Money」は勢いに満ちたロックンロールで、まるで幕が上がる瞬間の高揚感。
そしてタイトル曲「An Innocent Man」では、ドゥーワップの甘いハーモニーと伸びやかなボーカルが印象的で、
ビリーの中に眠っていた“ロカビリー少年の魂”が一気に目を覚ましたようです。
軽やかなリズムと伸びやかなボーカルが、聴く者を一瞬であの時代へと連れ戻します。
さらに特筆すべきは「This Night」。
ベートーヴェンの“悲愴ソナタ”をモチーフにしたメロディを、驚くほど自然にポップソングへと昇華。
クラシックの重厚さをまったく感じさせず、恋に落ちた夜の甘いムードをそのまま音にしたようなロマンチックな名曲。
こうした“音楽の教養と遊び心の融合”こそ、彼の真骨頂と言えるでしょう。
アルバム終盤の「Keeping the Faith」に至るまで、
どの曲も1950〜60年代の音楽への愛に満ちていて、まるでひとつの映画を観ているよう。
それでいて、単なる懐古ではなく“今を生きるポップス”として完成しているのがこのアルバムの凄みです。
当時のビルボードチャートには、マイケル・ジャクソン、プリンス、ポリス、ヴァン・ヘイレンなど、
モンスター級のアルバムが並んでいました。
そんな中でも『An Innocent Man』は派手さではなく、純粋な音楽の喜びで勝負していた。
それが時を超えて愛される理由なのかもしれません。
中学生から高校生へと成長していたあの頃、
レコード屋で限られたお小遣いを握りしめながら、どのアルバムを買うか何時間も迷った——
その棚の中に、この『An Innocent Man』がありました。
あの頃のざわめき、レコードを袋から取り出す緊張感、そして針が落ちる瞬間の高揚感。
今、改めてその音を鳴らすと、あの時代の街の風とともに、
青春の匂いまでもがスピーカーから溢れ出してくるようです。
やっぱりこれは、今鳴らしたい名盤の一枚です。