鳥の言葉を聴くー砂漠と赤毛の馬ー15
 

オリエンテーションが終わって、入り口に近い場所に座っている人から順に瞑想ホールを出て行く。
 

照明をおさえた瞑想ホールは薄暗く、人の表情がかろうじて見分けられるくらいですが、もうその時点からはっきりと変化がわかります。
 

街を歩いていると偶然に知り合いとすれ違うことがありますが、その時驚いたことはないでしょうか。
 

友達は友達なのですが、その表情が暗く思いつめた様子で、いつも自分が知っている相手とはまったく違う。なにか悩みごとでもあるのかと思うくらいです。
 

しかし、本当はそれが相手の素の表情なのです。人は誰か知っている人間が身近にいると無意識にでも演技をしているもので、常にある程度は周囲に同調している。
 

そういう演技ができない人は変人か子どもみたいな奴だと言われて距離を置かれます。私たちは相手が友達であっても、その素の表情を見たことがないことがありえる。
 

ところが、瞑想ホールでオリエンテーションが終わった途端に、もう全員がそんな表情になっている。ややうつむいた、視線を内側に向けているような、無表情というより「暗い」表情。
 

部屋に戻ると、ほかのメンバーたちが布団を敷いたり、バッグから歯ブラシを取り出しているのが目に入る。みんな無言なので、ビニール袋を開く音が妙に耳ざわりに聞こえたりする。
 

まだ夜の9時過ぎですが、コース中の就寝時間は9時半なので、もう寝なければなりません。それに明日の起床時間は朝4時です。
 

私も部屋の隅の自分のスペースに布団を敷いて横になりました。その頃の私の生活は昼夜が逆転していて、夜中の2時か3時に寝て、正午前にのろのろと起き出すのが普通でしたから、こんな時間からなどきっと眠れないだろうと思う。
 

あるいは、昨夜は夜行バスでの移動であまり寝られなかったし、今日も色々あって疲れているから、もしかしたらすぐ眠れるかもしれない。
 

もちろん、睡眠薬がないのは不安でしたが、この時期の私にとって睡眠薬はもはや眠るための薬ではなかった。それは文字通りの麻薬でしたから、かえって眠る眠らないというところに睡眠薬の心配は出てこない。
 

私はどうしても落ち着かない気分でしたし、エアコンのない室内は蒸し暑くて辛かったけれども、案外すぐに眠りに落ちました。そして2種類の夢を見た。
 

1つ目の夢はわりとわかりやすいもので、私はキャラバンの一行ととともに砂漠を旅していました。砂漠は耐えられないほど暑く、太陽は夕陽のような飴色をして景色全体を染め上げている。私は喉が渇いて苦しく、這うようにゆっくりと砂漠を歩いている。
 

2つ目の夢はさらに単純で、ただ1つのイメージだけですが、こちらの方が興味深かった。それは1頭の馬のイメージで、その赤毛の馬の背中には黄土色の筋の模様が入っている。それが牧場で草を食んでいるだけのイメージ。
 

しかし私がすぐに理解したのは、この馬は私の内側から出てきたものだ、ということでした。それがある意味で私から離れて、私の目の前で動いている。
 

私はだいたい散文的な人間で、霊感などないし、そういう話にあまり興味も持てませんが、この馬のイメージは、私の人生では滅多にないような象徴的存在として今でも強く記憶に残っています。
 

その2つ目の夢を見たところで、私は目が覚めた。そこで私は2度驚くことになりました。赤毛の馬のイメージにも驚いたが、起きてみると着ていたTシャツが汗でびっしょりになっている。注意してみると、布団まで濡れている。
 

胸のあたりのシャツをつまむと、たしかにピチャピチャと音がする。それくらい汗をかいているのです。よくバケツをぶちまけたようなと言いますが、誇張ではなくバケツ一杯分くらい汗をかぶっている。
 

私はうろたえて起き上がりましたが、どうしたらいいかわからない。これほど汗をかいたのは今までであの時一度きりで、ひどい風邪を引いてもあんなになったことはありません。
 

この初回のコースでは私は初歩的なミスをしていて、腕時計を持ってこなかった。敷地内には時計がある場所もありますが、この部屋にはないし、そもそも真っ暗です。だから時間もわからない。
 

もう朝方なのでしょうが、とにかく目が覚めてしまったし、喉がものすごく渇いているので、私は水場で水を飲もうとこっそり部屋を出ました。
 

私が水場に行くと、水道のところでマネージャーが1人でなにか作業をしていました。夜の水場には裸電球がついていて、トタン屋根に吊るされた洗濯物がそれに照らし出されているさまは、まるでどこかのキャンプ場にいるような雰囲気でした。
 

「すいません、今何時か教えてもらえますか?  もうすぐ4時になるんでしょうか?  時計を忘れてしまって…」
 

その時の私の様子と質問がよほどおかしかったらしく、マネージャーはぎょっとした表情をして私を見ました。
 

「いえ、朝にはまだだいぶ時間がありますよ。ほら」
そう言って、彼は水場の壁に掛かっていた時計を指さしました。
 

つられて私も時計を見ましたが、今度は私が愕然とさせられました。時計は10時40分を指している。つまり、私が布団に横になってからまだ1時間くらいしか経っていなかったのです。
 

水場で水を飲み、部屋に戻って湿った布団にうずくまった私が、そこでどんなに心細い思いをしていたか、あらためて説明する必要もないでしょう。
 

全部で10日間あるコースの、その第1日目すらまだ始まっていなかったのです。
 

(続く)
 

スリランカ。キャンディの仏歯寺。この奥に仏歯が納められている。