鳥の言葉を聴くー第1日目の半分の半分ー16
 

瞑想センターでは、時間を知らせる合図として鐘板を鳴らすことになっていました。
 

画像をアップしたので見ていただければわかりますが、鐘板は帽子型のベルではなく、アンコールワットのシルエットのような形をした銅製の板です。
 

普段は食堂の軒先に吊るされていて、これを木製の槌で叩くと、重くて渋い響きがセンター全体に広がっていきました。
 

朝4時になると、この鐘板がスタッフによって鳴らされ、1日が始まる。
 

この時間だとあたりはまだ暗い。私はなんとか起き出したけれども、昨夜あんなことがあった後ではたいして眠ることもできず、しばらくぼんやりして同室のメンバーたちが支度をしているのを眺めていました。
 

瞑想は4時半から始まるので、それまでに瞑想ホールに行かなくてはなりません。
 

私は瞑想ホールの、後ろの方にある自分の席に座って、とりあえず瞑想を始めることにしました。
 

昨夜のオリエンテーションで聞いた指示にしたがい、脚を組んで瞑目し、自分の呼吸に注意を集中する。
  

瞑想は口呼吸ではなく鼻呼吸でし、鼻孔から空気が出ていく感覚を感じ、また入ってくる感覚を感じる。ただそれだけに集中する。
 

私はしばらくーたぶん5分くらいーそうしてみましたが、すぐに挫折してしまいました。もうそれだけで嫌になった。
 

私は身体が硬いし猫背でもあり、座禅はそれだけも辛い。瞑想をしようとしても、すぐに妄想が入ってきてしまって全然集中できない。なにより眠気がひどい。
 

目をつむると、1分も持たずに眠気が背中にのしかかってくる。頭が重いので首を垂れていると今度は背中が痛くなり、股関節のあたりも軋んできます。
 

朝の瞑想は4時半から朝食の出る6時半までの2時間で、その間私は必死で睡魔と闘っただけでしたが、この時点で疲れきってしまいました。
  

6時半にふたたび鐘板が鳴らされ、朝食。
 

われ勝ちに瞑想ホールを出て食堂に向かい、食事を盛ったお盆を抱えてテーブルにつくと、少しだけ生き返った気がしました。
 

ほかのメンバーも食事をしていますが、当然会話はなく、皿がかちあったりコップをテーブルに置く音が無愛想に響くだけで、なんとなく落ち着かない雰囲気です。
 

そこにいる全員がイライラして、腹を立てているから黙っている。そんな感じなのです。これも私は嫌でした。
 

8時までは休憩時間で休むことができますが、8時から9時までは今度はグループ瞑想になります。
 

グループ瞑想は1日で3回、計3時間あり、この時だけはスタッフを含めたセンターの全員が瞑想ホールで瞑想します。
  

瞑想ホールを取り仕切るのはアシスタントティーチャーで、男女1人ずついます。この時の男性のアシスタントティーチャーはCという、50歳くらいの背の高い白人でした。女性のアシスタントティーチャーはどうもCの奥さんのようでしたが、やはり50歳くらいの日本人です。
 

アシスタントティーチャーは、ゴエンカ氏から直接指導を受けた有資格者で、資格を得るには長年にわたる修行が必要とされています。
 

彼らアシスタントティーチャーが中央上座の席に座り、その脇にはコースを世話するボランティアのスタッフたちが控えている。そして、その上座に向かいあうように、真ん中で男女左右に分けられた私たち参加者が居並んでいるという図で、これが全コースの期間中維持されます。
 

ちなみに、瞑想の指導はアシスタントティーチャーがするのではなく、ほぼすべてがゴエンカ氏の音声を録音したテープによってなされます。
 

ゴエンカ氏の指導は英語ですが、その後に翻訳が付くので問題はありません。それに、参加者には外国人が何人かいるので英語も必要です。
 

とはいえ、グループ瞑想といってもすることは同じで、やはりひたすら呼吸に集中せよと言われるだけです。
 

9時にグループ瞑想が終わると、そのまま引き続き自主瞑想の時間になります。これが9時から、昼食の出る11時まで2時間。
 

自主瞑想といっても、本人が気が向いたら瞑想すればいい、という意味ではありません。瞑想ホールが嫌なら自分の部屋で瞑想してもよい、というだけのことで、この時間にぶらぶらしていることはできない。
 

では、自室での瞑想の方が気が楽かというと、そういうわけでもないのです。自室は風通しが悪く、瞑想ホールほど快適ではないし、緊張感もない。いったん集中が途切れてしまうと意識の全部がガタガタと崩れてしまうような危うさがあり、むしろ瞑想ホールにいた方が楽です。
 

それでも初日の午前中は、自主瞑想の時間といわれてメンバー一同で自室に戻りました。
 

もちろんお互いに示し合わせたわけではありませんが、さてみんなで瞑想をやってみると、自室ではお互いの距離が近くて気詰まりなことこの上ない。
 

食堂の例でもわかるように、沈黙の行の欠点の1つは、周囲の人間が何を考えているのかまったくわからないという点です。
 

たとえば、洗面所で誰かとすれ違った時、肩をぶつけてしまったとします。
 

普通なら一言謝ってそれで終わりです。しかしここでは謝ることすらできない。それではっとして相手の顔を覗きこむと、相手は眉根を寄せてこっちをにらんでいる。
 

この相手の一瞬の表情が、後でどれほどの後悔、不安の種になることか。
 

こちらはそれから何日経ってもあの時の表情が忘れることができず、あの人はまだ自分のことを怒っているかもしれない、なんということをしてしまったのかと不安な気持でいるのですー本当に相手が怒っていたのかどうかもわからないのに。
 

そしてコースも終わった頃になって、お互いに会話が許されるようになって初めて、あの時肩をぶつけてしまって申し訳なかったと、もう5日も前のことを謝ったりする。
 

これは笑い話にしかなりませんが、コース中はそれどころではないのです。
  

こうして、第1日目の半分の半分も経たないうちに、私はここにいるのがすっかり嫌になってしまいました。
 

(続く)
 

写真は、「ミャンマー日記」で紹介したハメティマハーシで見かけた鐘板をつく人達。これと同じ鐘板が京都の瞑想センターにもある。もう1点の写真は、私がミャンマーでお土産として買った小型の鐘板。