鳥の言葉を聴くーなにが苦しいのか?ー17
私はコースの初日から心理的に追い詰められました。
敷地内に閉じこもり、炊事も清掃もせず、会話もなく、なにも読まず聴きもせず、ただ座っているだけのことがどれほど苦しいことか。
瞑想の時間では、妄想は「横に置いておく」ようにと言われ、ただ呼吸に集中せよという。
しかし、私はそこで1分も持ちこたえることができず、瞑想からたんなる妄想にすべり落ちてしまう。
妄想といっても多くは他愛のないもので、残してきた仕事の算段をつけたり、家族や友人の行状をあれこれ検討してみたり、お腹が空いたと思ってみたり、昔読んだ小説やマンガの筋を細かく思い出してみたりする。
そして、自分が今妄想のなかにすべり落ちたことにも気がつかず、ただ妄想に溺れている。
瞑想とは、この妄想から絶えず自分を引っ張りあげ、繰りかえし呼吸への意識に立ち戻ることだとも言えます。
ということは、逆に言えば休憩時間ですら、いわば妄想が許されている瞑想の時間なのであって、つまり、本当に瞑想に集中している時と睡眠時を除けば、ここでは常に妄想を続けていることになります。
私にとって、この点こそが最大の誤算でした。
初回の参加者はコースのスケジュールを見て、瞑想の間にそれなりの休憩時間がはさんであるのを知って多少は安心します。この時間には休むことができる、気晴らしをすることができると考えるのですが、実はそうではないのです。
私たちがここで妄想している時間は間違いなく日常の数十倍にあたり、普段の数十倍の密度で自分自身と向き合っているということになります。
ここでなにか気晴らしがあれば、どれほど救われることでしょう。どうにかして自分の気を内側から外にそらせ、こうした妄想を遮断できれば、たとえ一瞬であっても私たちは自分を忘れていることができます。
現にそれが普段の私たちの姿なので、たとえば1時間後の昼食のメニューや、自分とは関係のないニュースや、同僚の軽口に注意を向けていることは確実な逃避になります。
ところがここでは、ただ座るしかない。そこで正しく瞑想ができなければ、私たちは不安定で移ろいやすい妄想に落ち込むことになります。
しかし、それだけではない。いずれすぐに、こうしたありふれた妄想ですら心底ありがたく思われる時が来る。
というのは、妄想というのはしょせん心の水面に浮かんでくる泡のようなもので、ある程度の時間がたてば鳴りをひそめてしまう。
言ってみれば、昔読んだマンガの筋を思い出すのは心の内側での気晴らしであって、それができる間はまだ安全なのです。
しかし、そこから他愛のない妄想の泡立ちが消え、一応は静まった水の面に映る自分自身の本当の姿を見ることこそ、真に恐ろしいことであり、私たちが何がなんでも認めようとせず、日ごろ絶対に避けようとしていることです。
それは、無意識の世界に住むもう1人の自分が書いた、自分自身にたいする判決文が読み上げられることであり、その欺瞞が告発され、逃げ場のない場所に立たされて、その清算を迫る声を聞くことなのです。
(続く)
スリランカ。ふたたびゴール。




