雀ー地球の感覚ー⑦
 

こうした物の見方は、『森の主』や『ワーニャ伯父さん』にも展開されています。
 

『ワーニャ伯父さん』には、アーストロフという中年の医者が登場します。アーストロフは善良な働き者というだけでなく、誠実で聡明な人間として描かれています。
 

また、私はロシア語はまったくわかりませんが、このアーストロフという名前にはEarth=地球という単語が掛けられているのではないかと思います。
 

アーストロフは日々の仕事に忙殺されながらも、休みの時には近隣の森林を保護する活動をしている。彼は過去のデータも取っており、50年前や25年前と比べて、無思慮な伐採が行われたばかりに近年の森がいかに貧弱になってしまったかと嘆いています。最初に引用したセリフはこのアーストロフのものです。
 

アーストロフはこうした事態を人類にとっても危険なものと見て、資料を用意して周囲に訴えることすらする。
 

しかし、あらためて驚かされることにこれは19世紀のロシアの話であって、当然といえば当然ながら、彼の友人たちはただ面白がってアーストロフの話を聞くだけで、心からの関心を持とうとはしない。
 

と言って、アーストロフの存在を周囲が軽んじているというわけでもないのです。優秀な医者としてみんなが頼りにしているのですが、彼の情熱や関心を共有できないでいるだけです。言ってみれば、アーストロフ=地球の人の真価を理解できず、なんとなく使い減らしているわけです。
 

しまいには、アーストロフ自身も幻滅や疲労のために自暴自棄になり、酒に酔って騒いだり、若い人妻に言い寄ってみたりして虚しく時を過ごすようになる。こうして、チェーホフを知っている人ならお馴染みの、少しずつ場が崩壊してゆくような仕方で芝居が終わりを迎えます。
 

環境の破壊にたいするチェーホフの洞察は、天才というものがどれほど遠くまで見ることができるかという一例ですが、この戯曲が今でも新しいのは、私はこのアーストロフのチェーホフの扱い方にあると考えています。
 

今日では、環境問題といえば誰でも一定のイメージを持ち、たとえおざなりな意見でもあっても一言くらいは述べることができます。しかし、私たちの態度は120年前のチェーホフの時代とどれだけ変わっているのでしょうか。
 

要するに、チェーホフの芝居に出てくる19世紀の登場人物たちのように、アーストロフの嘆きを結局はただ面白がって聞いているだけなのではないでしょうか。
 

だからこそ、『ワーニャ伯父さん』のアーストロフの次の皮肉は現在でも痛烈に響くのだと私は思うのです。
 

「なるほど、もしもこんなふうに、森が根絶やしになった跡に、道路が通じ、鉄道が敷けたというのなら、また製粉場や工場や学校が建ったというのなら、そして住民がずっと健康に、ずっと裕福に、ずっと頭が進んだというのなら、私にもうなずけますが、実際はそんな気配は一つもないではありませんか!」
『ワーニャ伯父さん』
 

(続く)